ここまでずっと失敗談ばかり聞かされて、いい加減イヤになってきたでしょ?
はっはっは。
だから、初めに言ったじゃないですか。
…はい?
ああ、福間美鈴さんですか?
いまでもお友達ですよ。
彼女は現在(いま)では、一人前のスタイリストとして、東京で立派に仕事をしています。
では、ですね。
これまでずっと“残念な”お話しばかりしてきましたから、最後にこんなエピソードを付け加えて、お仕舞いとしましょうか…。
あの…、そのICレコーダー、なんかさっきからずっと、調子悪いですね。
“女優志望”の看板を降ろした以上、もう東京にいる意味も無くなったので、わたしは年が明けてから、福岡の実家へと帰りました。
一人娘を役者と云うヤクザな商売のために東京へやってしまったことは、両親としてはやはり後悔と心配のタネだったみたいで、わたしが向こうを引き払って帰って来た時は、それは喜んでくれました。
約六年振りに帰ってきた福岡の街は、前とは少し景色は変わっていましたけれど、それでもすぐにわたしの心に溶け込んできて、やはりわたしはこの土地の人間なんだな、と実感すると同時に、これからはこの街と共に生きていこう、と決心しました。
少しでも福岡に係わる仕事をしたかったので、わたしは博多駅の観光案内所のアルバイトを見つけて、そこでかなり本気で仕事をしながら、高校卒業と同時に中断していた日本舞踊のお稽古も再開ました。
もちろん、前の先生のところです。
ゆくゆくは福岡(じもと)で、わたしも踊りの先生になろうと決めたのです。
キッカケは、福間美鈴さんと初めて逢った、あの夜にあります。
そうなんだ、わたしには身に付けた“技能”があるんだ、と。
だからもう、東京でやってきたことは、全て棄てさろう。
今までそこにあったものをキレイさっぱり棄てて、スペースをつくって、それから新しいことを始めよう。
下を見ていてはいけない。
前を見て、進もう。
先生は、東京でのことは何も訊かずに黙って受け入れてくれて、わたしとしては有り難かったですよ。
福間美鈴さんとは、それからもずっとメールや電話でやり取りを続けていました。
そんなこんなで二年が経って…、つまり去年の秋ことです。
福間さんが突然、
「日本舞踊的な動きの指導って、出来ますか?」
と電話で訊ねてきたのです。
美容室のお客さんに音楽事務所の人がいると云う繋がりで、今度初めて、あるロックバンドのPV撮影用のヘアメイクを担当することになり、そのなかでヴォーカルが日本舞踊的な動きとポーズをキメるシーンを予定しているとかで、その振付をやってくれる人を探している、とのことでした。
『…それで、高島さんにやっていただけないかな?、と思って』
撮影はもちろん東京です。
普通に考えたら、とてもいい話しです。
でもわたしはこの時、正直言って戸惑いました。
とっくに見切りをつけたギョーカイの人たちを、今さら見たくはなかったからです。
トウキョウもゲーノーカイも、もうコリゴリでした。
さっきも言いましたように、これまでのわたしを全て棄て去った上に、現在のわたしはあるのです。
福間美鈴さんからの話しでなければ、わたしは即座に断っていたはずです。
もしこれが電話ではなくて直接会っての話しであったら、福間さんは嫌が応でもわたしの顔色の変化を見ずにはいられなかったでしょう。
それに福間さんが、かつてわたしが心から望んで結局果たせなかったギョーカイ最前線での活動を、スタイリストと云う立場で叶えつつあることに、どこかでジェラシーを感じたことも事実です。
そんなわたしの心のうちなど知らない福間さんは、そのロックバンドはメジャーデビューしてまだ一年の、“μ”(ミュー)というビジュアル系グループで、実際にその日舞的所作をするヴォーカルは、
『あなたと同じ、“はるや”と云う名前なの。こちらはローマ字で書くんだけどね』
件のシーンの撮影は都内のさるお屋敷の日本間で行う予定で、所作指導はそこでやっていただけたら、とのこと。
そして衣裳は、
『本物の十二単の、上着の一枚を羽織って、手には桧扇なんか持って』
平安調にいくとやら。
気になったのは、“本物の”十二単を使うと云う点で、
『お公家さんの子孫にあたる人が所蔵している物を、今回特別に使用させていただく予定なんです』
その子孫という人は、
『大和絵の復興に努めている若い絵師で、私の幼なじみでもあるんです』
大和絵、という言葉に、わたしは聞き覚えがありました。
『絵師…、というか画家としてはまだ無名なんですけれど、“μ”の次回のニューシングルのジャケットは、彼もデザインを一部担当するらしくて…、あ、これはまだ企業秘密ですよ』
わたしの脳裏に蘇ったのは、まだ十九歳だった時に訪れた、東北の風景でした。
そして、あの神社でスケッチをしていた、綺麗な顔立ちの青年のことでした。
十年近い歳月のうちにすっかりセピア色になりかけていたあの日の思い出が、心のなかで、少しづつ色彩を取り戻していきました。
『ちなみに彼の名前は、近江章彦(おうみ あきひこ)と云うんです。撮影の時は、衣裳が衣裳ですから所有者である彼も現場に立ち会うことになっていて…』
わたしの胸は、息苦しいまでに、高鳴りはじめました。
〈終〉
はっはっは。
だから、初めに言ったじゃないですか。
…はい?
ああ、福間美鈴さんですか?
いまでもお友達ですよ。
彼女は現在(いま)では、一人前のスタイリストとして、東京で立派に仕事をしています。
では、ですね。
これまでずっと“残念な”お話しばかりしてきましたから、最後にこんなエピソードを付け加えて、お仕舞いとしましょうか…。
あの…、そのICレコーダー、なんかさっきからずっと、調子悪いですね。
“女優志望”の看板を降ろした以上、もう東京にいる意味も無くなったので、わたしは年が明けてから、福岡の実家へと帰りました。
一人娘を役者と云うヤクザな商売のために東京へやってしまったことは、両親としてはやはり後悔と心配のタネだったみたいで、わたしが向こうを引き払って帰って来た時は、それは喜んでくれました。
約六年振りに帰ってきた福岡の街は、前とは少し景色は変わっていましたけれど、それでもすぐにわたしの心に溶け込んできて、やはりわたしはこの土地の人間なんだな、と実感すると同時に、これからはこの街と共に生きていこう、と決心しました。
少しでも福岡に係わる仕事をしたかったので、わたしは博多駅の観光案内所のアルバイトを見つけて、そこでかなり本気で仕事をしながら、高校卒業と同時に中断していた日本舞踊のお稽古も再開ました。
もちろん、前の先生のところです。
ゆくゆくは福岡(じもと)で、わたしも踊りの先生になろうと決めたのです。
キッカケは、福間美鈴さんと初めて逢った、あの夜にあります。
そうなんだ、わたしには身に付けた“技能”があるんだ、と。
だからもう、東京でやってきたことは、全て棄てさろう。
今までそこにあったものをキレイさっぱり棄てて、スペースをつくって、それから新しいことを始めよう。
下を見ていてはいけない。
前を見て、進もう。
先生は、東京でのことは何も訊かずに黙って受け入れてくれて、わたしとしては有り難かったですよ。
福間美鈴さんとは、それからもずっとメールや電話でやり取りを続けていました。
そんなこんなで二年が経って…、つまり去年の秋ことです。
福間さんが突然、
「日本舞踊的な動きの指導って、出来ますか?」
と電話で訊ねてきたのです。
美容室のお客さんに音楽事務所の人がいると云う繋がりで、今度初めて、あるロックバンドのPV撮影用のヘアメイクを担当することになり、そのなかでヴォーカルが日本舞踊的な動きとポーズをキメるシーンを予定しているとかで、その振付をやってくれる人を探している、とのことでした。
『…それで、高島さんにやっていただけないかな?、と思って』
撮影はもちろん東京です。
普通に考えたら、とてもいい話しです。
でもわたしはこの時、正直言って戸惑いました。
とっくに見切りをつけたギョーカイの人たちを、今さら見たくはなかったからです。
トウキョウもゲーノーカイも、もうコリゴリでした。
さっきも言いましたように、これまでのわたしを全て棄て去った上に、現在のわたしはあるのです。
福間美鈴さんからの話しでなければ、わたしは即座に断っていたはずです。
もしこれが電話ではなくて直接会っての話しであったら、福間さんは嫌が応でもわたしの顔色の変化を見ずにはいられなかったでしょう。
それに福間さんが、かつてわたしが心から望んで結局果たせなかったギョーカイ最前線での活動を、スタイリストと云う立場で叶えつつあることに、どこかでジェラシーを感じたことも事実です。
そんなわたしの心のうちなど知らない福間さんは、そのロックバンドはメジャーデビューしてまだ一年の、“μ”(ミュー)というビジュアル系グループで、実際にその日舞的所作をするヴォーカルは、
『あなたと同じ、“はるや”と云う名前なの。こちらはローマ字で書くんだけどね』
件のシーンの撮影は都内のさるお屋敷の日本間で行う予定で、所作指導はそこでやっていただけたら、とのこと。
そして衣裳は、
『本物の十二単の、上着の一枚を羽織って、手には桧扇なんか持って』
平安調にいくとやら。
気になったのは、“本物の”十二単を使うと云う点で、
『お公家さんの子孫にあたる人が所蔵している物を、今回特別に使用させていただく予定なんです』
その子孫という人は、
『大和絵の復興に努めている若い絵師で、私の幼なじみでもあるんです』
大和絵、という言葉に、わたしは聞き覚えがありました。
『絵師…、というか画家としてはまだ無名なんですけれど、“μ”の次回のニューシングルのジャケットは、彼もデザインを一部担当するらしくて…、あ、これはまだ企業秘密ですよ』
わたしの脳裏に蘇ったのは、まだ十九歳だった時に訪れた、東北の風景でした。
そして、あの神社でスケッチをしていた、綺麗な顔立ちの青年のことでした。
十年近い歳月のうちにすっかりセピア色になりかけていたあの日の思い出が、心のなかで、少しづつ色彩を取り戻していきました。
『ちなみに彼の名前は、近江章彦(おうみ あきひこ)と云うんです。撮影の時は、衣裳が衣裳ですから所有者である彼も現場に立ち会うことになっていて…』
わたしの胸は、息苦しいまでに、高鳴りはじめました。
〈終〉