千葉縣佐倉市の國立歴史民俗博物館の企画展示「歴史の未来─過去を伝えるひと・もの・データ─」を觀る。
ヒトは、おのれの生まれに箔をつけたくなると、遡れば遡るほどアヤシくなる系図をつくって子々孫々に殘し、
(※案内チラシより)
新たな価値觀の擡頭によりそれまでの価値觀が棄てられ、消滅の危機に直面すると、これまでの歴史を遺しておかうと記録を集めはじめる。
(※同)
このあたりの感覺は、私の樂しみの一つである鐵道について云へば、「◯◯線の◯◯系(形)がいよいよ廢車になる」となると、俄かに惜しみだしてカメラを手に手に線路脇に──モノによっては線路内に──に詰めかける、アレと同じやうなものか。
このブログ「迦陵頻伽」も、気ままな形をとった私なりの浮世の記録、のつもりだ。
しかし、ヒトが記録として殘した文物は、人災や天災によって案外たやすく失なはれることは、昔も現在も何ら變はらない。
現在は電子技術を活用した“デジタル化”による保存と公開、そして疑似体験までを可能とし、記録保存は躍進的發展を見せてゐるやうだが、肝心の電源(電氣)が故障すれば一瞬にして消滅する危険が伴ふことも、また然り。
結局、やり方が變はっただけで、完璧な保護方法が無い限り、それは“進歩”とは云へないのではないか、と様々な實例展示から思ふ。
展示室内に設置されたデジタル技術をふんだんに盛り込んだ体験コーナーでは、何ら理解してゐない小児(ジャリ)がオモチャ代はりに遊んでゐる様に、しょせんそんなものだ、と内心嘆息。
一度散逸した記録文物を再び取り戻すことはまず不可能であり、それは中世の金澤文庫から流出した文物の例が、よく示してゐるところだ。
その土地の記録文物はその土地で見られるやう保存するべきであり、中央の學府や博物館にまとめて収藏し公開したのでは、記録がその土地の歴史から遠く離れたものになる──と叫ばれた時代が戰後にあったやうだが、ではなぜその土地の人々は、そもそもその土地の記録を散逸から死守しなかったのか──?
記録資料との付き合ひ方について、いろいろ考へさせらる實に深い企画展だったが、その“むすび”にあった一文の示唆するところに、私はさらに考へさせらる。
『記憶はしばしば物や場所・記念碑に集約され、歴史はそのすべての複雑な背景を理解しようとする』
もうひとつ興味のあったのが、特集展示「歴史・文化の中の鄭成功」で、
日本では近松門左衞門の大作浄瑠璃「國性爺合戰」の主人公“和藤内三官”として知られた實在の人物の、“英雄”としてのさまざまな価値觀を日本と薹湾双方の視點から考察する。
(※薹湾に傳はる鄭成功像、解説冊子より)
新興國の清に攻められ滅亡寸前の明朝を建て直さんと奮戰する鄭成功は、1662年1月に薹湾島を占領してゐた蘭國を追ひ出して新たな拠点點を築き、ここから後世へつながる英雄像がつくられていくわけだが、薹湾島の原住民たちからすれば、食物の強制的な徴収や土地開墾の強ひるなど、單に支配者が蘭國から鄭成功なる人物に替はっただけで、しょせん外夷以外の何ものでもなかった、との指摘に、今まで支配者側の目線ばかりで、被支配者側の目線や心情を考へたことのなかったことに、ハッと氣付かされる。
(※二代目市川猿之助扮する「國性爺合戰」和藤内)
歴史とは勝者によって創造されるものであることは、歴史を見る上でもっとも留意すべき、基本的心得であった。
博物館を出たあとはそのまま佐倉城本丸跡まで歩いて、今年の紅葉をやっと見る。
かう季節が狂ふと、草花の四季を知るきっかけすら狂ひさうで、困ったものだ。