「ちなみに金澤さんは、その農村歌舞伎に出られたことは……?」
僕は彼女の瞳(め)をさりげなく注視しつつ、訊ねた。
「十三歳のときに、一度だけ……」
金澤あかりはそう答えて、口許だけで笑ってみせた。
そしてわずかに目線を伏せたきり、あとを続けようとしなかった。
あまり触れたくない―
そう言いたいように見えた。
目線を伏せたのは、心の内を読まれたくなかったからかもしれない。
しかし彼女は、気まずくなりかけた空気を、「あ、ごめんなさい……」と、はにかんで払うと、
「伝統的な仕事を受け継いでいらっしゃる近江さんがすごいな、と思って……。それでわたしも、自分の“家”のことを話したくなって。わたし、近江さんのように、人に雇われないで自分の技(うで)で生きている人が、羨ましいです」
「はあ」
金澤あかりは、話題を変えたいようだった。
僕は素直に、乗ることにした。
「しかし金澤さんには、ボクシングという技術があるではないですか」
「ああ……」
金澤あかりは、顔の前でいやいや、と小さく手を振った。
「プロ、なんですか?」
「まさか……!」
金澤あかりは吹き出した。
が、すぐに「あ、ごめんなさい……」と指先で軽く口を抑えると、
「思いきりのアマチュアですよ。……しかも、選手と言えるほどのレベルでもありません」
僕は、暴漢が振り回す刃を、至近距離で敏捷にかわしていた姿を思い出した。
あれはとても、素人技とは思えなかったが……。
「いつから習っているんですか?」
「中学三年生からです。だから……、六年になるかしら」
とすると、いま彼女は二十歳か、二十一歳なのか……。
若いなぁ、と僕は今さらながら、自分が三十代である現実を思い知らされた。
「将来は、ボクサーになることを……?」
とんでもない、と否定する金澤あかりは、しかし瞳(め)は明るかった。
たぶん、ボクシングが楽しいのだろうと思った。
「わたしなんかのレベルでは、とっても無理です。そもそも始めたきっかけは……」
金澤あかりは一度言葉を切ると、口許に笑みをたたえて、「自分に対して強くなりたいから、です」
それはむしろ、自身に言い聞かせているようでもあった。
「自分に?」
金澤あかりは頷くと、
「わたし子どもの頃、とても泣き虫だったんです。
そもそも農村歌舞伎に出たのも、そんなわたしの性質を心配した母方の祖父が、心身を鍛えさせるために、そうしたようです。
ところがそのあとで父親が亡くなり、わたしは中学二年生で、東京に出てきました。
そうしたら、その直後にわたし、電車で痴漢に遭ったんです」
「ほう……」
「その時はとても怖くて、なにも出来なかったんです……。
痴漢に遭ったのもショックでしたけれど、なにも出来なかった自分の弱さに、むしろ腹が立って……。
でもそのくせ、メソメソと泣いてばかりいました」
金澤あかりは目許の泣き黒子を指で示すと、
「これ、そのときに出来たようです……」
金澤あかりの容貌にひとつのアクセントを与えているそれには、そんな経緯(いきさつ)があったのか……。
「そのときですね、本気で『強くなりたい!』と思ったのは。
その後、中学校で職場体験学習というのがあって、その時の割り当てでわたし、男子たちと都内のボクシングジムに行かされたんです。
その時にシャドウボクシングの基本を教わったり、実際にサンドバッグも叩いてみたんですけれど、なんだかとても気分がスカッとして……」
金澤あかりがあまりにも楽しそう話すので、僕もつい笑いがこぼれた。
「それが、出会いだったんですね」
「ええ。もう『これだ!』って……。
職場体験学習が終了してから、わたしすぐ、会長に入会を希望したんです。
男子中学生の練習生はすでに一人いたんですけど、女子の練習生はわたしが第一号でした」
それでもパッと見は、そういうスポーツをやっている女性には、とても見えない。
しかし、あの危機で見せたあの敏捷さは、間違いなくボクシングで身に付けた技だ。
「そのおかげで金澤さんは、あのとき自分の身を……」
僕がそう言いかけると、彼女は首を横に大きく振った。
「あれは、近江さんのおかげです。近江さんが、わたしを助けてくれたんです」
はっきりとした口調で、僕をまっすぐに見た。「本当に、ありがとうございます」
金澤あかりに深く頭を下られて、僕は急に照れ臭くなった。
「それにしてもあの時……」
金澤あかりは思い出し笑いに肩をちょっとすくめると、「まさか消火器を噴射するとは、思いませんでした……」
「いやぁ、あれは……」
僕はさらに照れ臭くなって、手を首の後ろに当てた。
続
僕は彼女の瞳(め)をさりげなく注視しつつ、訊ねた。
「十三歳のときに、一度だけ……」
金澤あかりはそう答えて、口許だけで笑ってみせた。
そしてわずかに目線を伏せたきり、あとを続けようとしなかった。
あまり触れたくない―
そう言いたいように見えた。
目線を伏せたのは、心の内を読まれたくなかったからかもしれない。
しかし彼女は、気まずくなりかけた空気を、「あ、ごめんなさい……」と、はにかんで払うと、
「伝統的な仕事を受け継いでいらっしゃる近江さんがすごいな、と思って……。それでわたしも、自分の“家”のことを話したくなって。わたし、近江さんのように、人に雇われないで自分の技(うで)で生きている人が、羨ましいです」
「はあ」
金澤あかりは、話題を変えたいようだった。
僕は素直に、乗ることにした。
「しかし金澤さんには、ボクシングという技術があるではないですか」
「ああ……」
金澤あかりは、顔の前でいやいや、と小さく手を振った。
「プロ、なんですか?」
「まさか……!」
金澤あかりは吹き出した。
が、すぐに「あ、ごめんなさい……」と指先で軽く口を抑えると、
「思いきりのアマチュアですよ。……しかも、選手と言えるほどのレベルでもありません」
僕は、暴漢が振り回す刃を、至近距離で敏捷にかわしていた姿を思い出した。
あれはとても、素人技とは思えなかったが……。
「いつから習っているんですか?」
「中学三年生からです。だから……、六年になるかしら」
とすると、いま彼女は二十歳か、二十一歳なのか……。
若いなぁ、と僕は今さらながら、自分が三十代である現実を思い知らされた。
「将来は、ボクサーになることを……?」
とんでもない、と否定する金澤あかりは、しかし瞳(め)は明るかった。
たぶん、ボクシングが楽しいのだろうと思った。
「わたしなんかのレベルでは、とっても無理です。そもそも始めたきっかけは……」
金澤あかりは一度言葉を切ると、口許に笑みをたたえて、「自分に対して強くなりたいから、です」
それはむしろ、自身に言い聞かせているようでもあった。
「自分に?」
金澤あかりは頷くと、
「わたし子どもの頃、とても泣き虫だったんです。
そもそも農村歌舞伎に出たのも、そんなわたしの性質を心配した母方の祖父が、心身を鍛えさせるために、そうしたようです。
ところがそのあとで父親が亡くなり、わたしは中学二年生で、東京に出てきました。
そうしたら、その直後にわたし、電車で痴漢に遭ったんです」
「ほう……」
「その時はとても怖くて、なにも出来なかったんです……。
痴漢に遭ったのもショックでしたけれど、なにも出来なかった自分の弱さに、むしろ腹が立って……。
でもそのくせ、メソメソと泣いてばかりいました」
金澤あかりは目許の泣き黒子を指で示すと、
「これ、そのときに出来たようです……」
金澤あかりの容貌にひとつのアクセントを与えているそれには、そんな経緯(いきさつ)があったのか……。
「そのときですね、本気で『強くなりたい!』と思ったのは。
その後、中学校で職場体験学習というのがあって、その時の割り当てでわたし、男子たちと都内のボクシングジムに行かされたんです。
その時にシャドウボクシングの基本を教わったり、実際にサンドバッグも叩いてみたんですけれど、なんだかとても気分がスカッとして……」
金澤あかりがあまりにも楽しそう話すので、僕もつい笑いがこぼれた。
「それが、出会いだったんですね」
「ええ。もう『これだ!』って……。
職場体験学習が終了してから、わたしすぐ、会長に入会を希望したんです。
男子中学生の練習生はすでに一人いたんですけど、女子の練習生はわたしが第一号でした」
それでもパッと見は、そういうスポーツをやっている女性には、とても見えない。
しかし、あの危機で見せたあの敏捷さは、間違いなくボクシングで身に付けた技だ。
「そのおかげで金澤さんは、あのとき自分の身を……」
僕がそう言いかけると、彼女は首を横に大きく振った。
「あれは、近江さんのおかげです。近江さんが、わたしを助けてくれたんです」
はっきりとした口調で、僕をまっすぐに見た。「本当に、ありがとうございます」
金澤あかりに深く頭を下られて、僕は急に照れ臭くなった。
「それにしてもあの時……」
金澤あかりは思い出し笑いに肩をちょっとすくめると、「まさか消火器を噴射するとは、思いませんでした……」
「いやぁ、あれは……」
僕はさらに照れ臭くなって、手を首の後ろに当てた。
続