迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

夢の経過。

2018-12-13 23:11:51 | 浮世見聞記
五年前、私はいくつかの大学の学生たちと、渋谷で約三ヶ月にわたって接する機会があった。


弁護士をめざして鞄にいつも六法全書をしのばせてゐる人、

学費と下宿代と光熱費はすべてアルバイトでまかなってゐると云ふ、見た目は今風な人、

地方の会社の面接に、夜行バスを利用して費用の節約に汲々してゐる人──

いろいろな学生と接したなか、アナウンサーをめざしてゐると云ふ、地方出身の女の子がいた。

普段からやけにオーラを発してゐる子だったので、余計印象に残ったのだと思ふ。

彼女はすでに専門の講師につひて日々ボイストレーニングを行なってゐるとかで、やり方がマズイのか何なのか、いつも聲が枯れ気味だった。

そして話しを聞ひてゐて気になったのは、彼女がめざしてゐるのはアナウンサーなのかタレントなのかはっきりしない、曖昧な存在のそれであるらしいことだった。


その後、たまにテレビをつけて女子アナウンサーが映ってゐるのを見ると、ふと、「あの子、アナウンサーになれたのかな……」と、思ひ出すことがあった。


あれから五年が過ぎた今日、彼女はふるさとの地方局で、視聴者に評判の良い女子アナウンサーとして活躍してゐることを知った。


あのとき私に語ってゐた夢を、彼女はひとすじに叶へたわけである。


あちらはまう憶えてはいないだらうが、私はあのとき彼女に、自分は日本の傳統藝能の勉強をしてゐることを話した。

彼女は上京前、ふるさとの学校の授業の一環で能楽を観たことがあると言ひ、私はさういふ話しの通じる若い女性がゐることを、頼もしく思ったものだった。


……あれから五年か、と今さらながら、月日の経過を思ふ。


あれから五年が経った現在、私は現代手猿楽を興して嵐悳江と名乗り、作品を人前で演じてゐる。

日本の傳統藝能に生きてゐるといふ主軸は、五年前と変わっていないはずだ。


人の活躍によっておのれを奮起させることが出来ない者は、

藝事の素質など無いと断言してよい。



私は、夢を叶へた彼女の現在を知ったことで、改めておのれの手猿楽師としての在り方に、発奮するものを覚えた。




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