(食べたくなる)と (怒りたくなる)
食べたくなる・食べたい気持ちになるのは、腹が空いてくるとそうなる。
そういう気持ちになるには腹が空いているという身体の“状態”がある。
怒りたくなる・怒りが湧いて来る、
そういう気持ちになるにはそうなる心の“状態”がある。
怒り行為の元は心の状態。
『虫の居所が悪い』というのもそういった心の“状態”を云う。
普段は気にしないようなわずかな物事が気にさわり、怒りっぽい状態にある、
と広辞苑。
「状態にある」とはぴったりの表現。「に在る」
同じ物事に対しても、それを見聞きする人の心の“状態”によって、
怒る人もあれば、怒りが湧いて来ない人もある。
当たり前じゃないかと言われそうな気もするけど。
(心の状態)とはどういうことなんだろうか、と考えると、
いろんな物事について、その一つ一つにどういう見方を持っているのか、
それに尽きるんじゃないか。
見方というもの、殆どが潜在意識のレベルだから、
簡単に行かないんだけど・・
ご飯茶椀は左に、汁椀は右に置くもの、魚は頭を左にして盛り付けるもの、
そんな見方をずーっと持ってる私はそうしてないものを見ると、
気になって並び替えたくなる。
そんなふうな、何十年も変わらない見方を持っている場合もあるし、
何十年も持っていた見方が何かの出来事でころっと変わる場合もあると思う。
「虫の居所が悪い」というようなのは、
コレくらいなら許せるというような、普段のその人の気持ちの受け入れ分量があるのだけれど、
腹が痛いとか、急いでいるとか、そういった自分の側の都合によって、
気持ちの受け入れ分量が少なくなってしまっている状態かと思う。
コレくらいなら許せるものである、というその出来事についての見方が、
虫の居所の悪いせいで、変わってしまう。
自分の気持ちが快適になってない元である心の状態は、
変えたいという意志があれば変えられる。
自分が快適でない時、気分が良くない時、自分の意識をよく観察すると、
不愉快になる元の、見方がで~んと鎮座している。
でも無意識のうちの、こういうのは正しい!があるとなかなか見つからない。
一歩ずつ一歩ずつ階段を上がるように練習だ。
久しぶりにこんな事書いたよ。
本当に気持ちも身体も快適になる見方こそ、真に正しい見方なんだろうか・・・
そういう見方、人間観、世界観て、あると思う。
食べたくなる・食べたい気持ちになるのは、腹が空いてくるとそうなる。
そういう気持ちになるには腹が空いているという身体の“状態”がある。
怒りたくなる・怒りが湧いて来る、
そういう気持ちになるにはそうなる心の“状態”がある。
怒り行為の元は心の状態。
『虫の居所が悪い』というのもそういった心の“状態”を云う。
普段は気にしないようなわずかな物事が気にさわり、怒りっぽい状態にある、
と広辞苑。
「状態にある」とはぴったりの表現。「に在る」
同じ物事に対しても、それを見聞きする人の心の“状態”によって、
怒る人もあれば、怒りが湧いて来ない人もある。
当たり前じゃないかと言われそうな気もするけど。
(心の状態)とはどういうことなんだろうか、と考えると、
いろんな物事について、その一つ一つにどういう見方を持っているのか、
それに尽きるんじゃないか。
見方というもの、殆どが潜在意識のレベルだから、
簡単に行かないんだけど・・
ご飯茶椀は左に、汁椀は右に置くもの、魚は頭を左にして盛り付けるもの、
そんな見方をずーっと持ってる私はそうしてないものを見ると、
気になって並び替えたくなる。
そんなふうな、何十年も変わらない見方を持っている場合もあるし、
何十年も持っていた見方が何かの出来事でころっと変わる場合もあると思う。
「虫の居所が悪い」というようなのは、
コレくらいなら許せるというような、普段のその人の気持ちの受け入れ分量があるのだけれど、
腹が痛いとか、急いでいるとか、そういった自分の側の都合によって、
気持ちの受け入れ分量が少なくなってしまっている状態かと思う。
コレくらいなら許せるものである、というその出来事についての見方が、
虫の居所の悪いせいで、変わってしまう。
自分の気持ちが快適になってない元である心の状態は、
変えたいという意志があれば変えられる。
自分が快適でない時、気分が良くない時、自分の意識をよく観察すると、
不愉快になる元の、見方がで~んと鎮座している。
でも無意識のうちの、こういうのは正しい!があるとなかなか見つからない。
一歩ずつ一歩ずつ階段を上がるように練習だ。
久しぶりにこんな事書いたよ。
本当に気持ちも身体も快適になる見方こそ、真に正しい見方なんだろうか・・・
そういう見方、人間観、世界観て、あると思う。