娘から電話があって子育てのことやなんか20分くらい話した。
話しの中でその娘が小学2年生の頃の出来事が頭に浮かんだ。
ここにその出来事のことを以前に書いたような気もするけど、
書いてないような気もする。
まぁ、二度書いてもその頃の自分とは又、違う自分だろうから、書いてみる。
平日の朝、小学生だった二人の娘に起きるように声をかけた。
下の2年生の方は眼が覚めているらしいのになかなか起きようとしなかった。
私は学校に遅れることを心配して声を何度も掛けた。
・・と、その時、私は娘を『学校に行かせよう、行かせようとしている』、
自分だったことに気づいて、声をかけるのを止めた。
こういうことをするのは効果がない、と気づいた。
小2は再び眠り込んでしまったようで、気が付いたら学校の始業時刻はとっくに過ぎていた。
「なんで起こしてくれなかったの!」と私を責め、
遅刻することが恥ずかしいと思ったのだろう、
「お母さん、今日は休みますと学校に電話して」と頼んで来た。
「私が声をかけたとき、目が覚めたのに、
起きなかったのは○△子だよ。だから、
お母さんは学校に電話しない。
寝坊したと自分で先生に言いなさい。」
というようなことを話した。
小2は観念したらしく、学校に行った。
授業の始まっている教室の中、多くの級友の前で
そういうことを言うのは当時優等生だった小2にはかなり勇気が要ったに違いない。
けれど、学校から帰って来た時は、
朝と違って凄く生き生きとしていたことをよく憶えている。
自分で、寝坊しました、とちゃんと言えたことが、なにか彼女にとってよかったのだろうと、
当時思ったことを憶えている。
翌日から一回声をかけたら、ぱっと起きるようになった。
ずっとそれは続いたよ。
娘と私、いい経験になった、と思った。
それまでの月日、毎朝、何度も何度も声かけて、最後は暴力的に布団をはぐということもした。
そうした結果、小2は起きなくちゃいけないとわかっていながら、
いつか本当に遅刻しそうになったら、
お母さんは起こしてくれる、と思うように“なった”。
起こされる・・のは決していい気分ではないのに、
それに甘んじるようになってしまった。
そうなるようにそうなるように、私がしたのだった。
小2を自分の意志で物事を行うことが出来る人間だと見なさずに、
ロボットを動かそうとして、スイッチを入れるみたいに、
『起こそう、起こそう、学校に行かせよう、行かせよう』としていた。
無意識的なその思いが小2をそういう姿にした。
小2をその時間、意志のないロボットのように扱ったから、
小2はその時間、ちゃんとロボット状態になった。
教育学のピグマリオン効果、実証だよ。
量子の集まりである対象に向かって~しようしようとすると、
~しようとしてないときより時間がかかる、
という量子力学のゼノン効果でもある。
~しようも、~させよう、も同じだ。
やかんの水を火のついたコンロにかけたら沸くという、
水や火そのものの本来性を信頼していないことから、
沸かないか沸かないかという思いが生まれるのと同じように、
自分の意志で起きる、自分の意志で学校に行く、という、
自らの意志で物事を行うのが人間で在るということを信頼してないことから、
(そういう自分だと、自覚はなくとも)
他者に~をさせよう、子供を学校に行かせよう、というような思いを生む。
ロボットと違って、人間は心や意識を持ち、
自分の意志で行為行動したい生きものだという、
あまりにも当たり前のことを忘れてしまっていることが
親子関係も夫婦関係も国同士の関係もよくないものにするんじゃないかと思うよ。
この最後の文章も何度か書いただろうなぁ・・
ま、いいか。何度も思うんだもの。
話しの中でその娘が小学2年生の頃の出来事が頭に浮かんだ。
ここにその出来事のことを以前に書いたような気もするけど、
書いてないような気もする。
まぁ、二度書いてもその頃の自分とは又、違う自分だろうから、書いてみる。
平日の朝、小学生だった二人の娘に起きるように声をかけた。
下の2年生の方は眼が覚めているらしいのになかなか起きようとしなかった。
私は学校に遅れることを心配して声を何度も掛けた。
・・と、その時、私は娘を『学校に行かせよう、行かせようとしている』、
自分だったことに気づいて、声をかけるのを止めた。
こういうことをするのは効果がない、と気づいた。
小2は再び眠り込んでしまったようで、気が付いたら学校の始業時刻はとっくに過ぎていた。
「なんで起こしてくれなかったの!」と私を責め、
遅刻することが恥ずかしいと思ったのだろう、
「お母さん、今日は休みますと学校に電話して」と頼んで来た。
「私が声をかけたとき、目が覚めたのに、
起きなかったのは○△子だよ。だから、
お母さんは学校に電話しない。
寝坊したと自分で先生に言いなさい。」
というようなことを話した。
小2は観念したらしく、学校に行った。
授業の始まっている教室の中、多くの級友の前で
そういうことを言うのは当時優等生だった小2にはかなり勇気が要ったに違いない。
けれど、学校から帰って来た時は、
朝と違って凄く生き生きとしていたことをよく憶えている。
自分で、寝坊しました、とちゃんと言えたことが、なにか彼女にとってよかったのだろうと、
当時思ったことを憶えている。
翌日から一回声をかけたら、ぱっと起きるようになった。
ずっとそれは続いたよ。
娘と私、いい経験になった、と思った。
それまでの月日、毎朝、何度も何度も声かけて、最後は暴力的に布団をはぐということもした。
そうした結果、小2は起きなくちゃいけないとわかっていながら、
いつか本当に遅刻しそうになったら、
お母さんは起こしてくれる、と思うように“なった”。
起こされる・・のは決していい気分ではないのに、
それに甘んじるようになってしまった。
そうなるようにそうなるように、私がしたのだった。
小2を自分の意志で物事を行うことが出来る人間だと見なさずに、
ロボットを動かそうとして、スイッチを入れるみたいに、
『起こそう、起こそう、学校に行かせよう、行かせよう』としていた。
無意識的なその思いが小2をそういう姿にした。
小2をその時間、意志のないロボットのように扱ったから、
小2はその時間、ちゃんとロボット状態になった。
教育学のピグマリオン効果、実証だよ。
量子の集まりである対象に向かって~しようしようとすると、
~しようとしてないときより時間がかかる、
という量子力学のゼノン効果でもある。
~しようも、~させよう、も同じだ。
やかんの水を火のついたコンロにかけたら沸くという、
水や火そのものの本来性を信頼していないことから、
沸かないか沸かないかという思いが生まれるのと同じように、
自分の意志で起きる、自分の意志で学校に行く、という、
自らの意志で物事を行うのが人間で在るということを信頼してないことから、
(そういう自分だと、自覚はなくとも)
他者に~をさせよう、子供を学校に行かせよう、というような思いを生む。
ロボットと違って、人間は心や意識を持ち、
自分の意志で行為行動したい生きものだという、
あまりにも当たり前のことを忘れてしまっていることが
親子関係も夫婦関係も国同士の関係もよくないものにするんじゃないかと思うよ。
この最後の文章も何度か書いただろうなぁ・・
ま、いいか。何度も思うんだもの。