サンデー毎日だったか、今朝の新聞に広告が出ていて、
その中に福岡伸一ハカセの対談が載っているらしく、さわりが出ていた。
「生きることに目的はありません」というもの。
その本文も読んでいないのはもちろんだけど、
動的平衡、せいめいのはなし、なんかを読んでそういう感じのことを彼は言っていたので、察しがつく。
生命現象はすべて動的平衡というありようをしているので、因果関係というモノは成立しない、
生命にデザイナーがいると考えるのは単なる脳の癖で、
そういうものはない、ただ動的平衡だけがある、
よって、生きる目的などもてないもの・・といういうような主旨なんじゃないかと想像した。
全体で秩序だったものをつくれてしまう、というような文章も彼にあって、
そのことでこのブログでも、
そう“なっている”のが生命の在りようだと、
言葉がそう言っている、と書いたことがある。
生きる目的というと顕在意識で考えるもののように受け取りがちだけど、
生命というもの、(勿論人間も含めて)の存在の仕方・存在の在りよう・存在の在り方が
そうなっている。何故だかそういう目的が予め仕組まれている。
生命とはそういうもの。
そんなことしたくないと思おうと、そんなの趣味じゃないと思おうと、
私たちはその在り方から逃れられない生き物なんだよね。
その中に福岡伸一ハカセの対談が載っているらしく、さわりが出ていた。
「生きることに目的はありません」というもの。
その本文も読んでいないのはもちろんだけど、
動的平衡、せいめいのはなし、なんかを読んでそういう感じのことを彼は言っていたので、察しがつく。
生命現象はすべて動的平衡というありようをしているので、因果関係というモノは成立しない、
生命にデザイナーがいると考えるのは単なる脳の癖で、
そういうものはない、ただ動的平衡だけがある、
よって、生きる目的などもてないもの・・といういうような主旨なんじゃないかと想像した。
全体で秩序だったものをつくれてしまう、というような文章も彼にあって、
そのことでこのブログでも、
そう“なっている”のが生命の在りようだと、
言葉がそう言っている、と書いたことがある。
生きる目的というと顕在意識で考えるもののように受け取りがちだけど、
生命というもの、(勿論人間も含めて)の存在の仕方・存在の在りよう・存在の在り方が
そうなっている。何故だかそういう目的が予め仕組まれている。
生命とはそういうもの。
そんなことしたくないと思おうと、そんなの趣味じゃないと思おうと、
私たちはその在り方から逃れられない生き物なんだよね。