1995年12月のナトリウム漏れ事故からほとんど動いていない高速増殖原型炉もんじゅ。運営の見直しが勧告された。20年もの漂流から何が見えてくるか。国家と技術のあるべき関係は。
■科学者たちの誇大妄想 吉岡斉さん(九州大学教授)
もんじゅは、とっくの昔に無用のものになっています。
もともと高速増殖炉は、ウラン資源節約のために始めた研究開発でしたが、技術の未熟さと建設費用の膨張から、1990年代初めには世界的に行き詰まっていました。
それでも日本は推進したのですが、もんじゅのナトリウム漏れによる火災と、当時の運営主体だった動力炉・核燃料開発事業団(動燃)によるデータ隠しという不祥事が起きた。国民の不信が強まり、政府は計画の見直しを迫られました。
97年末に出された原子力委員会の方針で、実用化に向けたもんじゅ以降の計画は白紙となり、高速増殖炉開発はゴールを失ったのです。
にもかかわらず廃止をうたわなかったのは、国の核燃料サイクル政策自体の見直しとなるのを避けたかったからでしょう。非核保有国として唯一認められた核燃料の再処理という安全保障上の権利を、もんじゅ廃止に引きずられる形で手放したくなかった。
ですが結局、もんじゅはその後もほとんど運転できずに今日に至ります。復活を模索する動きが執拗(しつよう)に重ねられましたが、振り返ってみれば政策が空回りしただけ。まるで「飛べない不死鳥」です。この20年だけでも、もんじゅ向けに投じられた国費は約3千億円になります。廃止を決めていれば避けられた。私は当時「もんじゅを博物館とし技術者は学芸員として再雇用して技術保存を」と提案しましたが却下されました。
原子力にかかわる科学者や技術者は、新技術に挑戦し続けることが重要だと主張します。しかし、科学的言説は、第三者によって検証可能な根拠を伴うことが求められます。もんじゅには何もない。希望的観測を膨らませて語るだけでは科学と言えません。
企業や投資家も、実用化を見通せない技術にお金は出さない。ですから科学者や技術者は、政府から研究開発費を引き出すために誇大妄想的な将来像を語りがちです。もんじゅはその典型でしょう。
東京電力福島第一原発の事故で、原子力を巡る政治的・社会的環境は一変しました。20年前は原子力発電の是非そのものを議論するには至らなかった。今は違います。原発を再稼働したい安倍政権の下でさえ、簡単には動かせない。もんじゅはおろか、軽水炉を含めて原子力は今後、加速度的に衰退するでしょう。
原子力規制委員会の勧告は厳しいようで政策の妥当性そのものには踏み込んでいない。運営組織を代えればいいという延命への逃げ道を与えたと見ることもできます。
もはや誰も本気でもんじゅを動かせるとは思っていない。ここで廃炉を決め、核燃料サイクル政策も見直しの俎上(そじょう)に載せるべきです。(聞き手 論説委員・高橋万見子)
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よしおかひとし 1953年生まれ。専門は科学技術史。内閣府原子力委員会専門委員などを歴任。近著に「技術システムの神話と現実」。
■準国産エネの技術必要 小沢守さん(関西大学教授)
長期的な視野に立てば、たとえコストがかかっても、新たに燃料を生み出す高速増殖炉は資源の少ない日本にとって必要な技術だと思います。
高速増殖原型炉もんじゅは海外からの技術導入で始まった商業原発とは異なり、初めての国産技術開発でしたから、さまざまな困難があるのはむしろ当然です。事故やトラブルから学びながら、開発を進めていかなければなりません。
開発途上であることを考えれば、推進母体の国や規制当局はもちろん、国民も配慮が必要だと思います。そうした開発段階の位置づけを社会に理解してもらえるよう、日本原子力研究開発機構は努力を重ねなければなりません。
技術開発には、継続性が求められます。いったん途絶えれば、そのマイナスを埋めるのは困難です。今月、国産初のジェット旅客機MRJ(ミツビシ・リージョナル・ジェット)が初飛行しましたが、YS11以来、国産旅客機開発が半世紀も途絶えていたため、日本の航空機産業は競争に出遅れました。基盤技術の確立は容易ではありません。
もっとも、もんじゅの開発体制は、出発点からいくつか問題を抱えていました。我が国の技術開発力の全般的なレベルアップを名目に、三菱重工業や東芝、日立製作所など複数のメーカーと、国との分業体制がとられた。これがあだになった面があります。
開発や運転にかかわったメーカーや電力会社から派遣されたのは、いわば応援社員で、何年かすれば自社に戻ってしまう。現場で運転管理技術を蓄積させることは、なかなか難しい状況でした。
一方、当初の運営主体だった動力炉・核燃料開発事業団(動燃)では組織改編が続き、幹部が現場の声をすくいあげる体制が乏しかった。もんじゅが長期間停止した結果、設計に当たった動燃の技術者がいなくなり、やる気を失う職員もいたと思います。技術開発は同時に人材育成でもありますが、システム全体を見渡せる人材が育ちにくかった。そこを見直す必要があります。
昨年、閣議決定されたエネルギー基本計画で、もんじゅはいわゆる「核のごみ」とも呼ばれる高レベル放射性廃棄物の有害度を低減する研究施設として位置づけられました。これでは、準国産エネルギーを得て、輸入に頼るウランや化石燃料への依存度を減らすという、そもそもの目的は達成できません。本末転倒だと思います。
将来のエネルギー源の選択肢を増やすという本来の目的に戻し、高速増殖炉の実用化をめざす開発を進めるべきです。その研究開発は、ナトリウムを冷却材に使う技術などの蓄積がある、原子力機構にしか担えないと思います。(聞き手 編集委員・服部尚)
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おざわまもる 1950年生まれ。専門は熱工学。原子力機構もんじゅ安全・改革検証委員会委員など、もんじゅの技術開発に長く関わる。
■幽霊を飼うようなもの 高村薫さん(作家)
もんじゅの計画段階では石油危機もあり、資源小国として新しいエネルギー源が必要だったし、高速増殖炉という最先端の科学技術に夢を託したい。その発想は理解できるんです、半世紀前なら。
しかし、状況は刻々と変わります。事業や計画は当然、常に見直さなければならないのにそれができず、走り出したら止まらない。なぜか。日本の官僚機構には事業を評価し責任を取るシステムがないからです。だから見直す理由がない。時代状況に合わなくなっても事故を起こしても、採算がとれなくなっても。
政治が見直しを促すべきですが、その意志も能力もないまま、全く実現する見通しのない巨大プロジェクトが意味もなく続いてきました。この国の20年、30年先のことをまともに考えていないということです。もんじゅは幽霊を飼っているようなものですね。あたかも生きているかのように皆で守っている。
装置が落下するなど、お粗末な事故も続きました。人間はロボットではないから必ずミスする。東京電力福島第一原発でも、事故から4年以上たつのに汚染水の処理すらできていない。そんな現実が私たちに突きつけているのは、原子力という技術は人間の手に余るということです。
昔は、技術と人間の身体はつながっていました。機械化されてもかろうじてつながっていましたが、コンピューター制御になり、現場の技術者は山のように出てくるデータと自分がやっている作業とを正確に関連づけるのが難しくなってしまいました。
近づけない、見られない、データを通して知るのみ。原子力はまさに、人間の身体と切り離された巨大技術の典型です。技術と人間の身体感覚の関係でここまでならなんとかなる、という限界を超えてしまった怖さがあります。
技術と人間の関係も見極めて決断する、そういう英知を政治家が持つべきですが、それが無理ならせめて、総額1兆円もの税金を投じて何一つ動いていない、そのことにおそれおののくべきでしょう。
国民の側も「もんじゅ、何それ」では? 加担している部分がないとはいえません。
小説「神の火」で丸腰の人間による原発テロを描いたのは、湾岸戦争で米国の地下貫通型爆弾が砂漠の防空壕(ごう)の厚さ5メートルの天井を突き破ったことがきっかけでした。ミサイル技術も進んでおり、1メートル程度のコンクリートなどひとたまりもない。そんな状況で原発を動かしていることの危うさに気づかないのか、という思いでした。
国の防衛をいうなら、日本海側にずらりと並んだ原発をどうするんだと。持ってはいけない施設になったんです。ただ、廃炉のためにも技術を絶やしてはなりませんが。(聞き手・辻篤子)
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たかむらかおる 1953年生まれ。商社勤務を経て90年に「黄金を抱いて翔(と)べ」で作家デビュー。直木賞選考委員。最新作は「空海」。
◆キーワード
<もんじゅ(福井県敦賀市)> ウランとプルトニウムを燃料に、消費した以上のプルトニウムを生み出す高速増殖炉の原型炉。建設と維持管理に約1兆円が投じられた。原子力規制委員会は今月、運営主体を日本原子力研究開発機構から代えるよう文部科学相に勧告した。