2019/7/8訪問。
7月6日に公民館の歴史講座相模原の戦国史〜北条氏・武田氏の三増合戦〜に参加。
少し詳しく書きますと、『1569年(永禄12)10月、小田原の北条軍と甲斐の武田軍が激突した「三増峠の戦い」。北条早雲没後500年を迎え、この合戦に至るまでの北条氏・武田氏たち戦国武将が繰り広げた駆け引きを紐解き、合戦にまつわる相模原の史跡等を紹介します』という講座でした。
北条氏・武田氏の敵対との章に武田氏の小田原攻めと三増合戦というのがあって、三増合戦は永禄12(1569)10月にありました。三増峠は相模原市南区下溝とは相模川を挟んだ向かい側の愛川町にあります。
で『甲陽軍艦』には信玄公が相模原下溝周辺に陣取りしてたとか。で、下溝に信玄が小田原攻めの際、戦勝のさい先を祝って植えたと伝わるさいかちの木があると紹介されました。
マイ巨木ブームな今、歴史好きとのコンボの木が近所あるなら見たい!と思った私。資料に貼り付けてある木の画像だけでたどり着ける気が全くしなかったので、講師の先生に尋ねました。ええ、それはしつこく。行ける!と確信するまで何度もたずねましたよ・
最初の解凍は「八景の棚の近く」だったけど、それでたどり着けるものか!八景の棚なら年2度程度は見に行ってる。それでも木の存在は知らなかったんだ。
もっと具体的にと重ねて聞いたら「スナックさいかちの向かい側」と分かりやすい答えを引き出したので、それを目印にやってきました。
ご覧の通り、きわまで道路で、歩道がない!ちなみに、目的の木はもう見えてます。道路の向こう側です。
道を渡って見上げる。え〜と、永禄12年は1569年だから信玄がさいかちの木を植えたのが今からちょうど450年前。
え??この木が本当に450年前からここに立ってる木なの?それにしては一見ショボいんだけども?
分かります?幹にがっつり空洞があります。これがあるから木は高くなれなかったんだろうね。何しろさいかちの木の裏は崖なんです。相模川の段丘の上にさいかちの木が立ってるんだ。高さがあったら倒伏してただろう。
幹の中央にでっかい穴があるのに、よく450年も立ってるなあ。それに感動します。
さいかちの木のぎりぎりまで道路になってて、無理やり石碑を設置してます。
なんとか読めるかなあ?
「さいかちの碑 この地は⚫︎く雨降 丹沢の霊峰⚫︎⚫︎ 相模川の清流を望む景勝さいかち原とある。
その名称の由来は崖上敬⚫︎のさいかちは⚫︎⚫︎武田信玄小田原進攻の際戦勝を祝い植えたものといわれる。そして中腹の横穴は敗軍の将士の自刃の処と伝えているがそれはまた横穴式古墳の跡でもあり遺物遺骨が発掘されている。(後略)
昭和43年戌申十月三日」
お願いだから説明板を設置して欲しい。石碑は読めないと意味ないと思うんだ。
木のたもとにも古い石碑がある。
ちなみに、歴史講座の先生いわく「さいかちを戦勝のさい先を祝って植えたというのは珍しい。この木くらいしか出てこない。」とおっしゃってました。
ちなみに、さいかちの木ってご存知ですか?
wikiによりますと、サイカチ:マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属の落葉高木。樹齢数百年というような巨木もある。木材は建築、家具。器具。薪炭用として用いる。
豆果は生薬で生痰薬、利尿薬として用いる。
またサポニンを多く含むため古くから洗剤として使われている。さやを水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用した。豆はおはじきなど子供の玩具としても利用される。」ですって。
あれだ。ラノベで流行りの転生モノによく出てくるやつ。昔日のお手軽石鹸ですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます