昨日だか一昨日だかに書いた、周囲と調和して全体を秩序立てて作れてしまう・・
という生命の在りよう・在り方から逃れる事はできない・・・
ということがどういう現象に現れているかは日常全ての現象に見られる。
湯川博士の「真実」という詩みたいな文章にもそれが書かれてある。
「・・・現実はその根底において、常に簡単な法則に従って動いているのである。
・・・それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。
・・・現実の背後に、より広大な真実の世界が横たわっていることに気づかないのである。
現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。
真実はやがて現実となるのである。」
湯川博士が云う、簡単な法則とは上に書いた生命の在りよう・在り方、そのことかと思う。
生命はそう“なっている”。
それは生命のことで、人間界は自然界と同じじゃないという反論を持つ人が居るかもしれないので、
それは前にも書いたことがあるけど、又、書くね。
人間もその手で人間を造ることは出来ないところの自然のものであり、
その人間の意識から人間界の現象は発生するものなので、
この法則は当てはまる。で、湯川博士もこう書いているのだろう。
この詩の途中にはこういうのもある・・・
「われわれ凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。
そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、
現実のように不安になる。」コレ。
実に上手い表現だなぁと思う。ホントにその通りだ。
現実のように豹変し、なんていうことはしょっちゅうある。
ちょっとした一言で一気に粗暴な気持ちになったり、
ちょっとした一言で一気に慈愛に満ちた気持ちになったり、
何からどう解決して云ったらいいか皆目わからない混沌状態の気持ちになったり、
ちょっとした出来事で不安な気持ちがブワ~と膨れ上がったり、
・・・空である現象を空と捉えられない意識からそうなるんだと思うけど、
わかっちゃいるがやめられない。
一切のトラワレのない人になりたいもんだけど。
えーっと脱線だ。
・・続く。
という生命の在りよう・在り方から逃れる事はできない・・・
ということがどういう現象に現れているかは日常全ての現象に見られる。
湯川博士の「真実」という詩みたいな文章にもそれが書かれてある。
「・・・現実はその根底において、常に簡単な法則に従って動いているのである。
・・・それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。
・・・現実の背後に、より広大な真実の世界が横たわっていることに気づかないのである。
現実のほかにどこに真実があるかと問うことなかれ。
真実はやがて現実となるのである。」
湯川博士が云う、簡単な法則とは上に書いた生命の在りよう・在り方、そのことかと思う。
生命はそう“なっている”。
それは生命のことで、人間界は自然界と同じじゃないという反論を持つ人が居るかもしれないので、
それは前にも書いたことがあるけど、又、書くね。
人間もその手で人間を造ることは出来ないところの自然のものであり、
その人間の意識から人間界の現象は発生するものなので、
この法則は当てはまる。で、湯川博士もこう書いているのだろう。
この詩の途中にはこういうのもある・・・
「われわれ凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。
そして現実のように豹変し、現実のように複雑になり、
現実のように不安になる。」コレ。
実に上手い表現だなぁと思う。ホントにその通りだ。
現実のように豹変し、なんていうことはしょっちゅうある。
ちょっとした一言で一気に粗暴な気持ちになったり、
ちょっとした一言で一気に慈愛に満ちた気持ちになったり、
何からどう解決して云ったらいいか皆目わからない混沌状態の気持ちになったり、
ちょっとした出来事で不安な気持ちがブワ~と膨れ上がったり、
・・・空である現象を空と捉えられない意識からそうなるんだと思うけど、
わかっちゃいるがやめられない。
一切のトラワレのない人になりたいもんだけど。
えーっと脱線だ。
・・続く。