他者の喜びが自分の喜びにならない現象はこの世に多いと思う。
高校受験や大学受験で合格者の人数が決まっていると、
ひとの失敗が自分の合格に繋がることがある。
こういうのを「ひとの不幸は蜜の味」なんていう言葉で表わしたりするんだろう。
けど、そこで凄く喜んだら、隣に泣いている人がいたなんてことがある。
そういうとき、ひとはどんな反応をするか?
喜びの表現を抑えようとするかもしれない。
自分だけ幸福なんて申し訳ないみたいな心が働いてしまうこともあるかもしれない。
優越感に浸るひともあるかもしれない。
けど、優越感は形を変えた劣等感だから・・・ほんとの幸福じゃないことを本人が一番知っている。
知ってることを知らないというのはあるかもしれないけど。
ひとは共に幸福になるというのが一番気楽だということがこういうことでもわかる。
入学したいと思う人が全員入学できればこんなことはない。
こういうことを修得したので卒業できる、ということにすれば、
卒業の人数は決まっているわけじゃないので、
ひとの卒業と自分の卒業は利害関係がないからいいなぁと思う。
アメリカではこういう方式らしいから、日本でも出来ないことじゃないだろうと思うんだけどな。
合格になる数が決まっていると、
「ひとの不幸は蜜の味」になる。
でも不合格になっても人生はそれで終わりになるわけじゃない。
常に「続く」なので。
不合格=不幸とは言い切れないので、人生は面白いんだろうな。
ひとの不幸は蜜の味・・うひひ・・なんてほくそえんでいたら、
後々転落の一途を辿ったなんてこともこの世ではあるかもしれない。
ないかもしれない。
高校受験や大学受験で合格者の人数が決まっていると、
ひとの失敗が自分の合格に繋がることがある。
こういうのを「ひとの不幸は蜜の味」なんていう言葉で表わしたりするんだろう。
けど、そこで凄く喜んだら、隣に泣いている人がいたなんてことがある。
そういうとき、ひとはどんな反応をするか?
喜びの表現を抑えようとするかもしれない。
自分だけ幸福なんて申し訳ないみたいな心が働いてしまうこともあるかもしれない。
優越感に浸るひともあるかもしれない。
けど、優越感は形を変えた劣等感だから・・・ほんとの幸福じゃないことを本人が一番知っている。
知ってることを知らないというのはあるかもしれないけど。
ひとは共に幸福になるというのが一番気楽だということがこういうことでもわかる。
入学したいと思う人が全員入学できればこんなことはない。
こういうことを修得したので卒業できる、ということにすれば、
卒業の人数は決まっているわけじゃないので、
ひとの卒業と自分の卒業は利害関係がないからいいなぁと思う。
アメリカではこういう方式らしいから、日本でも出来ないことじゃないだろうと思うんだけどな。
合格になる数が決まっていると、
「ひとの不幸は蜜の味」になる。
でも不合格になっても人生はそれで終わりになるわけじゃない。
常に「続く」なので。
不合格=不幸とは言い切れないので、人生は面白いんだろうな。
ひとの不幸は蜜の味・・うひひ・・なんてほくそえんでいたら、
後々転落の一途を辿ったなんてこともこの世ではあるかもしれない。
ないかもしれない。