迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

陰陽―カゲヒナタ―最終回

2012-06-04 19:57:59 | 戯作
“たかしま はるや”さんには、もう逢えないかもしれない…。

会期も残り一週間を切ると、僕はだんだんと諦めの境地へと入って来た。

それで気が抜けたからか、僕は風邪をひいて、完全にダウンしてしまった。

もっとも、かなり根を詰めて制作に励んだので、そのリバウンドもあったのだろう。


完治したのは、実に最終日のことだった。


本当は午前十時の開場からその場にいたかったけれど、体調にまだ自信がなかったので、十六時閉場の一時間前に、会場へ入ることにした。

終了後は、そのまま作品を引き取って帰る手筈となっていた。


最終日のギャラリーは、まずまずの入り具合。

会場に着くなり、今回の展覧会で色々とお世話になった会場係の駅務員氏が僕を見付けて、

「いやぁ、お風邪のほうは大丈夫ですか」

と近寄ってきた。

「近江さんがいらしゃらなかった間、あなたの作品は、なかなかの評判でしてねぇ…」

などと、お世辞お世辞した挨拶のあと、

「そう言えば近江さん、わたしあなたへの、預かり物をしているんですよ」

「はあ」

誰からだろう?

ちょっと待っていて下さいと会場係氏は言い置いて隣りの控え室へ行くと、口をテープでとめた黒い小さな紙袋を手にして、すぐ戻って来た。

「…?」

こういうものをくれるような人の、心当たりがなかった。

「これは、どなたから…?」

「すみません。その方はお名前を名乗らなかったもので…。そうですねえ、まだお若くて、モデルさんみたいなスタイルで…。なかなかいい男でしたよ。イケメン、って言うんですか?」

イケメン…?

「その人、いつ来ました?」

「昨日の、ちょうど今くらいの時間です。近江さんの“あづまあそび図”だけを、かなり長い時間、熱心にご覧になっていたんですよ。他の作品には目もくれないで」

「そうですか…」

「そのうちに、誰かを探すような素振りをしたんで、そこでわたしが、『この絵がお気に召しましたか?』と、近付いて訊いたんです」

「はい」

「そうしたらその人、『この作者の連絡先とか、わかりますか』と訊くので、個人情報の問題がありますので本人の承諾無しでは、とお答えしたら、そうですか、とだけ言って、そのまま帰って行かれたんです。ですから、お名前を訊くひまもなくて…」

「はあ…」

「そうしたら、今日その人が、ここへ十時の開場ピッタリにまた訪れたんです。そしてわたしに、近江さんに渡して下さい、とその紙袋を手渡して、サッと出て行ってしまったんです。時計を見ながらだったから、たぶん忙しかったんでしょうねぇ…」

僕に届け物をするほどの知人…?

「それにしても…」

会場係氏は含み笑いをして、

「今日よく顔を見たら、両目にカラーコンタクトを入れてたんですよ。でも片方がピンクで、もう片方がブルーの色違いで。面白いセンスですよね…。ああ、もしかしたらあの雰囲気は、音楽か何かやってる人かもしれませんねぇ…」


まさか。

いや、そんなはずは…。

「すみません…!」

僕は会場の外へと飛び出した。

コンコースを抜けて、駅前広場へ。

そこの一角にあるベンチに座ると、僕は胸を抑えて何度も深呼吸をした。


また鼻の奥がツンときた。

やばい、また鼻血が出そうだ…。


病み上がりの僕をこういう目に遭わせるのは、一人しかいない…。


僕は震える指で、紙袋の口を止めるテープを切った。

なかには、白いリボンで十文字に結ばれた、一枚のCDが入っていた。

そして、ヨーロピアンな書体で


“μ vo. HARUYA”


と印刷された名刺が差し込まれていた。


やっぱり彼だ…!


HARUYAが、あの山内晴哉が、僕の大和絵を見にやって来た!


CDは、μの最新のアルバムだった。


僕は呼吸が乱れそうになるのを堪えながら、名刺を手に取った。


同じ“はるや”でも、“たかしま はるや”さんではなくて、山内晴哉が訪れた…。


あれから五年、彼は僕のことを覚えていたと云うことなのか?

ライヴのラストナンバーに「カナタ」を歌う前、彼が口した“俺に本気でアーティストになるキッカケを与えてくれた人”って、もしかして…。


いや、そんなバカな。

彼はあれから色々な人たちに出逢って、成長して、あそこまでになったはずだ。

僕の存在など、もう忘れているはずだ。

いまの彼から見たら、近江章彦などモノの数ではないだろう。


でも彼は、昨日、そして今朝と、ここへやって来た。

もし今日、僕が朝から会場に来ていたら、僕はHARUYAに、面と向かって会っただろうか?

或いは、ソッと逃げ出しただろうか?

いや、やめよう。

“もし…”なんて、しょせん現実世界の話しではない。

そういう夢噺は止めよう。

自分が、惨めになるだけだ。

HARUYAと僕とは、住んでいる世界が違う…。


「……」


僕は手にした名刺に再び目を落とした時、名刺が裏を向いていることに気が付いた。


そしてそこには、自筆で個人ケータイのメアドとTELが記されていて、さらにこんなメッセージが添えられていた。




“「あづまあそび図」から、いい曲を思い付いた。こんど必ず会おう。ずいぶん探したんだぞ(笑)”








〈終〉
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