あられの日記

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その2)水師営会見所

2010年09月14日 04時17分28秒 | 旅順・大連旅行記
中国と日本の時差はー1時間。
大連の周水子空港到着12時25分。成田出発が遅れたのに、10分遅れでの到着は嬉しいです。
さくさく手続きは進み、空港ビルを出て観光バスへ。そこで中国側の旅行会社さんの挨拶と大連名物土産の青い切り子グラスのプレゼントをいただきました。

そんなこんなで大連を13時には出発です。
大連は日本人には馴染みある地名ですね。
現在の人口は600万人。旅の目的地、旅順の人口は21万人程。昨日の記事の最後の方に少し書きましたが。本来緯度が仙台と同じ大連は東京より2-3度は気温が低い場所です。夏の平均気温は28度。冬はー15度ってレクチャーをガイドの楊さんからありましたが、熱波が襲来中。「先週ここより北のシン陽(「シン」はサンズイに審)に行ったら40度あったんですよ。大連は過ごし易いです」とかフォローになんないフォローをいただきつつバスは冷房全開。
や、私は聞き間違いかと思いましたよ。YHAOO!のお天気予報ではですね。本日の大連は最高30度/最低20度。晴れのち雨の予定だったんですよね。
バスの中でガイドの楊さんにより両替。時間短縮と今日明日滞在する旅順は去年の9月まで外国人の立ち入りを禁止していた事もあり、日本円を元に両替出来ない為、旅行会社の配慮です。
「旅順で買い物するものありません。せいぜい飲み物位です。一人2000円位両替すれば充分です」とか。
なので私とダンナと合わせて5000円分を両替。楊さんレートは5000円で350元。
え~と、それって1元=14.29円ということに。
大連から旅順まで約45キロ程。1時間の距離です。道沿いに時折さくらんぼの木が見えます。このあたりは果物の産地なんだそうです。具体的にはいちご。さくらんぼ。すもも。あぶらもも。りんごとか。だから名物もこれらを使ったお菓子なんだって。
う~む。食事にそういうのが登場するといいなあ…。
ドリームを膨らませていると…。
添乗員さんが用意して来たペーパーを配り始めました。
何々…。『水師営の会見』作詞者 佐々木信綱 作曲者 岡野貞一。
楊さん「それではみなさん一緒に唱いましょう」
ええ~~~~っ!!
するとどうでしょうか?皆さん何事もなく、ペーパーに書かれた歌詞を見て、いや、それを見る事もなく唱和し始めたのです。
一体何事が起ったのか…。
戦後生まれには衝撃の展開が次々と!
衝撃の一端を紹介しますと、バスで皆さんが唱和している歌詞はこう。
1番。 旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の所はいずこ水師営
2番。 庭に1本なつめの木 弾丸あともいちじるしく くずれ残れる民屋に いまぞ相見る二将軍
とここまで歌いました。歌詞は9番まで続きます。何で皆唱えるのか、後に尋ねてみたら、どうも戦前小学校の教科書に載ってた歌みたいなんだよねえ。
そう、旅順って「日露戦争」の舞台なんですよ。
去年の年末NHKで司馬遼太郎の「坂の上の雲」という小説をドラマ化して放送されましたが見ましたか?
私は見ました!
ドラマの原作「坂の上の雲」は文春文庫全8巻もあるんですよ。去年の放映は原作の前半。旅順の戦いはまだ放映になってないので続編あるならそのうち放映あるんじゃないかな~。
で、この後訪れる「水師営」は日露戦争に於いて歴史的な会見が行われた場所なのですよ。
日露戦争における大きな戦いは何と言っても203高地攻略戦とバルチック艦隊海上戦です。
水師営は203高地が陥落した後、ロシアの司令官ステッセルと日本の乃木希典が会見を行った場所なんですね。ええ。まさにそれがトップ画像。(ようやく解説まで辿り着きました)
名著「地球の歩き方」によりますと、『203高地の陥落を受け、1905年1月1日旅順総司令官ステッセル中将から降伏の申し入れがあり、翌日日本側がこれを受入、旅順での戦闘は終了した。そして、1月5日に乃木将軍とステッセル中将がここ水師営で会見をした』と書かれてます。
トップ画像は当時の史料に基づき再建されたもの。
では臨場感を盛上げるべく、文春文庫 司馬遼太郎「坂の上の雲(五)」314ページより抜粋。
『会見の場所は水師営である。水師営とは村の名前であり、その会場として指定されたのは劉という百姓家であった。戦闘中この家は日本軍の野戦病院に使われていた。』
「庭に一本棗の木」水師営の会見の時にはこの木に馬を繋いだそうですが…。

(現在の棗は乃木将軍時代から数えて3代目の木だそうです。でも7月に葉っぱもつけてないって…。手入れが足りないんじゃないかな~)『坂の上の雲(五)』へ戻る。
と、『前出の「水師営」の歌にもあるように、門を入って右の泥塀に沿って棗の木がある。樹齢百年以上といわれているが、歌詞に「弾丸あともいちじるしく」と唱われているように、無数の弾痕が樹皮を裂いていて生肌をあらわしている。(中略)
机がある。
幅は腕の長さ程で、長さは1、8メートルほどの祖末なもので、この民家が野戦病院であった時の手術台であった。

この手術台が使用されていた時、しばしば弾が窓から飛び込んできた。その弾痕があちこちについていた。それが見苦しいというので、白布がかけられた。ステッセルとその幕僚は、この机のまわりの椅子に腰をおろし、乃木を待った。』
今建っている水師営の会見所は色々細かに会見当時を再現されてます。
下の画像が二将軍のロシア側の控え室兼会見場所です。

上の画像の中にある写真はこれ。

中央にいるのが乃木将軍とステッセル。会見の時にこの地で撮影されたものです。
なぜに奥の壁に白い布がかけられてるかというと、これまた史実の再現です。
以下、添乗員さん配布のコピーより。
”会見前日、壁に残っている弾のあとを、ともかくも新聞紙で張った。下見分をした乃木将軍は、陣中にふさわしい会見所の情景に微笑んだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、
「あの新聞紙を、白くぬっておくように」と言った。
新聞紙は、ロシア軍敗北の記事で満たされていたからである。”
この辺りの知識がないと、水師営はただの古い民家にしか見えません。
実際祖末で小さな建物だし。

なっ?
ちなみに、この家屋の周辺は今の中国の街でして、事前学習して訪れないと感慨も味わえないかと。

ねっ。これ、トップ画像を撮影した場所から90度右側に首を振っての情景です。
ちなみに、トップ画像中央奥の建物。左側がロシア側の控え室。右側が日本側の控え室でした。
日本側の控え室には会見の両国代表の集合写真や日露戦争の写真を展示してます。
こんな感じで。 ええこんな。
(上2枚の写真は、旅順口閉塞作戦。旅順のロシア軍艦殲滅に使用された榴弾砲と、日露戦争の重要な作戦を示す写真です)


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