十年前の3月11日14時45分、私はこの場所で地面の大きな揺れに遭ふ。
東北の被災地と被災者たちのために、自分にはいったい何が出来るのか──?
その問ひはあの時から十年、いつも心に在る。
藝能をもって慰問する人たちがゐて、自分も心が動ひたが、だうもさういふことではない氣がした。
ただし、忘流の猿樂師が決め付けたやうな、“賣名行為”とは思はなかった。
この時には猫も杓子も、盛んに“絆”だの“寄り添ふ”だのと口にしてゐたが、そんなものはしょせん安全圏にゐる者たちの自己陶酔にすぎず、話しにもならぬ。
特に“寄り添ふ”なる言葉が、あの災害がきっかけで浮世に定着した感があるが、さういふ人種がよく口にするからだらう、私にはだうも氣色悪い響きを感じて、いまも馴染めぬ。
報道屋は被災地に入り浸って“衝撃度の強い映像(ゑ)”を撮ることばかりに熱中する有様で、この面々は被災地の現實(こゑ)をなんら正しく傅へてゐないと知る。
そのうちに、支那を發生源とする人災疫病が全世界に蔓延、「死」が身近な現實として迫ってきた。
自分の命は自分で守らなくては……!
そのときに、あっ、と思ふ。
「助かった自分の命を大切に生きること」──
それが、
震災で亡くなった方々に對して、
自分が最も出来ることではないのか……?
十年来の問ひにやうやく答へらしきものを示したのが、皮肉にもいまの人災疫病だった。
東北を訪れたい氣持ちは、十年前から変はってゐない。
數年前に覺悟を胸に訪ねた仙石線の旧野蒜驛も、現在は祈念施設として生まれ変はったと聞く。
しかし、
私が藝能をもって東北へ行くのは、
まだ先のことだ。