他者の願いが自分の願いになっているとき、
心は快適・・
窮地に居て、少しの水を自分だけが飲もうとするというのは、
自分の身体・肉体の幸福を第一に考えているということだろう。
それが悪いわけじゃないのは勿論だ。
ただ、身体の幸福じゃなく、意識の幸福を第一に考えたら自分だけ飲もうというふうにならない。
そう行動しようとすると、自分の意識が幸福な状態ではなくなるとわかるから。
人間を第一に肉体と捉えるか、精神・意識と捉えるか、で対応が違ってくる。
心が快適と感じたいから、ひとはそのために身体を快適にしようとする。
身体がガンになったら、心が不幸になる、という方程式があるので、
身体がガンにならないようにと願う。
その方程式と違って、身体がガンになっても心は不幸にならないと自分でわかったら、
ガンにならないようにとは殊更に願うこともない。
自然に居るだけだと思う。
お金がないと、心が不幸になる、という方程式があるので、
お金を多く持ちたいと願う。
その方程式と違って、お金がなくなっても心が不幸にならないと、自分がわかったら、
お金がなくならないようにと殊更に願うこともない。
そういう願いが頭に浮かぶ事はない。
と、なると、金を得よう、身体を健康にしよう、という思考は頭に浮かばなくなる。
と、なると、それらが手に入る・・・のではないか・・・
~しよう、しようとするとそれは手に入らないことが多いから。
こういったことは今までに何回も考え、書いてきたけど、また書くね。
うまいことやろう、うまいことやろう、と思っていると身体は緊張するし、
寝よう寝ようとすると寝られない、
速くしよう速くしようとなってると、焦って結果的に早く出来ない、
そんなふうになりやすい。
その時点で自然に任せると、自分のその時の能力・状態が自動的に引き出される。
寝よう寝ようという思いに邪魔されず、身体は自然のままに眠りにつく。
うまいことやろう、という思いに邪魔されずに、在る能力が発揮される。
速くしよう、という思いに邪魔されずに、在る能力がそのまま発揮される。
だが、しかし・・・寝よう、速くしよう、うまいことやろう、
という願いが生まれるのは、自分がそれを出来るとわかっているからだ。
自分が出来ないとわかっていることは人は望まないから。
パスポートも持ってないのに今日、今すぐにアメリカに行きたいなんて望まないのと同じで。
こう考えて来ると・・・
自分はそのようなことが出来るのだから、何も心配せずに、
身体を健康にしよう、金を得よう、という思いなど持たずに居ればいい。
無い方が結果的にそうなることになる。
元々、健康でありたい、快適に暮らしたい、というのは本能のようなものなんだから、
心を在るがまま、自然にしていれば、
結果的には、自動的に願いはあらゆる相互作用で、叶ってゆく。
そういうことが「無為自然」ということなのかもしれない。
・・・考えるとそういうことになってしまう。
わたしがそういう状態である、というわけじゃないよ。
それとこれは全く別。
山岸さんに、「条理と相対者を切り離して」というのがあったけど、
私にもそう言わせてね。条理と相対者は切り離して読んでみて下さい。
心は快適・・
窮地に居て、少しの水を自分だけが飲もうとするというのは、
自分の身体・肉体の幸福を第一に考えているということだろう。
それが悪いわけじゃないのは勿論だ。
ただ、身体の幸福じゃなく、意識の幸福を第一に考えたら自分だけ飲もうというふうにならない。
そう行動しようとすると、自分の意識が幸福な状態ではなくなるとわかるから。
人間を第一に肉体と捉えるか、精神・意識と捉えるか、で対応が違ってくる。
心が快適と感じたいから、ひとはそのために身体を快適にしようとする。
身体がガンになったら、心が不幸になる、という方程式があるので、
身体がガンにならないようにと願う。
その方程式と違って、身体がガンになっても心は不幸にならないと自分でわかったら、
ガンにならないようにとは殊更に願うこともない。
自然に居るだけだと思う。
お金がないと、心が不幸になる、という方程式があるので、
お金を多く持ちたいと願う。
その方程式と違って、お金がなくなっても心が不幸にならないと、自分がわかったら、
お金がなくならないようにと殊更に願うこともない。
そういう願いが頭に浮かぶ事はない。
と、なると、金を得よう、身体を健康にしよう、という思考は頭に浮かばなくなる。
と、なると、それらが手に入る・・・のではないか・・・
~しよう、しようとするとそれは手に入らないことが多いから。
こういったことは今までに何回も考え、書いてきたけど、また書くね。
うまいことやろう、うまいことやろう、と思っていると身体は緊張するし、
寝よう寝ようとすると寝られない、
速くしよう速くしようとなってると、焦って結果的に早く出来ない、
そんなふうになりやすい。
その時点で自然に任せると、自分のその時の能力・状態が自動的に引き出される。
寝よう寝ようという思いに邪魔されず、身体は自然のままに眠りにつく。
うまいことやろう、という思いに邪魔されずに、在る能力が発揮される。
速くしよう、という思いに邪魔されずに、在る能力がそのまま発揮される。
だが、しかし・・・寝よう、速くしよう、うまいことやろう、
という願いが生まれるのは、自分がそれを出来るとわかっているからだ。
自分が出来ないとわかっていることは人は望まないから。
パスポートも持ってないのに今日、今すぐにアメリカに行きたいなんて望まないのと同じで。
こう考えて来ると・・・
自分はそのようなことが出来るのだから、何も心配せずに、
身体を健康にしよう、金を得よう、という思いなど持たずに居ればいい。
無い方が結果的にそうなることになる。
元々、健康でありたい、快適に暮らしたい、というのは本能のようなものなんだから、
心を在るがまま、自然にしていれば、
結果的には、自動的に願いはあらゆる相互作用で、叶ってゆく。
そういうことが「無為自然」ということなのかもしれない。
・・・考えるとそういうことになってしまう。
わたしがそういう状態である、というわけじゃないよ。
それとこれは全く別。
山岸さんに、「条理と相対者を切り離して」というのがあったけど、
私にもそう言わせてね。条理と相対者は切り離して読んでみて下さい。