赤ちゃんが気持ちよく寝るにはこちらがどうしたらいいか、
どういう行動をとったらいいか、自然に考える。
泣き止まない時も赤ちゃんを、
どういう状態なのかよく観察する。
こちらがどうしたら赤ちゃんが泣き止むか、観察しながらやってみる。
おっぱいを飲まない赤ちゃんを見て、
どうしてなのか観察する。
こちらがどうしたら、赤ちゃんが飲むか、いろいろやってみる。
離乳食を食べないと、どうしてなのか、赤ちゃんを観察する。
どうしたら食べるか推察し、工夫し、やってみる。
考えていろいろやってみる。
いろんな場面で、やった結果を見て、またやってみる。
そういう繰り返しを自然にやったもんだ。
そうして経験知を得る。
やらなければわからないこと。
そういう経験をしてないひとには泣く赤ん坊に手も足も出ない。
私も産みたてはそうだった。
でも、ふにゃふにゃの赤ん坊を大事に思う気持ちだけはあったから、
いろいろやってみて、いろいろな経験知を得た。
そういう時に言葉で直接赤ちゃんをなんとかしようとする人はいない。
泣かないで寝なさい、とか
おっぱい飲みなさい、とか
離乳食残さず食べなさい、とか
言葉で直接言う人はいない。多分。
赤ちゃんがそう“なる”にはこちらがどうするか、
だけだと皆わかっている。
謂わば、そう“なる”のは赤ちゃんで、
こちらはそう“なるよう”な何かの役目をするだけだとわかっている。
育つのは赤ちゃんだとわかっている。
実際それを自然にわかって、行動しているのに、
わかっている、そのことをわかっていない人は多いかもしれない。
なので、子供が言葉を使うようになると、
子供自身がそう“なるように”
そのために何かをする、
ということを知らないうちに忘れ、
自分が主人公になってしまう。
直接子供にあーしろこーしろと言葉で指図するようになる。
育つのは子供なんだけど・・・。
なので、現代の「子育て」という言葉そのものも、
こういう現状を表わしているんだろうね。
子供は育てるものだと無意識のうちに思ってる。
子供は育てるんじゃなくて育つもの。
なので昔は子育てなんて言葉はなかった。子守だけだった。
どういう行動をとったらいいか、自然に考える。
泣き止まない時も赤ちゃんを、
どういう状態なのかよく観察する。
こちらがどうしたら赤ちゃんが泣き止むか、観察しながらやってみる。
おっぱいを飲まない赤ちゃんを見て、
どうしてなのか観察する。
こちらがどうしたら、赤ちゃんが飲むか、いろいろやってみる。
離乳食を食べないと、どうしてなのか、赤ちゃんを観察する。
どうしたら食べるか推察し、工夫し、やってみる。
考えていろいろやってみる。
いろんな場面で、やった結果を見て、またやってみる。
そういう繰り返しを自然にやったもんだ。
そうして経験知を得る。
やらなければわからないこと。
そういう経験をしてないひとには泣く赤ん坊に手も足も出ない。
私も産みたてはそうだった。
でも、ふにゃふにゃの赤ん坊を大事に思う気持ちだけはあったから、
いろいろやってみて、いろいろな経験知を得た。
そういう時に言葉で直接赤ちゃんをなんとかしようとする人はいない。
泣かないで寝なさい、とか
おっぱい飲みなさい、とか
離乳食残さず食べなさい、とか
言葉で直接言う人はいない。多分。
赤ちゃんがそう“なる”にはこちらがどうするか、
だけだと皆わかっている。
謂わば、そう“なる”のは赤ちゃんで、
こちらはそう“なるよう”な何かの役目をするだけだとわかっている。
育つのは赤ちゃんだとわかっている。
実際それを自然にわかって、行動しているのに、
わかっている、そのことをわかっていない人は多いかもしれない。
なので、子供が言葉を使うようになると、
子供自身がそう“なるように”
そのために何かをする、
ということを知らないうちに忘れ、
自分が主人公になってしまう。
直接子供にあーしろこーしろと言葉で指図するようになる。
育つのは子供なんだけど・・・。
なので、現代の「子育て」という言葉そのものも、
こういう現状を表わしているんだろうね。
子供は育てるものだと無意識のうちに思ってる。
子供は育てるんじゃなくて育つもの。
なので昔は子育てなんて言葉はなかった。子守だけだった。