迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

偲姿―おもかげ―6

2012-06-10 23:50:39 | 戯作
その人とは、翌朝の朝食バイキングで、初めて会いました。

向こうから声を掛けてきたんです。

「お食事中に失礼ですが、昨日、宴会場のステージで、舞踊ショーをやっていた方ですよね…?」

と。


「はい…」

誰だろう、劇団ASUKAの追っかけかしら、と思いながら返事をすると、その人は自分はこういう者です、と名刺を差し出しました。

それには、


“キャロットカンパニー代表 映像作家 磯江寿尚”


と、ありました。


「はあ…」

わたしは名刺を受け取ると、テーブルの脇に立つその男性の風体を改めて見ました。


年齢は三十代半ば、或いは後半、ごくラフな服装でした。


わたしはもう一度、名刺にある二つの肩書に目を通しました。


キャロットカンパニー―聞いたこともないな。

映像作家―ナニを撮ってるのだろう。


ぱっと見ですぐに、この人カタギではないな、感じたわけです。


「ここ、ちょっとだけ失礼していいですかね?」

男は空いている向かいの席を、手で示して訊ねました。

世の役者志望はここで、「お!これはもしかして…!」と期待にドキドキワクワクするわけですよ。

わたしだってそうなるハズなのに、この時はどういう訳か、

ウザ…。

と思ったんです。

だから一瞬返事に詰まっていると、その男はただ形式的に訊いただけのようで、さっさとわたしの向かいの椅子に座ると、

「改めまして、ぼくは“キャロットカンパニー”と云うイベント企画会社の代表と、実を言うとこっちが本業なんですが、映像作家をしております、磯江寿尚(いそえ としひさ)といいます」

と自己紹介してペコリと頭を下げました。


言葉の端々に、ちょっと関西アクセントが覗いていました―関西人は基本的に、どこの土地へ行っても関西弁ですからね。


わたしもとりあえず自分の名前だけを名乗ると、磯江氏は自分は昨日から石和温泉の観光PR用の映像を撮るためにこちらに来ている、と話して、

「…それでここに泊まったら、高島さんの舞台に出会った、そういうわけですわ」

そして、あなたには和文化の素養が充分にあるだのなんだのと、いろいろと昨日のステージを褒めちぎって、

「それでね、高島さんのその素養を、協力と云う形で今後ウチで活かしていくつもりはないか、と…」

なんだ、引き抜き(スカウト)の話しか?―わたしは警戒しました。

こういうギョーカイの、こういうテの話しは、キケンいっぱいですからね。


同じ事務所の女のコで、そうやって声を掛けられて、とりあえずウチの事務所へ、と連れて行かれた先が、AVの撮影現場だった…、と云う話しを、この数日前にその本人から聞いたばかりでしたし。

すごくベタですけど、本当にあるんですよ、そういうの。

…は?

ああ、そのコはケータイに電話が掛かってきたフリをして間一髪逃げた、と言っていましたね。


で、その磯江氏なる人も、そのあたりのことは充分承知していて、

「ああ、ウチはごくごく健全なんでね。“そういう方面”とは取引ないから」

ははは、と磯江氏は笑ってみせると、

「本当はもう少しお話しをしたいんですけど、時間がアレなんでね、ま、ウチのホームページも見てもらって、もし興味あるようだったら、名刺にある番号にでも一度電話電話くれたら、と…」

磯江氏は「じゃ」 と片手を挙げつつ腕時計を見て、忙しそうに立って行きました。





東京へ戻る列車のなかで、ケータイからホームページを検索してみたら、たしかに「株式会社 キャロットカンパニー」は存在していました。

本人の言っていた通り、様々なイベントの企画と運営のほか、「本業」なる映像作家としては、通販番組の商品映像をメインに、あとは女性タレントのプロモーションDVDの制作なども手掛けています云々…。

でも、そこに紹介されている女のコたちの名前は、わたしですらも聞いたことないような、文字通り「無名」のコたちばかりでした。

たぶん、一本撮ってそのまま消滅の、タレント予備軍たちなのでしょう。


要するに、この磯江寿尚と云う映像作家は、ギョーカイのいわゆる下請け屋のような存在で、映画やTVドラマを撮るようなタイプの人ではない、ということです。


そのなかで不思議だったのは、この「キャロットカンパニー」なるイベント企画会社には、数名の“所属タレント”が存在している、と云うことでした。

週一回のレッスンを受けながら、イベント会場や自社制作の映像作品に出演しているらしくて、コンセプトはズバリ、

“明日の才能を育てることも、我社の大事な企画の一つです”

顔触れはと云うと、いかにも下北沢(シモキタ)あたりにいそうな、アクの強い小劇場系の顔付きをした面々で、正直「コイツらがねぇ…」といった感じでした。


磯江氏はまさか、わたしをこのなかに引き込もうと言うのだろうか―?

だとしたら、答えは明白でした。

「イヤだよ、こんなの」


わたしはあくまでも、東京で芸能界の第一線の現場に立ちたかったのです。

失礼ながら、このような“圏外”の仕事は望んでいないのです。

映像に出られるなら何だっていい―そんな低い志しではなかったのです。


だからわたしは東京に着くと、そのまま名刺は捨ててしまいました。

こちらの連絡先を言わなかったのは幸いでした。



今度のステージのことも、事務所にはバレずに済みました。

まあ、所属タレントの動向なんて全く把握していない、とてもいい加減な事務所でしたしね。

だからみんな、裏ではけっこう直接取引きで仕事を取って、それで稼いでいたみたいです。

事務所を通すと、マージンと称して、ギャラをかなりピンハネされますから。



それはさておき、こうして劇団ASUKAの件はケジメつける事が出来、そして磯江寿尚氏のことも、そのまま忘れていきました。


ところがです。

こういうのって本当に、「忘れた頃にやって来る」んですよ。





〈続〉
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