ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「そんなつもりなかった」 「知らなかった」

2013-11-15 14:32:00 | ひとの幸福
幾つもの保育園を歩き回って、ここならと思って、

我が子をその保育園に入れた。

と、さっき書いた・・・・

保育園から帰ってきた子供の元気がなかったりしたら、

保育園で何かあったのか?とか、

友達とうまくやっていけないのか?とか、

誰かに苛められたのか?とか、親なら思う。

そしてどんなふうな保育園ライフを送っているのか知ろうとする。

けど、いいと思って入れた後、

入れたら入れっぱなしで、

子供がどんなにその保育園に行きたがらなくても、

この保育園はいい保育園なんだからと、

追い立てるように行かせて、

後々、その保育園には大きな問題があったと知れた時に、

その保育園でそんなことがあったとは“知らなかった”ということを言う。

確かに“知らなかった”人もあるかと思う。

こんな例は一例で、国会のナンタラ喚問とか、

刑事事件や民事事件でも、

「知らなかった」というような言葉を聞くことがある。

知ろうとして本当にいろいろ調べたけど、

それ以上知ることが出来なかったということもあるし、

最初から知ろうとしなかった、ということもある。


その保育園はいい保育園なんだと信じ込んでいると、

どんなに子供が訴えても泣いても抗議しても、その声が届かないことがある。

いい保育園だという自分の思いを絶対だとして、

聴く耳を失ってしまった、ということだと思う。


よくよく調べると、いい保育園だった時代もあったけど、

その後当事者が変わったり、いろんなわけで変わった、というようなこともある。

変化することがあるということを知らないで、

言葉という動かない情報を信じ込み、

その保育園を共に造って行こうとする気概もなく、

ただただ、いいから行け、と・・・・


そんなつもりはなかった、知らなかった、なんて言える親は

愛がなかったと思われて当然のことかと思った。

そういう親であった自分のこと。






一喜一憂 と 不安定の安定

2013-11-15 13:56:38 | ひとの幸福
『一喜一憂』という言葉がある。

広辞苑に聞くと・・・

(状況が変わるたびに喜んだり心配したりして落ち着かないこと)


以前はどんな状況でも振り回されないのがいい・・・

こんな一喜一憂というのは今ひとつだなぁ、あまりいい状態じゃないなぁ・・

と思っていた時期があった。


昨日はあれが出来て喜び、今日はそれが出来ないとしょげる・・

急な坂道や山を登っているときは苦しくて嫌になって、

下り坂になると楽で嬉しくなる・・・

子供がよい点を貰うと嬉しくなり、

悪い点をとると心配する・・・

ひとからよく言われると喜び、

悪く言われて喜ばない・・・

会いたい人と会えて一緒に過ごせて楽しく、

その人が去って寂しくなる。

けど、こういうことって当たり前なのかと思う。

逆上がりが出来なくて悲しくなり、

出来るようになって飛び上がるほど嬉しくなる・・これ、経験ある。

人間は相対的存在だから、そういう感覚があるのは当たり前だし、

それがなかったら、人間じゃないといってもいいくらいかと思う。


(状況が変わるたびに喜んだり心配したりして落ち着かないこと)と、

広辞苑にあるけど、それを利用すると、

(喜んだり心配したり)という箇所ではなく、

(・・して落ち着かないこと)がポイントなのかと思う。

一喜一憂しても落ち着かないとは言い切れないし。


喜んだり心配したりする自分(動いている自分)というものを、

一体の境地に居て、そこから動かない自分が観ている(自覚している)状態を、

青い本の彼は「不安定の安定」と云ったのかもしれないと思った。

心がそのことに振り回されることにはならない状態かと思う。

いや、広辞苑がどう云ってるのか、広辞苑の文章だけではわからないけども。


棄てられた・・・

2013-11-15 10:52:52 | 本を読んで
親から棄てられた“と思っている”子供とその親の話を読んだ。

子供はそれを親に抗議する、非難する、恨む。

・・・ということは、そのことで苦しんでいる。

だから、親に言わずにはおれない。

ところが親の方はそんなふうに思ってない。

棄てたなんて微塵も思ってない、という話だ。


私は、子供を産休明けから保育園に預けて仕事を続けていた。

そのことがどんなに寂しかったかと、

お母さんはそんなふうに私をしたと、

子供にたくさん抗議されたことがあった。

子供のことをまるで考えないで保育園に預けたわけでもなく、

可愛い我が子を狭い部屋で私一人で子育てするより、

多くの仲間や大人の中で育てたいという思いがあって、

私としては積極的に保育園でみてもらうことを選んだし、

保育園を選ぶときもたくさん歩き回って、

ここならと納得したところを選んだ、という自負もあったので、

そう言われることはとても心外で、

当時子供のその抗議を聞き容れられなかった。


こんな風に思って、そうすることを選択したのだと

一生懸命言ったこともある。

その抗議をただ、聞くという形をしただけで終わったこともある。

子供のその思いを受け切れなかったのだった。

下の子供も保育園育ちだけれど、そういうことは一回も言ったことがなかったので、

余計聴けなかったのだと思う。

子供を愛していること、愛していたことに自信があるからこそ、

子供のその抗議が不当だと、聴けずにいたのだった。


一番最初に書いた親子の話も、

(子供はそう思ったのかもしれないけど、事実は子供を棄てたわけではない。

ゆえに、子供が間違っている)

・・親のこういう思考が子供を苦しめたのかと思う。


子供は親を思うあまり、その思いを聴いてもらいたい、となるし、

それを聴いてもらえない、わかってもらえないで子は苦しみ、

子供を思うあまり、子供の声を聴けない親も苦しむ。


相手を聴くときは自分の論理、都合を

ちょっと棚に上げないと聴けないってこの前、書いたけど、


子供を誰よりも愛している、その愛、自信すら、放さねば、

子供の思いを聴けないのかと思った。

情報 と 心持ち

2013-11-13 10:03:33 | ひとの幸福
格差社会と言われる。世界的にそうみたいだ。

金持ちと貧富の差もそうだけど、

いろんな面で差が広がっているのかと思う。

小学生の学力や社会性、協調性なんかがあまりにも

差があり過ぎて授業の成立が難しい、

というような先生の感想がこの前、新聞に出ていた。

2、3才の子供と大人が一緒のクラスみたいなもんなんだろう。

40年近く教師を続けて、その時々の子供たちを観て来たからこそ

言えることなのかと思った。


昭和30年代の頃までに比べると、

世の中に発信される情報量はどのくらい増えているのかと思う。

もの凄いもんなんじゃないかな。

その頃までは、多くは自分で生活することによって得た知恵を

拠りどころにして暮らしていたものが、

自分以外から来る情報がどんどん目や耳に入るようになって、

それに振り回されるということが多いと思う。

その頃の人は今の人より意識がシンプルで居たんじゃないかと

推測するんだけど、そう在れたのも情報量が圧倒的に少なかったからで、

その人の器量ということだけでもなかったのかと思う。


無い情報には振り回されないけど、在る情報に振り回されることはある。

その情報をどう受け取るか・・・それは人それぞれ。

石油ショックの時、トイレットペーパーが無くなるという情報が飛び、

多くの人がトイレットペーパーを買い占めたという。

そういう情報を聞いても、トイレットペーパーを買い占めない人もいたと思う。

トイレットペーパーだけがなくなるなんて在り得ないと

買いに走らなかった人も居るだろう。

或る情報をどう受け取るか、どう捉えるか、で行為は違うものになる。

これはすべての情報に言えることだけど。

ひとの言動をどう受け取るか、ということと同じだし。


そういう意味で情報量の多いこの時代で、

情報に振り回される人と振り回されない人との格差も相当なものかと思った。






喧嘩の原因

2013-11-12 15:23:22 | 本を読んで
喧嘩の原因は、“その一方に、又は双方に間違いがあり、”

それを“突っ張り合う”からで、腹を立てたり喧嘩する者は馬鹿です。・・・

・・これは青い本のナンタラ社会の実態の構成員についての文章のところにあるもの。

“ ”印はいま、私が付けたもんなんだけど。

この、“その一方に、又は双方に間違いがあり、”

とはどういうことかと考えると・・・


例えば、目の前に置いてあるバナナを、

一方がバナナだと言い、もう一方はりんごだと言って、

片方は事柄的には間違ってないけど、

両方とも突っ張っている・・・

そういう突っ張り合いと、


目の前のバナナを、一方がりんごだと言い、もう一方はミカンだと言って、

双方共に事柄的には間違っている場合の、

両方ともに突っ張り合っている・・・

そういう突っ張り合いの両方を云っているのかと思う。


バナナをりんごだ、なんていう言葉を聞くと、

ついつい、瞬時に、「いや、違うっ!!!」って突っ張りがちになるけどね。


この二つの例とも、どちらか一方が突っ張らなければ、

喧嘩に“なる”ことはない。

この文章はそういうことを云っているようだ。










立ったり座ったり、違うところに立ったり・・

2013-11-11 11:10:36 | ひとの幸福
心・意識が(すべては一体である)という絶対的事実に則している状態で居る時間が

四六時中の人の事を『完全メンバー』と彼は云ったのかなと思うんだけど、

いわゆる普通の人、凡人はそういう状態でない時間と、

そういう状態で居る時間とその両方を行ったり来たりしているのかと思う。

一体の境地で在るときは、気持ちの中にホンの小さな反や抗も出て来ない。

すごくわかりやすい。そしてそういう時は気持ちが波立たない。

人と接しているときが一番自覚しやすい。

自分で自分を否定したり、僻んだり、責めたりしてるときも、

一体の境地で居ないことだろうね。

ひとを真正面から見られないときなんかもそうだね。

どれも経験あるからよくわかるよ。

どんな行為も境地の在りようから始まる。

(そんなの違うよ)的境地で居れば、当然それなりの行為になる。

(そんなの違うよ)的境地で居ても、共感の振りは出来るけど、

無理は後で祟る。


自覚と反省

2013-11-10 14:55:11 | ひとの幸福
一人という事実は無い=事実は一体になっている、

・・なんて言葉にアレルギーがあるのは特にインテリの人に多いかと思うけど、

で、表現というのは難しいものではありますが・・・

生まれてから今まで世界中に自分以外誰も居ない、

他に何も無いところでは生きられない、

自分が着ている洋服も住まいも食べ物も知っている知識も情報も、

みな自分以外から与えられているし、

他の誰かやら、太陽やら大気やら植物や石油や他の人の知恵やらが合わさって生み出されたものだ。

そういうことなんで、全くもって当たり前の事実のことなんだ。

そしてそういう事実しか在り得ないんで。

自分がここでこうして生きているのも父や母が居たからだし、

自分の今の思考も他の誰か(本や新聞やテレビも含めて)と共に造られて来たものだし、

一人で存在しているという事実は無いのが絶対的事実で、

たまには一人で存在してることもある、

なんてことが無いのが絶対的事実と言えるわけだ。

そういう事実と、一人ぼっちで寂しいと思ってしまう、という事実もある。

そのような心の状態で在る、ということは在る。

それは相対的事実といってもいいのかな。

そういう相対的事実をそのまま受け容れられる心の状態というものが在る。

それは(絶対的事実)に、心の状態が則している、

ということなんじゃないかと、

ここのところ書いててその思いを深くしたよ。

寂しかった と聴いて、

そうか、なるほどそれはそうだねと聴ける心境、共に涙してしまう心境は

人は一人じゃないという立ち位置に立っているからこそ。

そこで、そんなことで泣いてるようじゃダメだとか、

女々しいとか、そういった反や抗が瞬時に出てきてしまう心の状態は、

あなたはあなた、わたしはわたし・・というような境地かと思う。

この表現だけを聞くと、

あなたはりんごが好きで、私はりんごがすきじゃない、

そんなこと当たり前でちっとも悪いことじゃないぞ~

って言われるかもしれないけど、そういうのは勿論当たり前で、

そのことをどうこう言ってるわけじゃないんよ。

自分の経験では、ひとの寂しいとか、悔しいとか、

頭にきたとかの気持ちを、

(これはりんごが好きだとか嫌いだとかを言ってるのと同じことだね~ )

聞いた瞬間はなるほどと聴けても、

一瞬後に、考えが出てくることがある。

場合によっては最初から聴く耳をもてなかったこともある。

そのことは如何なものか・・とか。

自分の正しさがのさばりだす。

(りんごが好きなのが正しいなんてことないのにね~)

理屈が出てくるとうまいこと行かないことが多い。

(理屈というのは理性的考えをこれが正しいという錦の御旗みたいに

振り回すことをいうのかもしれない。)

理性は考えるときには必要不可欠なものだけど、

人の気持ちを聴く時(事柄を聞くのではなく)は、邪魔になる。

棚にあげられないのは、その正しさに執着してるからだろう。

今までそんな失敗を何度も何度も経験して来た。

その経験に自覚の無い頃も含めて、何万回もしてるだろう。

やっとそういうことをしている自分に自覚が生まれたから、

やっと反省できるようになったよ。

かといって、これからは無いということはないと思う。

無意識的にしてしまうと思う。

なってしまうことは、くよくよしない。

だって私一人でなったわけじゃないからね。

ただそうなった後にそれをみつけられれば、反省はできる。


・・・なんだか、お喋りしました、という感じだな、これは。






立ったり、座ったり。

2013-11-09 14:42:19 | ひとの幸福
立ち位置という言葉をこのブログで使ったことがなかったけど、

この前「スタンス」というのを聞いて、

それは日本語でどういうことか聞いたら、「立ち位置」だと教えてくれた。

心の状態とか心の在りようとか意識の在りようとか境地とか、

私はそんなふうに云ってた。

言葉は解釈がいろいろで難しいものがあるけど、

立ち位置というのもいい表現だと思った。

例えば、(すべては一体である)という人間観・世界観・宇宙観に立っているか・・・

そういう使い方をする、その、立っているところを立ち位置というのかと思う。

人の思考、言動の基盤というか、潜在意識で組み立てられたプログラムともいえる。

(すべては一体である)という人間観、世界観に四六時中立っていたら、

(青い本の作者はそれを完全メンバーと表現しているのかと思う)

釈迦かキリストか空海か・・・・・

そういうことになるのかと思う。

私たち凡人は誰でも時と場合によって、その位置に立ったり座ったり、

他の位置に立ったりしているのかと思う。


行為

2013-11-09 14:23:09 | ひとの幸福
そのままでいい・在りのまま・あ、そう・評価無し・否定無し

反や抗が無い・聴けること・他と一つ・・・・こういった表現が云っていることは

全部一緒のことだったんだね~

いまさら何を云ってるんだと言われるかもしれないけど、

やっとこんなふうに文章に出来た。

自他の言動に接した時の心の状態がこうだったら、

争いや喧嘩や戦争も無く、みなが仲良くやっていける。

こういう心の状態の時の行為というものがある。

その心の状態で居なければ自然に出来ない行為がある。





立ち位置 と 感情 ③

2013-11-08 14:47:30 | ひとの幸福
このタイトルの①と②を書いた後、また違う展開の考えがやって来たみたいで、

今、じっくり書きながら考えることにする。

大事な人が亡くなって悲しい、寂しい・・

それはその大事な人が居ることより悲しいこと。それは確か。

大事な人を失って悲しむという現象になるのは、

その人を大事に思っていた、愛していた、慈しんでいた、

というような心の状態から発するものといえる。

この感覚って、自分の半分がなくなってしまったような感覚なんじゃないかと思った。

これも(一人という事実は無い=自他一体)という境地、立ち位置から

湧き起こって来るものなんじゃないか・・・

誰かが亡くなって小躍りするように喜ぶという現象もこの世にはある。

それまでの人生でその人から多大な迷惑を蒙ったり、

散々苛め抜かれたりしたら、そうなることはある。

歩道に出っ張っている木の枝があって、そこを通るとき、

いつも邪魔に感じていたところ、その枝が払われて、

せいせいしたというようなことと一緒だ。


人間という人間すべて、全人類がその本来性に立ち戻ったときには、

それが五十年後か百年後か二百年後か、三百年後か、

もっと長くかかるのか、

それとももっと早い時期なのか、わからないけれど、

そうなった時には、

誰かが亡くなってせいせいした、というような感覚は

起こり得なくなっているのじゃないかと思う。

神ではない人間は何処まで行っても相対的存在だと思う。

大きさ小ささ高さ低さというように相対的に物事を見るということは変わらないけど、

それに価値判断が付かなくなるんじゃないかと思う。


“嫌な”こと、“嫌いな”人、などなくなることは在りうると思う。

人類はそこまでいけると思う。

平和が当たり前な地球になると思う。



義父の辛抱

2013-11-07 13:40:02 | 日々の暮らし・思い出
義父が「歯医者に行く用はないのか」と夫に。

夫はすぐに「あるよ」と。

夫には歯科の予約はないのだけど、そう答えた。

義父のその言い回しは歯科に行きたい、歯が痛む、ということなのだ。

自分だけのために人を動かすことはしたくない・・

多分こんなニュアンスなんだろうなぁと思う。

義父のこの言葉を聞いた瞬間、

あっ、3ヶ月に一度位の歯科に行ってもらうのを忘れてた、と気が付いたんだった。

痛みを我慢してしまう義父だから、

痛みが来る前に歯科に定期的に行こう、と決めてたのに、

それをすっかり忘れた私たちなんだ。

義父は夫と歯科に行き、自分の診察が終えたとき、

待合室に居た夫に「診察はもう済んだのか」と聞き、

夫は「もう終えたよ」と答えたそう。

夫はただ待っていただけなのだ。

以前、夫が正直に自分は一緒に来ただけで、

診察なんかしないよ、と言ったら、ひどく怒ったという。

さっき、歯科から帰ってきた義父は、

ずっと辛抱しとった(痛みを)・・と言った。

こうして過去のことはちょっと言う。

痛い、その時は言わない。

どのくらいの期間痛かったのかと聞くと、ずっとだと。

私たちが義父の歯科行きを忘れると、こういうことになる。

歯科の先生に手間をかけたら悪い、というようなことを言う。

その手間がその人たちの仕事で、

仕事はある方がいいと思うんだけど、彼のその考えは強い。

それで辛抱する。とことん辛抱する。

そしてどうしても我慢の限界が来ると、

歯科に行く用はないか、と言う。


ちょっとでも痛くなったらすぐに言ってくださいね、と

今まで言ってきたけど、

私のその発言は何の効果もないことがよくわかった。

今日は「お父さん、又痛くなっても辛抱するんでしょ(笑)」と言ったら、

「んはっ」というような返事で笑っていた。

今までの、すぐに言ってくださいね、の発言のときは笑わなかった。

私がこういう言葉かけをしたのは初めてだ。


今まで、辛抱しまくりの義父の姿を100%受け容れてなかったなぁと気が付いた。

義父のそういう様子は頭では十分わかっているつもりだったけど、

何故、それまで我慢するんだろ・・我慢してもいいこと何も無いのに・・

という自分の気持ちがどうしても出てきてしまっていた。

97才というような年代は「辛抱は美徳」であり、

そうしなかったら怒られたり脅されたりして来たのかなと思う。

そんなふうでそうなって来たんだと、100%心底合点したような気がする。

そのせいでだろう、笑いながら辛抱するんでしょって言えたのは。


今まで、極端な表現でいえば、

痛いときは我慢せずに歯科に行けば、すぐに調整してもらえるのに、

それをしないで我慢ばかりするなんて、“よくない”・・・

そういう判断を持ちながら義父と接していたと思う。

だから、言ってくださいね の発言になる。

そうしない義父をやれやれ・・なんて感じで観ていたと思う。

周りがそういう見方をしている限り、

義父はそのままで在り続けるのかと思った。

私の行為が一回だけ前と変わったからといって、

すぐに義父の様子が変わるとは思えないけど、

辛抱してしまう義父を、そのままでいい と、やっと思えたから、

私も笑って、彼も笑ったのかと思った。



立ち位置 と 感情 ②

2013-11-07 10:04:08 | ひとの幸福
愛する人が亡くなったら、悲しくて、寂しくて、

このことだけは、人生は快適で当たり前・人生は快適一色だなんて思えない・・・

さっきのブログを読んだ友達から電話があった。

その通りだと思った。

寂しい悲しいということは快適でないのか???

もし、あいつが死んでしめしめ・・とか、

死んでせいせいした・・とか、

そういう思いの方が

美しくじゃないんじゃないか、と思った。

愛する人が死んで悲しみの底に落とされるのは、

死なないで居たときが幸福だったからだ。

ひとは相対的世界に生きている。


形有るものは変化する。

可愛がっていた猫が死んでしまったり、

大事なものが壊れたり、大事にしていたものを盗まれたり、

ひとから軽蔑されたり、傷つけられたりしたら、

悲しい寂しいと思うことも一緒だと思う。

その悲しみの深さはいろいろだと思うけれど。

けれど、それらは(一人という事実は無い=事実は一体)という絶対的事実から

外れているということなのか???

さっき書いたことと反対のことが出て来たぞ。

愛する人が亡くなる・大事なものを盗まれる・軽蔑される・・

そういうことは相対的なことで、

相対的なことは必ず(在り)と(無し)がある。

ひとは生まれたら死ぬものだ。

大事なものも形あるものは壊れる、変化する。


絶対的事実は(在り無し)が無い。

絶対的事実は(在る)だけ。(無い)は無い。

一人という事実は無い、ということはそういうことだ。

ひとは時間的にも空間的にも繋がっている。

繋がってない、ということが無い。

ひとだけじゃない。すべての現象も一緒。


ひとが死ぬということは形が変化するということで、

無くなることはない・・物質的にそれは変化するだけ・・

土に返る、という表現もこの世にある。

全てのものは変化しながら循環している。

事実はそうなっている。

地球が生まれたその時から、そこに在ったものが

相互作用やらなんやらで変化したものが今ここに在る。


そういう意味でひとは無くならない、いや、無くなれない、

極端な表現でいえば、「死なない」のかもしれない。

すべてのものは在り続ける。

死んだ人はその人の心の中で生きている、という言葉がある。

まるで生きているかのように話しかけたりすることもある。

何故か、ひとはそうする。

形ではないその人は死んでないからかもしれない・・・

そういう究極的意味で、人が死ぬことで悲しむのは

絶対的事実から外れているのかもしれない。


けれどけれどけれどけれど、人間は相対的存在でしか在り得ない。

高さ低さがわからない人は居ない。

大きさ小ささがわからない人は居ない。

美しさ汚さがわからない人は居ない。


人生は快適一色、幸福で当たり前・・という山岸さんの言葉の、

幸福、快適とはどういうことか・・・

悲しむのは不幸か???不愉快なものか???

悲しみ・寂しさという心・感情自体、不幸なものか???

人は相対的存在ということからすると、

「死んで生命保険ばっちりだぜぃ あんな奴死んで当たり前だよ、」

・・というような心より、

悲しみ、寂しさの心は美しいのではないかと思う。

『人の心は美しいのが本当』こういう表現も在る。




「一緒にやって行きたい」!?

2013-11-06 09:55:12 | ひとの幸福
「夫とこれからも一緒にやって行きたいって思ってる」と、

多分私は言ったんだろう。

それを言ったすぐに、「なんだかそんなふうに思ってないことに気が付いた」

と、言ったような気がする。

そしてその後すぐに、

「と、言うより、ずっと一緒にいるんだろうなぁ、って感じ」と。

「一緒に居て邪魔にならないから」・・コレを又すぐに言った。

この発言を聞いた人はどう受け取っただろう・・と後になって思った。

誤解されたんじゃないか・・が浮かんだ。


夫とこれからも一緒にやって行きたくない、なんてのは全然ない。

けど、「一緒にやって行きたいと思ってる」という言葉を言ってみて、

なんだか不自然に感じたんだった。

一緒に居て邪魔にならない、というのは一番の賛辞というか、

私にとっては何よりも一番ありがたいことだと思ってる。

私もそう思われるといいな、というのはある。

いわば、夫も自分みたいな感じ。

これって、似ているというんじゃない。全然似てない。

違うところはいっぱいある。当たり前だ。


その言葉を不自然に感じたのは、

「私は、私と一緒にやっていきたい」なんて思うこと自体が無いのと

一緒なのかな・・・と思った。

「私は、私を邪魔に思わない」なんて思うこと自体がないこととも一緒なのかと思った。

夫もその席に居て、それを聞いてどんな感じがしたのか、後で聞いたら、

酒を飲んでたせいか知らないと言ってたよ。

道具視女

2013-11-04 11:47:05 | 本を読んで
「四 要約」の最後の方・・

例えば、・・・嫁を家のはしため(道具視女)から、・・・開放し・・・

・・・真に自由な人生に開放する活動を続けます・・・・」

ちなみに広辞苑によると『はしため』とは召使の女。女中。水仕女(みずしめ)

・・これ、1954年の11月25日に書かれたもののよう。

まだ未完となっている。

この文の主語は私となっている。青い本の著者だ。

嫁を家の道具視女(はしため)・・・昭和29年の頃は今と違って、

嫁というものをそういうふうに視ている人が多かったんだろうなぁ。

それって、見方だろう。

見方から開放し・・とはどういうことかといったら、

その人本人も周りも、嫁をそのような見方で視なくなることだろうと思う。

このことに限らず、いろんな観、見方は

今と昭和29年頃とはずいぶん変わってきている。

それがよい結果をもたらしている部分もあるし、

その頃の方が心地いい風が吹いていたこともあるだろう。

この世・社会という形あるものと形の無い境地・観・ものの見方は

どっちが先かなんていうと、

卵と鶏みたいなもんかと思う。

サイクル、巡る輪だ。

いろんな物事のほとんどの形が変われば境地がそうでない人も自動的に変わる。

けれど、目に見える物事が本当に幸福なものに変わる一番最初のキッカケは、

たった一人の見方・境地が変わることから始まる。

そんな一人が増えるようになることが求められている。

誰から???

青い本はホントにパズルみたい。

するっと読んじゃ、読み取れない。




「巻き添的犠牲者にしては不可です。」

2013-11-02 13:46:46 | 本を読んで
昨日、なんとなくいろんなことを家事をしながら考えていたみたいな、その時、

タイトルに書いた文章が浮かんだ。

青い本の 『四 要約』にあるもの。

「・・・理想社会を造ることを喜びとして活動する人で・・・・

・・生命をそれにもっとも効果的に打ち込んで、

代償は理想社会実現以外何物もない自覚に立つものです。

但し、これは個人の自由意志によるもので、

家族や周囲の人でも共鳴しない者迄も、

巻き添的犠牲者にしては不可です。・・・」

この中の最後(・・・不可です)という奇妙な表現。

何年も前にこれを読んだときは、(不可です)を自分勝手に、

「してはいけない」みたいに読み取っていたな、と

昨日、この表現を思い出しているときに気が付いた。

不可です・・とは、可能ではない ということ、不可能ということなのか・・

私が以前に解釈してた、(してはいけない)は、

そのこと自体が可能であるという前提があるけど、

不可です は そういうことは出来ない、と言い切っている・・のではないか。

事実として在り得ない、ということなんじゃないか・・

巻き添え的犠牲者になることは在り得ない、と云っているんじゃないか。

この文章全体、彼の伝えたいことを察すると、

「家族や周囲の人でも共鳴しない者までも、

理想社会実現を共にする人になってしまう」・・ということを云っているんじゃないか。

青い本全体から観てもそんなふうにしか解釈できない。