それから一ヶ月くらい経つと、ようやく気持ちが落ち着いてきました。
で、「TOKYO温度」のDV云々Dのことが気になってきたので、試しにキャロットカンパニーのHPを開いてみました。
しかし、それについては、全くアップされていませんでした。
それどころか、所属タレントのコーナーが、削除されていました。
彼らはあの後クビになったのか、或いは自分たちから愛想尽かして出て行ったか…。
そのどち . . . 本文を読む
この「TOKYO温度」は…、ですから笑い過ぎ…、この自主制作映画は、実際に日本各地の町興しイベントへ持って行って、そこで上映する、…はずでした。
少なくとも、最初に磯江氏がわたしたちに説明したコンセプトは、そうでした。
そして、舞台挨拶にわたしたちを登場させて、ミニトークショーへと持っていく、そんなことも熱っぽく語っていました。
ですからわたしたちは、当然一方で町興しイベントの企画も進行し . . . 本文を読む
またそれか…、とわたしは内心ウンザリしました。
イベント企画会社としてはそこそこらしいですが、本業なる映像屋としては、しょせん下請けレベルでしかないこの男に、果たしてどれだけギョーカイの芯(ピン)に力を持っているのやら…。
なんといっても、その役者が出世するもしないも、結局は事務所とマネージャーの“押し”の強さに掛かっているわけですから。
そうですよ。
当人の実力なんて、関係ないんです。
. . . 本文を読む
二十五歳―
世の中の女性のタレント志望が、そろそろ焦りだす年齢でもあります。
あと五年で三十代、もう“若い”と言える年齢ではなくなってくるわけですよ、あのギョーカイでは。
十代後半から二十代前半が、タレントとして最も光り輝く時期―なんて考えるタイプのコは特に、
「何とかして結果を出さなきゃ…!」
といった傾向が顕著で。
それでいろいろなことやって、結局は失敗に終わるんです。
そのま . . . 本文を読む
その人とは、翌朝の朝食バイキングで、初めて会いました。
向こうから声を掛けてきたんです。
「お食事中に失礼ですが、昨日、宴会場のステージで、舞踊ショーをやっていた方ですよね…?」
と。
「はい…」
誰だろう、劇団ASUKAの追っかけかしら、と思いながら返事をすると、その人は自分はこういう者です、と名刺を差し出しました。
それには、
“キャロットカンパニー代表 映像作家 磯江寿尚” . . . 本文を読む
とりあえず、
「飛鳥武流は都合により本日は休演させていただきますが、代わりに一座の若手花形が、ワンマンショーで勤めます!」
という触れ込みでいくことにしました。
担当者の男は名前について、「お客はどうせ分からないのだから“飛鳥琴音”を名乗ってしまえば」、と言いましたが、わたしはキッパリ、高島陽也でいく、と答えました。
もっとも彼は、わたしが女なのに“はるや”なんて男名前を名乗っているもの . . . 本文を読む
車寄せに付けたトラックへ走って行く運送屋さんの姿を見ながら、わたしはなぜあの人がいきなりこちらへ寄って来たのか、やっと理解しました。
とんでもない人違いをしてくれたものです。
普通だったら、ここでイヤーな気分になるところです。
しかし本来の「琴音さん」は、もうこの世にはいないのです。
そのことが、わたしを複雑な思いにさせました。
何とも言えずにチャバコをを振り返ったわたしに、それま . . . 本文を読む
ホテルのレストランで朝食を済ませて、部屋へ戻ってTVをつけながら、東京へ戻る支度をしている時でした。
未明に山梨県内の中央自動車道下り線で、沿道の山から大岩が落下して安全柵を突き破り、ちょうどそこを通り掛かったワンボックスカーに直撃して車は大破して横転、乗っていた、
「劇団座長・飛鳥武流こと山田武さんと同乗者の男女四名は病院に運ばれましたが、間もなく全員死亡が確認されました」
と云うニュー . . . 本文を読む
そんなこんなで、二年くらいやっていましたかね。
で、山梨県の石和温泉で、ある胃薬の、CMロケがあったんです。
温泉観光ホテルの大宴会場で、みんな浴衣にドテラ姿でワイワイやってるシーンを撮ったわけです。
確か、忘年会シーズンに当てて流すCMだったと思います。
エキストラチームは午前中にロケ地の観光ホテル前に集合して、撮影は正午くらいからスタート、いくつかのパターンを撮ったり、間にけっこう待 . . . 本文を読む
まさか、本当にこうしてまたお目にかかるとは、思ってもいませんでした。
あれからもう、…そうですね、八年ですよね。
前回は、二十歳になって間もない頃で…、って言うと、いまの年齢(とし)バレちゃいますね。
いいんです、隠さないんです、わたし。
再来年で、“アラサー”ですよ。
まあ、“アラフォー”の域に入ってきたら、黙っていようかと…。
はは、ありがとうございます。
ウソでも、そう言 . . . 本文を読む
“たかしま はるや”さんには、もう逢えないかもしれない…。
会期も残り一週間を切ると、僕はだんだんと諦めの境地へと入って来た。
それで気が抜けたからか、僕は風邪をひいて、完全にダウンしてしまった。
もっとも、かなり根を詰めて制作に励んだので、そのリバウンドもあったのだろう。
完治したのは、実に最終日のことだった。
本当は午前十時の開場からその場にいたかったけれど、体調にまだ自信がなか . . . 本文を読む
μのライヴから半月後、またまだ残暑厳しい季節に、“たかしま はるや”さんを描いた大和絵は、「あづまあそび図」というタイトルを付けて、正式に完成した。
「あづまあそび」とは、夏に薪能で観た「羽衣」の一節、
“東遊びの数々に その名も月の色人は…”
から採ったものだ。
そして「あづま」には、“たかしま はるや”さんと出逢った、“東北”も掛っている。
結果的に、完成した絵は当初の「伊豆の踊子 . . . 本文を読む
八月二十一日。
それは、近江章彦が意を決して出掛けた日。
どこへ?
ライヴへ。
何の?
“μ”の!
μのメジャーデビュー一周年記念ライヴツアーは、七月に彼らにとっては縁深い福岡をスタートすると、仙台までのぼってそこから南下、この日の東京公演が、ファイナルなのだ。
しかも会場は、五年前に山内晴哉と別れたあの複合商業ビルの、そのなかの大ホール。
五月のチケット一斉発売日を過ぎても . . . 本文を読む
こうして「伊豆の踊子」の“たかしま はるや”さんは、デッサンから実に六年の歳月を経て、色彩をほどこされた大和絵に再現された。
彼女が本当に“たかしま はるや”と云う名前であったかどうかは、もはや問題ではなかった。
あの日確かに彼女に出逢ったと云う、その“思い出”が大事なのだ。
ところが、いざ仕上がってから、僕は意外過ぎる事実に気が付いた。
「なんか、違う。なんか、足りないような…」
. . . 本文を読む
バンド名はそのままに、ヴォーカルがHARUYAにチェンジして再出発したμだけれど、“祥斗”時代の印象が強く残っているかつてのファンたちにはやはり抵抗があって、そちらからの支持は殆ど得られなかった。
でもその代わりに、RUSHADE時代のHARUYAのファンと(まだそういう人々が存在していたことに、何よりもHARUYA本人が驚いたらしい)、それらの“過去”とは関わりの無い純粋な新しいファンを獲得し . . . 本文を読む