ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

ガラス瓶の紫陽花 

2012-06-19 13:18:27 | ひとの幸福
テーブルに飾ってあったアジサイがしぼんで来たので、

さっき庭から違うのを切って来て、それを又ガラス瓶に挿した。

しぼんで来たアジサイが在る。

それを、あぁ、しぼんで来たなぁと受容する。

「なんでしぼんだんだよー」と文句つける人はあまり居ないだろう。

花は時間が経つとしぼむというプロセスが在ることを知っているからだろう。

それを知らない小さな子供は「なんでしぼんじゃったの?」と思うこともあるかもしれない。


「在るがままでいい」の「在るがまま」という言葉は、

存在がプロセスを経て今そうなっている状態 のことを言うのかと思う。

そのしぼんだアジサイは在るがまま。

しぼんでないアジサイも在るがまま。

庭に咲いてるアジサイも在るがまま。


「在るがままでいい」という言葉は、

その事実、存在の状態についての認識を表わしている言葉と思う。

境地。認識の状態を表わしているのかと思う。

この、「いい」とは善悪の「良い」という判断ではなく、

事実=認識・・みたいなニュアンスなんだろうか。

うん、そうなんだね・・みたいな・・

受け入れる、受容する、そんな感じか・・

対象を「在るがままでいいよ」と捉える境地は、

対象がどのような状態だろうと変わらない。

対象である存在、アジサイは開いたり、しぼんだり、汚く色あせたり、そういう状態になるもの。

止まっていないもの。動き続けているもの。

どの瞬間も在るがままでいいよ。

言葉として「そのままでいいよ」という似たようなものがあるけど、

「そのまま」というと止まっているもののようなニュアンスも感じるので、やはり

境地を表現するには「在るがままでいいよ」という言葉の方が相応しいのかと思う。

在る とは 存在のことで、

どんな存在も止まっているということはないからね~

目には止まっているように見えるこのテーブルも動き続けている。

母に買ってもらってからもう10年以上経つけど、

ずいぶん傷も付いたし、いつかは朽ちてしまうだろうし。


動き続けるものである意識も在るがまま。

そうなるプロセスが在るのでそうなるのはアジサイと一緒だ。

在るがままのものを在るがままと見るのは当たり前・・

嘘をつきたくなる、誤魔化したくなる、のも在るがまま。

否定しても始まらない。

在るものを否定するのは無理がある。




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