カットをしている時の彼女の目は、真剣そのものでした。
声を掛けられないくらいに。
でも、とても素敵な目でした。
そして髪を扱う手つきは、とてもインターンとは思えないほど、鮮やかなものでした。
美容師に髪を触られて、初めて「心地好い」と感じました。
一時間後、彼女はわたしの希望通り、一時間前とは全く違う高島陽也を、鏡に映し出しました。
「いかがでしょうか…?」
彼女は鏡越しにではなく、直接にわたしを見て、訊ねました。
本当に、わたし…?
目の前にいる自分自身が、信じられませんでした。
髪型ひとつ変えるだけで、こんなに雰囲気が変わるなんて…。
鏡に映る自分を見つめているうち、胸のあたりにだんだんと高揚感が湧いくるのを感じました。
そしてそれが、今まで鉛のように重たかった体をみるみるうちに軽くしていきました。
やがて胸いっぱいに拡がった高揚感は、それまで無表情に固まっていたわたしを暖く解きほぐして、
「とてもいいです。ありがとうございます…」
というお礼と共に、笑顔を蘇らせました。
「とんでもないです、お礼を言わなきゃならないのは、こちらの方です」
彼女は慌てて手を振りました。
わたしは改めて、鏡に映る自分を見ました。
「なんかわたしじゃないみたいです。うれしい…」
わたしは彼女を、怪しげな勧誘と疑ったことを、恥ずかしく思いました。
「素敵です」
わたしは脇に立つ彼女を見上げて、ヘアメイクと、そして彼女自身へ、心から言いました。
すると彼女は、
「そうやって喜んでくださったのは、あなたが初めてです…」
と、急に涙ぐみました。
そして泣き出しそうになったのを、唇を噛んで堪えると、
「ごめんなさい…。これで少し、自信が持てます」
と、指で目許を拭いました。
わたしの反応が、まさかここまで彼女を感激させるとは、思ってもいませんでした。
その様子から、彼女も苦労をしているらしいことを察しました。
そしてそんな彼女に、いじらしいものを覚えずにはいられませんでした。
帰りにわたしは、彼女の実力に敬意を表して、いくらかでもお金を払おうとしましたが、
「こちらからカットモデルをお願いしたわけですから…」
と、彼女はあくまでも固辞しました。
「では次は、あなたの“お客さん”として来ますね」
と約束して、わたしは店のドアの前に立ったものの、、このまま彼女と別れるのは、なんだか惜しい気がしました。
彼女も同じ気持ちらしいことが、表情から何となく窺えました。
「あの、お時間とか大丈夫ですか…?」
先に切り出したのは彼女でした。
「よろしければ、コーヒーか紅茶をいれますが…」
つい一時間ちょっと前に逢ったばかりの彼女が、わたしは好きになりそうでした。
ウソが、感じられなかったから。
「いいんですか?お言葉に甘えて」
「ぜひ、甘えてください」
彼女は嬉しそうに、こちらへ、と手で待合スペースのソファーを示しました。
彼女は、「福間美鈴(ふくま みすず)」と名乗りました。
そしてわたしも名乗ると、
「はるや、さんですか?へぇ…!」
「ビックリでしょ。漢字ではこう書くんですけど…」
と、手帳に書いて見せると、
「失礼ですけど、男の子の…」
「そうなんです、まるっきり男名前なんですよ。ちなみに本名です。父親が、生まれたばかりのわたしを見てパッと閃いたのが、この名前なんですって…」
「へえ…」
「ヘンなセンスしていますよね。おかげで小学生の時は男子たちからよく、“やーい、ハ~レルヤ♪”なんて、からかわれましたよ」
「いやいや、お父様は素敵なセンスをされていると思いますよ。最近って、やたら横文字っぽい名前の子供が多いではないですか」
「ああ、“ヘレン”ちゃんだの“マリン”ちゃんだの“リリィ”ちゃんだの…」
「あっちの方が、よっぽど親のセンスを疑いますよ」
「ああ…、そうですよねえ。わたしも同感です。なんだか水商売っぽく聞こえますね」
「そうそう、アンタの子供はキャバ嬢か、みたいな…!」
そして二人して顔の前でパンと手を打ちながら、「ははは」とのけ反って。
今日まで所属していた事務所の“キッズクラス”にも、そんな名前のがゴロゴロしていたなぁ、と思った途端、それまで忘れていた自分の「現実」が、ふと頭をもたげました。
そして、まるでそれに呼応するかのように、
「でも、女性で“陽也(はるや)さん”なんて、かっこいいと思いますよ、なんか芸能人みたいで…」
「……」
胸に強くキュンとくるものがあって、わたしは何も返事をすることが出来ませんでした。
その様子に福間さんは、
「あ、もしかしたら本当にその方面の…?」
瞬間、「TOKYO温度」の制作中に“あの男”の言った言葉が、脳裏を過(よ)ぎりました。
『エキストラなんてのは、役者としての仕事の内には入らないんだよ』
あ、言いませんでしたけれど、東京音頭を踊るシーンのエキストラをどうする云々の話しになった時、そういうふうに言われて、鼻で笑われたことがあったんです。
エキストラの経験しかないわたしにとって、それでもキャリアだと思って堪えてきたことが、全面的に否定されたようで、あの時は腹が立つと言うより、涙が出そうなくらい、とても悔しい思いをしました。
そんなことがあったものですから、わたしはとても女優志望であるとは言うことが出来ませんでした。
あの男の言葉の通りでいけば、わたしは役者としてのキャリアはゼロ、ということになるわけですから…。
そこで咄嗟に口をついて出た言葉が、
「おどりの方の仕事を…」
だったのです。
〈続〉
声を掛けられないくらいに。
でも、とても素敵な目でした。
そして髪を扱う手つきは、とてもインターンとは思えないほど、鮮やかなものでした。
美容師に髪を触られて、初めて「心地好い」と感じました。
一時間後、彼女はわたしの希望通り、一時間前とは全く違う高島陽也を、鏡に映し出しました。
「いかがでしょうか…?」
彼女は鏡越しにではなく、直接にわたしを見て、訊ねました。
本当に、わたし…?
目の前にいる自分自身が、信じられませんでした。
髪型ひとつ変えるだけで、こんなに雰囲気が変わるなんて…。
鏡に映る自分を見つめているうち、胸のあたりにだんだんと高揚感が湧いくるのを感じました。
そしてそれが、今まで鉛のように重たかった体をみるみるうちに軽くしていきました。
やがて胸いっぱいに拡がった高揚感は、それまで無表情に固まっていたわたしを暖く解きほぐして、
「とてもいいです。ありがとうございます…」
というお礼と共に、笑顔を蘇らせました。
「とんでもないです、お礼を言わなきゃならないのは、こちらの方です」
彼女は慌てて手を振りました。
わたしは改めて、鏡に映る自分を見ました。
「なんかわたしじゃないみたいです。うれしい…」
わたしは彼女を、怪しげな勧誘と疑ったことを、恥ずかしく思いました。
「素敵です」
わたしは脇に立つ彼女を見上げて、ヘアメイクと、そして彼女自身へ、心から言いました。
すると彼女は、
「そうやって喜んでくださったのは、あなたが初めてです…」
と、急に涙ぐみました。
そして泣き出しそうになったのを、唇を噛んで堪えると、
「ごめんなさい…。これで少し、自信が持てます」
と、指で目許を拭いました。
わたしの反応が、まさかここまで彼女を感激させるとは、思ってもいませんでした。
その様子から、彼女も苦労をしているらしいことを察しました。
そしてそんな彼女に、いじらしいものを覚えずにはいられませんでした。
帰りにわたしは、彼女の実力に敬意を表して、いくらかでもお金を払おうとしましたが、
「こちらからカットモデルをお願いしたわけですから…」
と、彼女はあくまでも固辞しました。
「では次は、あなたの“お客さん”として来ますね」
と約束して、わたしは店のドアの前に立ったものの、、このまま彼女と別れるのは、なんだか惜しい気がしました。
彼女も同じ気持ちらしいことが、表情から何となく窺えました。
「あの、お時間とか大丈夫ですか…?」
先に切り出したのは彼女でした。
「よろしければ、コーヒーか紅茶をいれますが…」
つい一時間ちょっと前に逢ったばかりの彼女が、わたしは好きになりそうでした。
ウソが、感じられなかったから。
「いいんですか?お言葉に甘えて」
「ぜひ、甘えてください」
彼女は嬉しそうに、こちらへ、と手で待合スペースのソファーを示しました。
彼女は、「福間美鈴(ふくま みすず)」と名乗りました。
そしてわたしも名乗ると、
「はるや、さんですか?へぇ…!」
「ビックリでしょ。漢字ではこう書くんですけど…」
と、手帳に書いて見せると、
「失礼ですけど、男の子の…」
「そうなんです、まるっきり男名前なんですよ。ちなみに本名です。父親が、生まれたばかりのわたしを見てパッと閃いたのが、この名前なんですって…」
「へえ…」
「ヘンなセンスしていますよね。おかげで小学生の時は男子たちからよく、“やーい、ハ~レルヤ♪”なんて、からかわれましたよ」
「いやいや、お父様は素敵なセンスをされていると思いますよ。最近って、やたら横文字っぽい名前の子供が多いではないですか」
「ああ、“ヘレン”ちゃんだの“マリン”ちゃんだの“リリィ”ちゃんだの…」
「あっちの方が、よっぽど親のセンスを疑いますよ」
「ああ…、そうですよねえ。わたしも同感です。なんだか水商売っぽく聞こえますね」
「そうそう、アンタの子供はキャバ嬢か、みたいな…!」
そして二人して顔の前でパンと手を打ちながら、「ははは」とのけ反って。
今日まで所属していた事務所の“キッズクラス”にも、そんな名前のがゴロゴロしていたなぁ、と思った途端、それまで忘れていた自分の「現実」が、ふと頭をもたげました。
そして、まるでそれに呼応するかのように、
「でも、女性で“陽也(はるや)さん”なんて、かっこいいと思いますよ、なんか芸能人みたいで…」
「……」
胸に強くキュンとくるものがあって、わたしは何も返事をすることが出来ませんでした。
その様子に福間さんは、
「あ、もしかしたら本当にその方面の…?」
瞬間、「TOKYO温度」の制作中に“あの男”の言った言葉が、脳裏を過(よ)ぎりました。
『エキストラなんてのは、役者としての仕事の内には入らないんだよ』
あ、言いませんでしたけれど、東京音頭を踊るシーンのエキストラをどうする云々の話しになった時、そういうふうに言われて、鼻で笑われたことがあったんです。
エキストラの経験しかないわたしにとって、それでもキャリアだと思って堪えてきたことが、全面的に否定されたようで、あの時は腹が立つと言うより、涙が出そうなくらい、とても悔しい思いをしました。
そんなことがあったものですから、わたしはとても女優志望であるとは言うことが出来ませんでした。
あの男の言葉の通りでいけば、わたしは役者としてのキャリアはゼロ、ということになるわけですから…。
そこで咄嗟に口をついて出た言葉が、
「おどりの方の仕事を…」
だったのです。
〈続〉