迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ごゑんきゃうげん5

2017-03-23 05:27:35 | 戯作
「ちなみに金澤さんは、その農村歌舞伎に出られたことは……?」

僕は彼女の瞳(め)をさりげなく注視しつつ、訊ねた。

「十三歳のときに、一度だけ……」

金澤あかりはそう答えて、口許だけで笑ってみせた。

そしてわずかに目線を伏せたきり、あとを続けようとしなかった。

あまり触れたくない―

そう言いたいように見えた。

目線を伏せたのは、心の内を読まれたくなかったからかもしれない。

しかし彼女は、気まずくなりかけた空気を、「あ、ごめんなさい……」と、はにかんで払うと、

「伝統的な仕事を受け継いでいらっしゃる近江さんがすごいな、と思って……。それでわたしも、自分の“家”のことを話したくなって。わたし、近江さんのように、人に雇われないで自分の技(うで)で生きている人が、羨ましいです」

「はあ」

金澤あかりは、話題を変えたいようだった。

僕は素直に、乗ることにした。

「しかし金澤さんには、ボクシングという技術があるではないですか」

「ああ……」

金澤あかりは、顔の前でいやいや、と小さく手を振った。

「プロ、なんですか?」

「まさか……!」

金澤あかりは吹き出した。

が、すぐに「あ、ごめんなさい……」と指先で軽く口を抑えると、

「思いきりのアマチュアですよ。……しかも、選手と言えるほどのレベルでもありません」

僕は、暴漢が振り回す刃を、至近距離で敏捷にかわしていた姿を思い出した。

あれはとても、素人技とは思えなかったが……。

「いつから習っているんですか?」

「中学三年生からです。だから……、六年になるかしら」

とすると、いま彼女は二十歳か、二十一歳なのか……。

若いなぁ、と僕は今さらながら、自分が三十代である現実を思い知らされた。

「将来は、ボクサーになることを……?」

とんでもない、と否定する金澤あかりは、しかし瞳(め)は明るかった。

たぶん、ボクシングが楽しいのだろうと思った。

「わたしなんかのレベルでは、とっても無理です。そもそも始めたきっかけは……」

金澤あかりは一度言葉を切ると、口許に笑みをたたえて、「自分に対して強くなりたいから、です」

それはむしろ、自身に言い聞かせているようでもあった。

「自分に?」

金澤あかりは頷くと、

「わたし子どもの頃、とても泣き虫だったんです。

そもそも農村歌舞伎に出たのも、そんなわたしの性質を心配した母方の祖父が、心身を鍛えさせるために、そうしたようです。

ところがそのあとで父親が亡くなり、わたしは中学二年生で、東京に出てきました。

そうしたら、その直後にわたし、電車で痴漢に遭ったんです」

「ほう……」

「その時はとても怖くて、なにも出来なかったんです……。

痴漢に遭ったのもショックでしたけれど、なにも出来なかった自分の弱さに、むしろ腹が立って……。

でもそのくせ、メソメソと泣いてばかりいました」

金澤あかりは目許の泣き黒子を指で示すと、

「これ、そのときに出来たようです……」

金澤あかりの容貌にひとつのアクセントを与えているそれには、そんな経緯(いきさつ)があったのか……。

「そのときですね、本気で『強くなりたい!』と思ったのは。

その後、中学校で職場体験学習というのがあって、その時の割り当てでわたし、男子たちと都内のボクシングジムに行かされたんです。

その時にシャドウボクシングの基本を教わったり、実際にサンドバッグも叩いてみたんですけれど、なんだかとても気分がスカッとして……」

金澤あかりがあまりにも楽しそう話すので、僕もつい笑いがこぼれた。

「それが、出会いだったんですね」

「ええ。もう『これだ!』って……。

職場体験学習が終了してから、わたしすぐ、会長に入会を希望したんです。

男子中学生の練習生はすでに一人いたんですけど、女子の練習生はわたしが第一号でした」

それでもパッと見は、そういうスポーツをやっている女性には、とても見えない。

しかし、あの危機で見せたあの敏捷さは、間違いなくボクシングで身に付けた技だ。

「そのおかげで金澤さんは、あのとき自分の身を……」

僕がそう言いかけると、彼女は首を横に大きく振った。

「あれは、近江さんのおかげです。近江さんが、わたしを助けてくれたんです」

はっきりとした口調で、僕をまっすぐに見た。「本当に、ありがとうございます」

金澤あかりに深く頭を下られて、僕は急に照れ臭くなった。

「それにしてもあの時……」

金澤あかりは思い出し笑いに肩をちょっとすくめると、「まさか消火器を噴射するとは、思いませんでした……」

「いやぁ、あれは……」

僕はさらに照れ臭くなって、手を首の後ろに当てた。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ごゑんきゃうげん4 | トップ | ごゑんきゃうげん6 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。