迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

關白の“志”。

2024-12-05 19:51:00 | 浮世見聞記
東京都杉並區の南郊に佇む國指定史跡「荻外荘(てきがいそう)」の復原整備完成を記念した特別展を、杉並區立郷土博物館の本館と分館で、それぞれ觀る。

荻外荘は戰前に首相を三度つとめた近衞文麿の邸宅で、もともとは大正天皇の侍醫頭をつとめた入澤達吉が自身の静養のため昭和二年(1927年)に建てた別邸だったものを、昭和十二年(1937年)に首相初就任の近衞文麿が購入して自身の本宅としたもの。


(※近衞文麿)

「荻外荘」とは字に書いた通り“荻窪の外れ”と云ふ意味にて、命名者は政界の大先輩で最後の元老でもあった西園寺公望、その西園寺が揮毫した扁額を近衞は大切に掲げてゐたさうだが、

(※案内チラシより)

この命名には東京の中心部から遠く離れた辺鄙な土地に本宅を構へた後繼者への、皮肉も籠められゐるとかゐないとか。


その荻外荘に所藏されてゐた書画骨董の一部を、まずは本館の「陽明文庫名品展」で拝見す。



近代日本画壇の大家たちの御作より、江戸時代初期の先祖である近衞信尹(このえ のぶただ)が當時の能書家たちと手分けして書冩した源氏物語五十四帖に、興味を覺ゆる。


(※近衞信尹書冩の「帚木」 案内チラシより)

もちろん、私などにあのウネウネ文字が解るわけもないが、ただそれぞれに異なる一點一點の筆跡に、その人の性格が表はれてゐるやうには見えた。


かく御寶を所藏してゐた荻外荘と、その主(あるじ)だった近衞文麿についてを、荻窪驛から北方へ十分ほど歩いた分館の「『荻外荘』と近衞文麿」展に觀る。



大日本帝國の第二次世界大戦参戰を阻止出来なかった近衞がその責任を重く捉へ、昭和二十年六月までに終戰させるべく水面下で奔走してゐたことは一般にあまり知られてゐない歴史のやうだが、終戰直後からは侵駐(※私は敢へて“進駐”の字は用ゐない)の米夷と連絡をとりながら閣僚として日本の立て直しを図るものの、米夷から“A級戰犯”と名指しされた近衞は逮捕當日の昭和二十年(1945年)十二月十六日早朝、“自決”と云ふ手段で永遠の拒否を示す。

前夜に次男の近衞通隆の前でしたためて渡したと云ふ一文──事實上の遺書──には、有名な「僕の志は知る人ぞ知る」のあと、
 
「戰争に伴ふ激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と、敵意の中傷と、誤解に本づく流血蜚語と是等一切の所謂輿論なるのも、いつかは冷静を取り戻し正常に復する時も来よう……」

は、もっとよく讀むべき未来への深い“何か”が籠められてゐるやうに、私には思へる。

そして近衞文麿の最期について、昭和史のセンセイ方は「卑怯者」と決め付けるのが定番のやうだが、藤原道長以来の筆頭貴族として、われわれ衆庶(しもじも)などには計り知れぬ“矜恃”を見せたのだと、私は同じ日本人として信じたい。



荻窪驛からほど近い上荻一丁目の白山神社に、近衞文麿の足跡が見られるとのことで、併せて訪ねる。



参道入口の鳥居脇に立つ石標の文字は、近衞文麿の揮毫云々。



書によっておのれを存在証明した公家の傳統文化は、昭和時代の關白にも脈々と受け繼がれてゐたことを見ると同時に、“公爵 近衞文麿”と云ふより、荻窪に根をおろした“地元民 近衞文麿”を見るやうな親しみを覺ゆ。









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