昨日だか、老化現象でも別にかまわないというようなことを書いたけど、
老化の先にある死も別にかまわない。
変な表現だけど、まぁ、前から思っていることだけど、
いつ死んでもいい。
今この瞬間死んでもいい。
いつもはこんなふうに書いた後、実際その時にどう思うかはわからない、
と付け加えていたけど、今日は付け加えない。
本当にそれはわからないことではあるけれど、
それを付け加えるのは、
そう言ってたのに実際はあがいていたね~なんて言われないように・・
みたいな気持ちがあったからだ。
昔、初めての子供を産んだ後、身体の一部分がひどく痛いことがあって、
そんな場所のそんな痛みは初めてだったし、
不安に思ったその時、生まれて初めて「死ねない」と思った。
この子を置いて死ねない、そう思ったのだった。
その頃はいつ死んでもいいとよく思ってたから、
死ねないと思ったことが凄く新鮮だった。
あ~、母親になるとこういうふうに思うんだなぁと思った。
若いのにいつ死んでもいいと思ってたなんて、
鬱的な日々を送っていたかのように受け取る人もあるかもしれないけど、
元気に暮らしていた。
今は子供も成長したし、心残りもない。
そりゃ私が死んだらそれなりに悲しんだりしてくれると思うけど、
時間が癒してくれるもんだ。
この子を置いて死ねないというのは母の愛でもあるけれど、
執着でもある。
世界は戦争やいざこざや紛争がたくさん起こっていて、
私のこい願う地球世界はまだ訪れてないけど、
そのこともあ~今はそうなんだなと思えるし。
世界の幸福を願うのは愛だけれど、
それを持って放さないのは執着でもあるから。
祖母、父、義母、母の4人の死に目に遭った。
死の瞬間は一切の執着が消える時なんだろうなぁ。
やりたかったこと、気になっていること、守りたかったもの、
全てを、どうなってもいいと思えるんじゃないか。
そんなこと当たり前か・・・
そのことを思った時、青い本のこれ、
「死んでからの極楽よりも、死の瞬間を、一生を通じての最大の極楽境にします」が浮かんだ。
その極楽状態というのは無我執、無執着という心の状態だろうと思う。
全ての不幸の基は執着だから。
極楽境にします、その、する主体は誰だ?何だ?・・と考えると、
それは、そうなっているもの・自然・生命・宇宙の法則・・
そういったものなんじゃないのかと思った。