本を読んで面白いと思うのは、知らなかった考えにあたって、
なるほどなるほど・・そうだよね、うんそうそう・・ってなることと、
今まで自分なりにこういうことかなって思ってたことが
別の表現で書かれていることなんかだ。
この本を読んだ。特に面白かったのは
「コミュニケーション能力とは何か」という章と、
「弟子という生き方」の章だった。
『コミュニケーション失調からの回復の一番基本的な方法は、
いったん口をつぐむこと、
いったん自分の立場を「かっこにいれる」ことです。
コミュニケーションの失調を回復するためには、自分の立場を離れて、
身を乗り出すほかにありません』
ほんとうにそうだよね~
この著者の本はなるほどなるほどってよく思う。
数学的思考をするから面白い。
弟子という生き方・・・以下引用です。
『師に就いてものを習うとき、弟子は自分がこれから何を学ぶことになるのか、
修業を始める時点では知らないのだ。
弟子のわずかな知見や経験の範囲には、
とても収まりきらないようなスケールの知識や技術を学ぶわけですから、
それが何であり、どういう意味を持ち、どのように活用されるかものであるかを、
稽古開始時点で見通せるはずがない。
自分はこれから「自分の手持ちの物差し」では
その価値が考慮できないような種類のことを学ぶのだ、ということです。
自分がこれから学ぶことの価値をはかる「物差し」は、
修業を通じてこれから自分で手作りしてゆかなければならない。
だから今はわからない。わからなくて当然である。
今はわからなくてもよい。
師弟関係というのは、双方向的というより、
師の叡智、師の技量に対する〈帰依〉がないと成立しない。
師の一挙手一投足、片言隻句すべてが
叡智に満ち満ちていると信じている弟子からすれば、
先生が何をしても、それこそくしゃみをしても、あくびをしても、
「先生はそうすることによって何を伝えようとしているのだろう」と
我が身に引きつけて、食い入るように見つめて、
無限の解釈運動を開始してしまう。
「師の一挙手一投足、片言隻句すべてが叡智に満ち満ちている」
という信憑がいったん成立してしまえば、
もうあとは学びの運動はエンドレスなんです。
「あなたはそう言うことによって、何を言おうとしているのか?」というのは、
ジャック・ラカンが「子供の問い」と名付けたものですけれど、
弟子の問いでもあるのです。
この問いは、師がどう答えても、終わらない。
仮に師が「私が言おうとしたのは、コレコレこういうことである」
と正直に答えたとしても、その時には
「どうして先生は、あんなに正直に答えを教えてしまったのだろう。
先生はそうすることによって私に何を伝えようとしたのか…?」
という次なる問いが生れてくる。そういうものなんです。
師が答えを隠せば、弟子は「なぜ答えを隠すか」を問い、
師が答えを明かせば、弟子は「なぜ答えを明かすか」を問う。
弟子とは師が何をしても、そのすべてを
自分に向けられた「問い」として、「暗示」として、
「叡智へのヒント」として受け止めてしまう、そういうポジションのことなんです。
ですから、いったん弟子のポジションを取ったものは、
無限の解釈運動に巻き込まれてしまう。
弟子になったものは、自学自習のサイクルに入り込んでしまう。
学ぶというのは、なんらかの実定的な知識や技術や情報を教わることではなく、
「学ぶ仕方を学ぶ」ということなんです。
師を持つ弟子のポジションというのは大きなメリットがある。
それは、自分を守る必要がない、ということです。
自分の今の手持ちの知的なフレームワークや、
今の自分が使える技などは、いつ捨てても平気なんです。先生がいるから。
「お前のその知識や技術は使い物にならない」と
誰かに言われても、全然気にならない。
だってまさに自分の手持ちの知識や技術が使い物にならないからこそ、
師に就いて学んでいるわけで、
「そんなこと、先刻ご承知だい」ということです。
あんたに言われるよりはるか前から、自分がどれくらいものを知らないか、
技が使えないか、誰よりも自分が知っていますよ。
だから師匠に就いて学んでいるじゃないか」という話です。
弟子はいくらでも間違えることが出来る。
いくらでも失敗することが出来る。
この広々とした「負けしろ」が弟子というポジションの最大の贈り物です。
今の自分の知見や技術に「居着かない」でいられる。
この開放性が弟子であることの最大のメリットだと思います。』
・・・ね、面白いでしょう。
なるほどなるほど・・そうだよね、うんそうそう・・ってなることと、
今まで自分なりにこういうことかなって思ってたことが
別の表現で書かれていることなんかだ。
この本を読んだ。特に面白かったのは
「コミュニケーション能力とは何か」という章と、
「弟子という生き方」の章だった。
『コミュニケーション失調からの回復の一番基本的な方法は、
いったん口をつぐむこと、
いったん自分の立場を「かっこにいれる」ことです。
コミュニケーションの失調を回復するためには、自分の立場を離れて、
身を乗り出すほかにありません』
ほんとうにそうだよね~
この著者の本はなるほどなるほどってよく思う。
数学的思考をするから面白い。
弟子という生き方・・・以下引用です。
『師に就いてものを習うとき、弟子は自分がこれから何を学ぶことになるのか、
修業を始める時点では知らないのだ。
弟子のわずかな知見や経験の範囲には、
とても収まりきらないようなスケールの知識や技術を学ぶわけですから、
それが何であり、どういう意味を持ち、どのように活用されるかものであるかを、
稽古開始時点で見通せるはずがない。
自分はこれから「自分の手持ちの物差し」では
その価値が考慮できないような種類のことを学ぶのだ、ということです。
自分がこれから学ぶことの価値をはかる「物差し」は、
修業を通じてこれから自分で手作りしてゆかなければならない。
だから今はわからない。わからなくて当然である。
今はわからなくてもよい。
師弟関係というのは、双方向的というより、
師の叡智、師の技量に対する〈帰依〉がないと成立しない。
師の一挙手一投足、片言隻句すべてが
叡智に満ち満ちていると信じている弟子からすれば、
先生が何をしても、それこそくしゃみをしても、あくびをしても、
「先生はそうすることによって何を伝えようとしているのだろう」と
我が身に引きつけて、食い入るように見つめて、
無限の解釈運動を開始してしまう。
「師の一挙手一投足、片言隻句すべてが叡智に満ち満ちている」
という信憑がいったん成立してしまえば、
もうあとは学びの運動はエンドレスなんです。
「あなたはそう言うことによって、何を言おうとしているのか?」というのは、
ジャック・ラカンが「子供の問い」と名付けたものですけれど、
弟子の問いでもあるのです。
この問いは、師がどう答えても、終わらない。
仮に師が「私が言おうとしたのは、コレコレこういうことである」
と正直に答えたとしても、その時には
「どうして先生は、あんなに正直に答えを教えてしまったのだろう。
先生はそうすることによって私に何を伝えようとしたのか…?」
という次なる問いが生れてくる。そういうものなんです。
師が答えを隠せば、弟子は「なぜ答えを隠すか」を問い、
師が答えを明かせば、弟子は「なぜ答えを明かすか」を問う。
弟子とは師が何をしても、そのすべてを
自分に向けられた「問い」として、「暗示」として、
「叡智へのヒント」として受け止めてしまう、そういうポジションのことなんです。
ですから、いったん弟子のポジションを取ったものは、
無限の解釈運動に巻き込まれてしまう。
弟子になったものは、自学自習のサイクルに入り込んでしまう。
学ぶというのは、なんらかの実定的な知識や技術や情報を教わることではなく、
「学ぶ仕方を学ぶ」ということなんです。
師を持つ弟子のポジションというのは大きなメリットがある。
それは、自分を守る必要がない、ということです。
自分の今の手持ちの知的なフレームワークや、
今の自分が使える技などは、いつ捨てても平気なんです。先生がいるから。
「お前のその知識や技術は使い物にならない」と
誰かに言われても、全然気にならない。
だってまさに自分の手持ちの知識や技術が使い物にならないからこそ、
師に就いて学んでいるわけで、
「そんなこと、先刻ご承知だい」ということです。
あんたに言われるよりはるか前から、自分がどれくらいものを知らないか、
技が使えないか、誰よりも自分が知っていますよ。
だから師匠に就いて学んでいるじゃないか」という話です。
弟子はいくらでも間違えることが出来る。
いくらでも失敗することが出来る。
この広々とした「負けしろ」が弟子というポジションの最大の贈り物です。
今の自分の知見や技術に「居着かない」でいられる。
この開放性が弟子であることの最大のメリットだと思います。』
・・・ね、面白いでしょう。