1998年8月1日発行のART&CRAFT FORUM 11号に掲載した記事を改めて下記します。
家に帰るのに 新宿発の最終便高速バスに乗る。満席の車内。 しとしと そぼ降る雨の夜、バスは発車した。車内には ひとしきりおしゃべりの花が咲いていた。黙っている人も、口元に、ほほえみを残している。赤や青のネオンサインや、高層ビルの明るい窓が遠ざかるにつれ、潮がひくように 車内は静かになっていった。透明な糸が絡みあうかのように、そこかしこ、眠る乗客の口から漏れる 深い呼吸音のリズムが 車内を充たしてゆく。
私は眠らない。出掛けた展覧会は、退屈だった。なにも 揺さぶられない自分が気にかかっていた。揺さぶられない自分の湿気度を計っているうち、さっきから、ジージーと、遠くで小虫が羽をふるわせているような、古い蛍光灯の出す音のような、奇妙な呻る音が耳の奥で鳴りはじめていた。いくら頭を揺すっても消えない。
くもった硝子窓を,指先できゅっきゅっと、ふいた。小さく透けた隙間から、雨の夜をのぞいた。自分とよく似た顔が向うから返ってきた。歩いて帰ろう、ふと、そう思った。歩いて帰ろうの気分は、突然やってくる。その殆どが夜であり、何かが待っている予感が手招きしていた。
その停留所で降りたのは私だけだった。パタンとバスは扉を閉め、ぷいと発車していった。バスの灯りで、濡れている硬い道路は、一瞬透明にひかり、しぼんだ。
傘を広げ、階段を降りて暗い草の道を歩き出す。停留所から歩いて帰るには、くねくねと延びるのぼり坂を、ぶらぶらと小一時間も歩けば我家につくが、こんな雨の夜に歩くのは、はじめてだった。影すらもつくらない真暗なでこぼこの雨の夜道を歩くのに、懐中電灯も持たない不安がよぎったが、あの坂道は河川工事と、道幅を広げ、舗装する長い期間の工事は、でこぼこ道を、すっかり平らな道に仕上げているはずの読みが浮んだ。案の定、道は仕上っていた。
車が走り去る時、舗装されていることを証明するように、雨に濡れた道が透明にひかったのだ。坂道をのぼりはじめた。それにしても暗い。点在する家のほのかな灯りは、遠くで、よそよそしくしているばかりで、足もとの暗さには届かないが、舗装された道を歩いていくには、つまずくこともなかった。目がなれてくると真っ暗闇の足もとにも濃淡があって端の方に、黒い帯を走らせたような歩道がみえてきた。ほっとして、その歩道に足をかけた瞬間、吸いこまれるように、ふわりと落ちた。何が起こったのか、そこが側溝であったことに気づく迄、間があった。1m余の深い泥の側溝から、はい上がりながら、闇の魔法にやられたと思うと可笑しくてならなかった。そこから先も、足もとは一層くらく、地面に目を凝らしても、少しの薄灯りもなく、いよいよ奥深い闇のなかに入っていく感じだなあと思いつつ、どうしても引き返す気になれなかった。舗装の道は突然、途切れた。工事は、終っていなかったのだ。
この先の道は、荒野と河に挟まれていく。月明かりの夜や、星明りをたよりに幾度も歩いたこの道もいつもとちがう気配がある。それにしても、なんと弾力のある闇だろうか。弾力がある闇……。そういえば、つい最近の事、闇の呼吸を聞いた。
電気を消して眠る体勢に入った時だった。どこからともなく、寝息のような、吐息のような深い呼吸の音が聞こえてきた。スーフィー、スーフィー。家人は留守のひとりの深夜であり、人間の呼吸でないことは確かなのだ。暗い部屋で私の耳は、ピンと緊張していた。確かめなくては、眼を閉じる事もできず、灯りをつけ、まず、犬小屋の方向に耳をたてた。ちがう。コトリともしない。猫?ちがう。天井?カサカサとかカラカラとか、高い天井裏からは妙な音が度々する。長々と横たわる大きな黒いものが頭の中に描かれた。壁のなか?ちがう。スーフィー、スーフィーの呼吸の音は、やけに、たっぷりとしている。カーテン越しの硝子窓に耳をたてる。いくらか呼吸の音が近い様な気もする。誰かが潜んでいるのだろうか。それなら何故、犬は吠えないのか?これもちがう。家?この家?そうか、家の寝息が聞えてきても不思議はない。スーフィー、スーフィー。闇の呼吸?ふと、そう思った。闇は薄い膜の層を刻々と、幾重にもたたみ重なり、隅々くまなく包み込んでいる。この家も、内にも。皮膚に沿っても。スーフィー、スーフィー。闇の呼吸のリズムは、いつしか自分の呼吸のリズムと重なっていた。深くたっぷりとした呼吸。闇は明るい。そんなふうに思えたことがあった。
さて、地面の掘り返しの凸凹は荒々しくなってきて、おぼつかない不安定な足取りは、こっち、こっちと、引っぱられるように坂を上がっている。不安も恐怖もない静かな気持が不思議だった。そのうち、ジージー呻る音が内からなのか外からなのか、私のなにもかもがこの闇のなかに溶けてしまって、ただジージーと呻る音だけになってしまったような感覚があった。そうしているうちに、巨大なものにふさがれているような硬い気配があった。それがショベルカーと解ったのは、ほのかな明るさがその影をふちどっていたのだ。その先に、柔らかな赤い光が、ふっくらと立ち昇っているのが見えて、はっと息をのんだ。赤い光は深い穴のなかから発生していた。ぽっかりと開けた穴の淵を、光は薄赤く染めながら闇と溶けあい滲んでいた。闇のなかに突然出現したかのような地底からの赤い光。まるで出産のその時に立ち会ったような強烈な揺さぶりは、湿気た身体の芯に、ぽっと熱いものが点火した。
家に帰るのに 新宿発の最終便高速バスに乗る。満席の車内。 しとしと そぼ降る雨の夜、バスは発車した。車内には ひとしきりおしゃべりの花が咲いていた。黙っている人も、口元に、ほほえみを残している。赤や青のネオンサインや、高層ビルの明るい窓が遠ざかるにつれ、潮がひくように 車内は静かになっていった。透明な糸が絡みあうかのように、そこかしこ、眠る乗客の口から漏れる 深い呼吸音のリズムが 車内を充たしてゆく。
私は眠らない。出掛けた展覧会は、退屈だった。なにも 揺さぶられない自分が気にかかっていた。揺さぶられない自分の湿気度を計っているうち、さっきから、ジージーと、遠くで小虫が羽をふるわせているような、古い蛍光灯の出す音のような、奇妙な呻る音が耳の奥で鳴りはじめていた。いくら頭を揺すっても消えない。
くもった硝子窓を,指先できゅっきゅっと、ふいた。小さく透けた隙間から、雨の夜をのぞいた。自分とよく似た顔が向うから返ってきた。歩いて帰ろう、ふと、そう思った。歩いて帰ろうの気分は、突然やってくる。その殆どが夜であり、何かが待っている予感が手招きしていた。
その停留所で降りたのは私だけだった。パタンとバスは扉を閉め、ぷいと発車していった。バスの灯りで、濡れている硬い道路は、一瞬透明にひかり、しぼんだ。
傘を広げ、階段を降りて暗い草の道を歩き出す。停留所から歩いて帰るには、くねくねと延びるのぼり坂を、ぶらぶらと小一時間も歩けば我家につくが、こんな雨の夜に歩くのは、はじめてだった。影すらもつくらない真暗なでこぼこの雨の夜道を歩くのに、懐中電灯も持たない不安がよぎったが、あの坂道は河川工事と、道幅を広げ、舗装する長い期間の工事は、でこぼこ道を、すっかり平らな道に仕上げているはずの読みが浮んだ。案の定、道は仕上っていた。
車が走り去る時、舗装されていることを証明するように、雨に濡れた道が透明にひかったのだ。坂道をのぼりはじめた。それにしても暗い。点在する家のほのかな灯りは、遠くで、よそよそしくしているばかりで、足もとの暗さには届かないが、舗装された道を歩いていくには、つまずくこともなかった。目がなれてくると真っ暗闇の足もとにも濃淡があって端の方に、黒い帯を走らせたような歩道がみえてきた。ほっとして、その歩道に足をかけた瞬間、吸いこまれるように、ふわりと落ちた。何が起こったのか、そこが側溝であったことに気づく迄、間があった。1m余の深い泥の側溝から、はい上がりながら、闇の魔法にやられたと思うと可笑しくてならなかった。そこから先も、足もとは一層くらく、地面に目を凝らしても、少しの薄灯りもなく、いよいよ奥深い闇のなかに入っていく感じだなあと思いつつ、どうしても引き返す気になれなかった。舗装の道は突然、途切れた。工事は、終っていなかったのだ。
この先の道は、荒野と河に挟まれていく。月明かりの夜や、星明りをたよりに幾度も歩いたこの道もいつもとちがう気配がある。それにしても、なんと弾力のある闇だろうか。弾力がある闇……。そういえば、つい最近の事、闇の呼吸を聞いた。
電気を消して眠る体勢に入った時だった。どこからともなく、寝息のような、吐息のような深い呼吸の音が聞こえてきた。スーフィー、スーフィー。家人は留守のひとりの深夜であり、人間の呼吸でないことは確かなのだ。暗い部屋で私の耳は、ピンと緊張していた。確かめなくては、眼を閉じる事もできず、灯りをつけ、まず、犬小屋の方向に耳をたてた。ちがう。コトリともしない。猫?ちがう。天井?カサカサとかカラカラとか、高い天井裏からは妙な音が度々する。長々と横たわる大きな黒いものが頭の中に描かれた。壁のなか?ちがう。スーフィー、スーフィーの呼吸の音は、やけに、たっぷりとしている。カーテン越しの硝子窓に耳をたてる。いくらか呼吸の音が近い様な気もする。誰かが潜んでいるのだろうか。それなら何故、犬は吠えないのか?これもちがう。家?この家?そうか、家の寝息が聞えてきても不思議はない。スーフィー、スーフィー。闇の呼吸?ふと、そう思った。闇は薄い膜の層を刻々と、幾重にもたたみ重なり、隅々くまなく包み込んでいる。この家も、内にも。皮膚に沿っても。スーフィー、スーフィー。闇の呼吸のリズムは、いつしか自分の呼吸のリズムと重なっていた。深くたっぷりとした呼吸。闇は明るい。そんなふうに思えたことがあった。
さて、地面の掘り返しの凸凹は荒々しくなってきて、おぼつかない不安定な足取りは、こっち、こっちと、引っぱられるように坂を上がっている。不安も恐怖もない静かな気持が不思議だった。そのうち、ジージー呻る音が内からなのか外からなのか、私のなにもかもがこの闇のなかに溶けてしまって、ただジージーと呻る音だけになってしまったような感覚があった。そうしているうちに、巨大なものにふさがれているような硬い気配があった。それがショベルカーと解ったのは、ほのかな明るさがその影をふちどっていたのだ。その先に、柔らかな赤い光が、ふっくらと立ち昇っているのが見えて、はっと息をのんだ。赤い光は深い穴のなかから発生していた。ぽっかりと開けた穴の淵を、光は薄赤く染めながら闇と溶けあい滲んでいた。闇のなかに突然出現したかのような地底からの赤い光。まるで出産のその時に立ち会ったような強烈な揺さぶりは、湿気た身体の芯に、ぽっと熱いものが点火した。