家族とか大事に思っているひとが病気や怪我で、
痛い、苦しいという状態にある時、
「早く良くなってほしい」と願う。
家族である他者が良くなる、
相手のことだけを案じているのか、
それだけではないのか・・・・
痛む姿、苦しむ姿を見られない、
「痛い」「苦しい」という言葉を聞くのが辛い、
出来れば聞きたくないというのは、
ひとが今ここで苦しんでいる、
その姿が違う姿であってほしい、という心理。
勿論苦しみが減るような施術や看病とか、
手当てとかの策を講じるという行為は必要だけど、
こういう意識の状態はどうなっているんだろ。
具合が悪い人に早く良くなってほしいと、
願ってしまうのは当たり前だし、
悪くなれなんて思うわけもない。
その中味はどういうものだろう。
病気の家族の具合が良くなると、
自分の気持ちが楽になる。
家族の具合が悪いと自分が辛い。
家族である他者に変わってほしい、良くなってほしいと思う。
自分の気持ちが楽になる為に、
他者の姿が変わってほしいと願う。
わたし、そういう経験がある。
死んでくれたら、どんなに自分が楽になるだろ、
って思った一瞬がある。
良くなって、と思うことがなくなるから。
良くなって、と思う辛さが消えるから。
痛い、苦しいという状態にある時、
「早く良くなってほしい」と願う。
家族である他者が良くなる、
相手のことだけを案じているのか、
それだけではないのか・・・・
痛む姿、苦しむ姿を見られない、
「痛い」「苦しい」という言葉を聞くのが辛い、
出来れば聞きたくないというのは、
ひとが今ここで苦しんでいる、
その姿が違う姿であってほしい、という心理。
勿論苦しみが減るような施術や看病とか、
手当てとかの策を講じるという行為は必要だけど、
こういう意識の状態はどうなっているんだろ。
具合が悪い人に早く良くなってほしいと、
願ってしまうのは当たり前だし、
悪くなれなんて思うわけもない。
その中味はどういうものだろう。
病気の家族の具合が良くなると、
自分の気持ちが楽になる。
家族の具合が悪いと自分が辛い。
家族である他者に変わってほしい、良くなってほしいと思う。
自分の気持ちが楽になる為に、
他者の姿が変わってほしいと願う。
わたし、そういう経験がある。
死んでくれたら、どんなに自分が楽になるだろ、
って思った一瞬がある。
良くなって、と思うことがなくなるから。
良くなって、と思う辛さが消えるから。