迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

水運盛運衰運。

2025-02-27 19:10:00 | 浮世見聞記
開港都市ヨコハマの發展を水運で支へ、やがて時代と云ふ大きな流れに埋め立てられた“河川運河”と、水運を生活基盤とした人々の實態を、橫濱都市發展記念館の企画展「運河で生きる~都市を支えた横浜の“河川運河”~」にみる。



水運を担ったのはもちろん船であり、船──達磨船や艀を操ったのは人であり、河川運河が係留する數多の船で航行が困難になるほど、すなはち船で生活する家族も多く存在した。


(※案内チラシより)

私が小學生の時分、國語の授業で教科書にさうした水上生活者の少年が登場する物語が載ってゐて、それを知ってゐることを前提に書かれた物語であったため先生が注釈を加へてゐたことを憶えてゐるが、これが水上(船上)生活者と云ふ人を私が知った初めだった。

昭和四十年(1965年)の新河川法、翌年の港湾勞働法で水上生活が禁止されたため、船を住居とする人々はゐなくなったが、さうした家庭に生まれた子どもたちの作文には、本人は意識してゐないであらう過酷な環境が滲み出てゐる。


(※同)

昭和二十年の終戰後、職を失なった人々は侵駐米夷軍の仕事にありつくため多く橫濱に押し寄せ、さうした人々を収容する施設として木造船に長屋を積み上げたやうな“水上ホテル”なるものを用意したが、そもそも設計に無理がある上に人員過剰で転覆する事故が相次いだ云々、さうした需要と供給の不均衡だけは、令和現在も變はるところがない。


現在、橫濱市街の中央を縦断してゐた吉田川は大通り公園とその地下を走る市營地下鉄ブルーラインに、派大岡川は首都高速橫羽線の一部と關内驛前の地下商店街マリナードと、


(※マリナード地下街廣場より首都高上部を望む)

役目を終へたと云ふより新たな役目をもって生まれ變はり現在に至るが、その過程は橫濱市職員だった田村明氏の著書「都市ヨコハマをつくる」(中公新書版)に、臨場感ゆたかな筆致で綴られてゐる。


しかしヨコハマの河川運河は完全に姿を消したわけではなく、ところどころにその痕跡を留めてゐることを、神奈川大學みなとみらいキャンパス1F展示エリアの写真展「非文字資料から見る 横浜の運河─関内・関外を中心に」では紹介してゐて、



濃厚にヨコハマ感が漂ふ大岡川沿ひの“都橋商店街ビル”は、


(※コンクリート壁と石積み風の岸壁との斜めに走る境目が、道と荷揚げ場をつないでゐたスロープの跡)

かつての荷揚場跡に建ってゐることが岸壁から窺へるのを知ったのは目からウロコ。


ここには紹介されてゐないが、



JR關内驛の高架線が橋梁になってゐるのは、



かつて派大岡川の上に驛があった名殘りであらうと、



私は思ってゐる。








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