「『すべてを引き受ける』という思想」の中の吉本隆明の談で、
「往き」の目と「還り」の目という見出しがあって、
これがなかなか読み取れない。
1章の「科学はどこまで思想するか」の中。
親鸞の言葉の「往相」と「還相」を彼はこう言っているんだけど。
これを吉本隆明の解釈でいうと・・・
往きがけに飢えた人を見て、その人を助けたか、助けなかったのかは、
その時の気分次第でどう振舞ってもいい、
どうでもいいと親鸞は言っていて、それは救済の問題ではない。
救済の問題というのは、そういうことではなくて、
“ある地点まで行って、そこから還って来た、
そういう目で見ること”だと、親鸞は言っている。
(ある地点というのは、境地のことかと。←これはこの文章全部を書いてから思ったことで。
そして、
救済というのはすべての人間が幸福になることだと私は受け取った・・)
そういうふうに見られれば、一つの光景を見ただけで、
そういう人たち全体を見渡せて、
どうすれば救済が可能かという考え方も自ずから出てくるもので、
それが「還りの目」だと親鸞はそういう言い方をしているという。
この「往相」とは知識をとって言えば、知識を追求していって、
世界思想の最高水準まで達するのが「往相」
しかし、真の意味で“知識を全体性として獲得する”というのは、
知識を獲得することが同時に
反=知識、非=知識、不=知識を包括することでなくてはならない。
親鸞はそれを「還相」と呼んでいる。
・・・以上吉本解釈・・ここを読んで、今、なかなかわからない・・
・・で、考える、何度も読んで考える。
知識を全体性として獲得するというのは、
“知識を獲得することが同時に
反=知識、非=知識、不=知識を包括することでなくてはならない。”
というここんとこ“”は何を言ってるかというと、
簡単に言うと、勝負に勝って喜んでいる人が居るということは、
勝負に負けた人がいるということであると、
「反=知識、非=知識、不=知識」を含んでいる目を「還相」ということなんだろうか。
そういう全体性を見られないと、救済は不可能、ということを、
親鸞は言ったのではないかと吉本隆明は捉えているのかと思った・・・
行きの道を歩いていたら、偶然飢えていた人がいた、それを放っといた。
それはそれでいい。
還りがけ(還りの目を持っている)にまた飢えた人に会ったとしたら、
その人を助けることは万人を助けることと同じになり、
それが「還相」ということだと親鸞は言っているらしい。
「還相」とはそう考えると、物事は一体で成り立っている、
世界は一体であるということを体得した目、ということになるんだろうか・・???
・・・さっさっさと読めない本は本当に宝だと勝手に思ってる私であります。
因みにネットからの情報が以下です。
浄土真宗とは、真実の仏教のことであり、
釈迦の教えの真髄である弥陀の本願のことです。
そこには「二種の廻向」が教えられている。
一つに「往相(往生浄土の相状)」、
二つには「還相(還来穢国の相状)」です。
往生浄土の相状とは、今生生きている時に、
弥陀の本願によって救われた人が、一日経てば一日経つだけ、
弥陀の浄土に近づいている相をいいます。
還相廻向とは、弥陀の本願聞き抜いた人が、
一息切れて浄土に往生したならば、そのまま極楽に滞在することはない。
とんぼ返りで娑婆世界(穢国)に戻ってきて、
衆生済度(救済ということかと)に活躍せずにおれなくなる。
そういう相を還相というのです。
・・・以上です。
「往き」の目と「還り」の目という見出しがあって、
これがなかなか読み取れない。
1章の「科学はどこまで思想するか」の中。
親鸞の言葉の「往相」と「還相」を彼はこう言っているんだけど。
これを吉本隆明の解釈でいうと・・・
往きがけに飢えた人を見て、その人を助けたか、助けなかったのかは、
その時の気分次第でどう振舞ってもいい、
どうでもいいと親鸞は言っていて、それは救済の問題ではない。
救済の問題というのは、そういうことではなくて、
“ある地点まで行って、そこから還って来た、
そういう目で見ること”だと、親鸞は言っている。
(ある地点というのは、境地のことかと。←これはこの文章全部を書いてから思ったことで。
そして、
救済というのはすべての人間が幸福になることだと私は受け取った・・)
そういうふうに見られれば、一つの光景を見ただけで、
そういう人たち全体を見渡せて、
どうすれば救済が可能かという考え方も自ずから出てくるもので、
それが「還りの目」だと親鸞はそういう言い方をしているという。
この「往相」とは知識をとって言えば、知識を追求していって、
世界思想の最高水準まで達するのが「往相」
しかし、真の意味で“知識を全体性として獲得する”というのは、
知識を獲得することが同時に
反=知識、非=知識、不=知識を包括することでなくてはならない。
親鸞はそれを「還相」と呼んでいる。
・・・以上吉本解釈・・ここを読んで、今、なかなかわからない・・
・・で、考える、何度も読んで考える。
知識を全体性として獲得するというのは、
“知識を獲得することが同時に
反=知識、非=知識、不=知識を包括することでなくてはならない。”
というここんとこ“”は何を言ってるかというと、
簡単に言うと、勝負に勝って喜んでいる人が居るということは、
勝負に負けた人がいるということであると、
「反=知識、非=知識、不=知識」を含んでいる目を「還相」ということなんだろうか。
そういう全体性を見られないと、救済は不可能、ということを、
親鸞は言ったのではないかと吉本隆明は捉えているのかと思った・・・
行きの道を歩いていたら、偶然飢えていた人がいた、それを放っといた。
それはそれでいい。
還りがけ(還りの目を持っている)にまた飢えた人に会ったとしたら、
その人を助けることは万人を助けることと同じになり、
それが「還相」ということだと親鸞は言っているらしい。
「還相」とはそう考えると、物事は一体で成り立っている、
世界は一体であるということを体得した目、ということになるんだろうか・・???
・・・さっさっさと読めない本は本当に宝だと勝手に思ってる私であります。
因みにネットからの情報が以下です。
浄土真宗とは、真実の仏教のことであり、
釈迦の教えの真髄である弥陀の本願のことです。
そこには「二種の廻向」が教えられている。
一つに「往相(往生浄土の相状)」、
二つには「還相(還来穢国の相状)」です。
往生浄土の相状とは、今生生きている時に、
弥陀の本願によって救われた人が、一日経てば一日経つだけ、
弥陀の浄土に近づいている相をいいます。
還相廻向とは、弥陀の本願聞き抜いた人が、
一息切れて浄土に往生したならば、そのまま極楽に滞在することはない。
とんぼ返りで娑婆世界(穢国)に戻ってきて、
衆生済度(救済ということかと)に活躍せずにおれなくなる。
そういう相を還相というのです。
・・・以上です。