1997年7月25日発行のART&CRAFT FORUM 8号に掲載した記事を改めて下記します。
世をあげて高速道路上を疾走しているような高度経済成長やバブル景気が終ってみると、経済破綻が待ち受け、今では官民あげて戦争に負けた後のような瓦礫の片づけ作業同様の混乱状態となってしまった。そのさ中も、ずっとそれぞれの個性、経済力、体力に見合う生き方で手仕事を続けて来た「時代おくれの人々」-私もその一人であるが-は今もマイペースでコツコツと工夫を重ねている。先人達の勝れた技術を次の世代に伝える為と、何と言ってもものを作り出す楽しさに引かれるからである。私の20年の染めと、まだ数年の織りをする生活は無意識に呼吸をしているのと同じ程に、肉体の中に浸み込んでしまった。わざわざ手間ひまのかかる天然染料で染め、さらに材料の入手さえ困難な原始布を織りたいと思うのは理屈ではない。ただもうそれを作らずには居られないからである。つまり病気である、この慢性疾患について三宅氏から紙面を頂けるのは千載一遇のチャンスかも知れない。思いの丈を書いてみようと思う。いささか退屈かも知れないが何故天然染科で染めることになったのかという経緯を少し書いて、現在の状態と、こうありたいという欲張った希望まで書かせて頂けたら幸いと思っている。
私は特に美術系の学校を出たわけではない。「染め色」と正面から向き合うようになったのは30代の終り頃、主人の転勤で一家あげて岡山に住むことになった時からである。これを潮に今まで関わってきた様々な問題、例えば染めものをしたいという気持はかなり長い間私の意識の底にあって、今まで何度か拙文に書いた「美しい衣装で踊る優雅な西馬音内(にしもない)の盆踊りを見た時」つまり小学校5年生の夏に溯る。特に藍の絞り染の浴衣は今でも目に焼き付いて離れない。何時か自分で染めた藍染の衣装で踊りたい。これがそもそもの始まりであった。そんな経緯があって30年暖めて来た「染めもの願望」は岡山移住を期に、何とか始められる運びとなった。そこで染色の先生に師事し勉強を始めたが、根っからの不器用と荒けずりの感性に加えて染料の使い方が下手で、家族からは「古着の色よりずっとひどい色」とさんざんの不評を受けた。街に溢れている色はどんな染料を使っているのだろうか。目まぐるしく変る流行色やデザインや素材を器用に取り入れるには、60年安保の横を通り過ぎて来た、いく分アンチテーゼ気分の残っている子育て専業主婦には、いささか難儀なことだった。
天然染料で染めた完成品と初めて出合ったのは岡山美術館(現在の林原美術館)の能装束だった。こんなに濁りのない鮮明な色が次から次へと顔をだし、激しく自己主張しながらお互いに調和を保っているのは何故なのだろうか。さらに大胆なデザインと全体から発散して来る眩惑するような美しさに、しばらくは声も出ず時の経つのも忘れて見とれていた。一般に「格調高い幽玄の美」と評される能装束だが、この時はただもう染め色の美しさに圧倒されていた。安土桃山や江戸時代の染め屋と織り手はどんな技術を持っていたのだろうか、大名家の庇護があって金に糸目をつけない充分の仕事をさせてもらえた職人達と、その作品を充分に管理保存できた大名家の財力とのシステムは、どこかルネサンス期のヨーロッパを思わせるものがある。それにしても300~400年を経て尚輝くばかりに美しい沢山の能装束がそこにはあった。
濃い色、淡い色、中間の色、激しい色、優しい色、様々な色とその組み合わせは思い付く限りの絵の具、クレヨン、色鉛筆を並べても、混ぜ合わせても出せない色であった。そしてどれも自己生張する凛とした色だった。
大原美術館の芹沢蛙介館で彼の型染と向き合った時も、息をのむ思いだった。高名な作家のデザインの中に息づく顔料と染料の使いわけの妙技に、このようにも染められるのだ!という感動が走った。
急き立てられるように染織品の展覧会を見て廻り図書館で美術本を借り出し、染め方の本を買い、手当たり次第に自分で染めてみた。勉強すればする程分からないことばかりが出て来る。特に藍染に関しては皆目見当も付かない有様だった。図案も色合も出来映えも眼中になく、ただ「じきに色落ちしない染め方」を模索する毎日が続いた。疑問を山程かかえて窒息しそうになった頃、神戸への転勤が決まった。
神戸へは子供達の新学期に合せての転居となったが、私は友人の伝手で引っ越し荷物を解かないうちに吉岡常雄先生の天然染料のクラスに入り込んでいた。先生には岡山の図書館の美術本を通じて充分に存じ上げており、実際に師事できた時の嬉しさは格別なものであった。これは幸運の一言に尽きる。私はもう40才を少し過ぎていたがこの時から生き方が変ったと思っている。
これも拙文で何度か書いたことであるが、吉岡先生からは天然染料の染め方のみならず、化学染料も含めて広い視野に立った染織全般にわたる考え方、扱い方、技術、実物の染織品、応用、歴史的な広がり、さらに工芸全般に関する材料に至るまで、とうてい持ちきれない程の教えを受けることができた。心に深く刻まれている先生の教えは「天然染料は決して万能なものではなく欠点も多い。日常の衣類を染めるには不向きの色もある。しかし目的と素材と染料と技術の息がぴったりと合った時には、長い間の使用に耐え、美しい作品として生命力を持つようになる。自分達の技術はまだ「延喜式」を越えられないのだから、工夫を重ねることです。そして世界に目を向けることも忘れないように」というようなことだった。
現在では染織関係の情報誌、技術の紹介記事、技の探訪番組等によって日本のみならず世界中の工芸品や製作現場の様子、さらに材料までが人手できるようになった。目まぐるしく変る流行や素材、扱う人の技術の相違点まで伝わるようになると、かえって情報に押しつぶされ、自分を見失いそうになることもある。しかしどんなに大量の情報や技術を仕入れたとしても、作品として姿を現す時は本人そのものの生きざまを映し出すことになる。作品は「私小説」と似たところがある。良くも悪くも生きざまや健康状態までが詰め込まれて仕上って来る。第三者の立場で見れば、「上手か下手か」ではなく「好きか嫌いか」つまり「惚れたかどうか」ということになる。いささか下世話な言い方だが、私はそう思っている。
藍を染める場合、おおよそこれで良しとするかと思われる醗酵建が出来るまで10年以上かかった。今年で20年目になるが一瓶づつ状態も色も違うし、天候による藍の作柄次第で色相も違って来る。つむぎ糸と生糸では明らかに発色が違うし、木綿も麻も毛もそれぞれ産地や糸の撚り加減で百面相のように変る。オチョクられているなと思うことさえある。私の力量が足りないからである。17年程前野洲で先代の紺九さんにお会いした時のこと、「昨年納屋の二階から足を踏みはずしてからどうもね」とおっしゃりながらご高齢にもかかわらず染め場に立たれていた時の爪は美しい浅黄色に染まっていた。「毎年少しづつ貧乏になって行くようです」と静かに話されていた。私は藍染めを止められないのである。紺九さんに惚れてその姿が忘れられないから。
紅も茜もラックも書き始めたらきりがない。グレイも黒も茶も黄色も使う染料はさまざまで染め方もいろいろ違う。染めるのに最適な季節まであって、染め手を追い立てる。それぞれの材料が個性を主張して生きもののように動き廻っている。見る人を眩惑するあの能装束の中に棲み付いている色を思うとき、もう一度もう一度と染めの深みにはまって行く。
4~5年前から和紙を染めて糸にする勉強を始めさらに2年前にシナ糸と出合った。これは素材の一つとして扱ければ作り手は充分に応えてくれないような気がする。古来からの行程による手仕事の紙漉きの現場を見ると、この紙を使って手軽にひともうけできる商品を作ろうなどという考えは絶対に浮かんで来ない。作り手と同じように地を這うようにして糸を作り染めて織るべきものだと思うようになる。やはり「時代おくれ」の生き方が最もふさわしくなる。
紙の糸もマニラ麻系の繊維をドロドロにつぶして、機械漉きしてカットし、撚りかけして糸にする方法で工業生産品として安価に出廻るようになった。染めにも耐えるし強度も耐久性もあって、アパレル関係で時折見かけるようになった。けっこうイケルという評判である。レーヨンや麻糸と撚り合せをしたお洒落なものもある。
一方手仕事の糸作りの能率はかたつむりより遅い。当然のことながら大量生産や流行をねらっての儲け仕事をしているわけではない。自分の不器用な生きざまを自嘲しながら。でもきっとこんなことが好きだからに違いない。この紙糸には手仕事でなければ表現できない工夫がある。今それを作っている。きっとうまく仕上ると思い込んでいる。
シナ糸も作り手が高齢化してだんだん入手がむずかしくなって来た。シナ糸は素朴で強烈な個性を持ち生命力に満ちあふれている。この糸と出合ったとき、40才で若死した鷹匠を思いマタギの姿が思い浮かんだ。惚れて買い込んだが実際に織ってみると、疲れはてる程手強い糸である。織り上ると端が歪んで波打っている「よし、もうひとはた織ってみよう、そして好きな文様を染めてみょう」
今年、小倉遊亀展で「磨針峠」を見た。使いなれた針を無くしたので、斧を研いで針を作ろうとしている老婆と峠で出逢う若い修行僧の図である。針は町へ行けば買えるのに。心に滲む絵であった。
世をあげて高速道路上を疾走しているような高度経済成長やバブル景気が終ってみると、経済破綻が待ち受け、今では官民あげて戦争に負けた後のような瓦礫の片づけ作業同様の混乱状態となってしまった。そのさ中も、ずっとそれぞれの個性、経済力、体力に見合う生き方で手仕事を続けて来た「時代おくれの人々」-私もその一人であるが-は今もマイペースでコツコツと工夫を重ねている。先人達の勝れた技術を次の世代に伝える為と、何と言ってもものを作り出す楽しさに引かれるからである。私の20年の染めと、まだ数年の織りをする生活は無意識に呼吸をしているのと同じ程に、肉体の中に浸み込んでしまった。わざわざ手間ひまのかかる天然染料で染め、さらに材料の入手さえ困難な原始布を織りたいと思うのは理屈ではない。ただもうそれを作らずには居られないからである。つまり病気である、この慢性疾患について三宅氏から紙面を頂けるのは千載一遇のチャンスかも知れない。思いの丈を書いてみようと思う。いささか退屈かも知れないが何故天然染科で染めることになったのかという経緯を少し書いて、現在の状態と、こうありたいという欲張った希望まで書かせて頂けたら幸いと思っている。
私は特に美術系の学校を出たわけではない。「染め色」と正面から向き合うようになったのは30代の終り頃、主人の転勤で一家あげて岡山に住むことになった時からである。これを潮に今まで関わってきた様々な問題、例えば染めものをしたいという気持はかなり長い間私の意識の底にあって、今まで何度か拙文に書いた「美しい衣装で踊る優雅な西馬音内(にしもない)の盆踊りを見た時」つまり小学校5年生の夏に溯る。特に藍の絞り染の浴衣は今でも目に焼き付いて離れない。何時か自分で染めた藍染の衣装で踊りたい。これがそもそもの始まりであった。そんな経緯があって30年暖めて来た「染めもの願望」は岡山移住を期に、何とか始められる運びとなった。そこで染色の先生に師事し勉強を始めたが、根っからの不器用と荒けずりの感性に加えて染料の使い方が下手で、家族からは「古着の色よりずっとひどい色」とさんざんの不評を受けた。街に溢れている色はどんな染料を使っているのだろうか。目まぐるしく変る流行色やデザインや素材を器用に取り入れるには、60年安保の横を通り過ぎて来た、いく分アンチテーゼ気分の残っている子育て専業主婦には、いささか難儀なことだった。
天然染料で染めた完成品と初めて出合ったのは岡山美術館(現在の林原美術館)の能装束だった。こんなに濁りのない鮮明な色が次から次へと顔をだし、激しく自己主張しながらお互いに調和を保っているのは何故なのだろうか。さらに大胆なデザインと全体から発散して来る眩惑するような美しさに、しばらくは声も出ず時の経つのも忘れて見とれていた。一般に「格調高い幽玄の美」と評される能装束だが、この時はただもう染め色の美しさに圧倒されていた。安土桃山や江戸時代の染め屋と織り手はどんな技術を持っていたのだろうか、大名家の庇護があって金に糸目をつけない充分の仕事をさせてもらえた職人達と、その作品を充分に管理保存できた大名家の財力とのシステムは、どこかルネサンス期のヨーロッパを思わせるものがある。それにしても300~400年を経て尚輝くばかりに美しい沢山の能装束がそこにはあった。
濃い色、淡い色、中間の色、激しい色、優しい色、様々な色とその組み合わせは思い付く限りの絵の具、クレヨン、色鉛筆を並べても、混ぜ合わせても出せない色であった。そしてどれも自己生張する凛とした色だった。
大原美術館の芹沢蛙介館で彼の型染と向き合った時も、息をのむ思いだった。高名な作家のデザインの中に息づく顔料と染料の使いわけの妙技に、このようにも染められるのだ!という感動が走った。
急き立てられるように染織品の展覧会を見て廻り図書館で美術本を借り出し、染め方の本を買い、手当たり次第に自分で染めてみた。勉強すればする程分からないことばかりが出て来る。特に藍染に関しては皆目見当も付かない有様だった。図案も色合も出来映えも眼中になく、ただ「じきに色落ちしない染め方」を模索する毎日が続いた。疑問を山程かかえて窒息しそうになった頃、神戸への転勤が決まった。
神戸へは子供達の新学期に合せての転居となったが、私は友人の伝手で引っ越し荷物を解かないうちに吉岡常雄先生の天然染料のクラスに入り込んでいた。先生には岡山の図書館の美術本を通じて充分に存じ上げており、実際に師事できた時の嬉しさは格別なものであった。これは幸運の一言に尽きる。私はもう40才を少し過ぎていたがこの時から生き方が変ったと思っている。
これも拙文で何度か書いたことであるが、吉岡先生からは天然染料の染め方のみならず、化学染料も含めて広い視野に立った染織全般にわたる考え方、扱い方、技術、実物の染織品、応用、歴史的な広がり、さらに工芸全般に関する材料に至るまで、とうてい持ちきれない程の教えを受けることができた。心に深く刻まれている先生の教えは「天然染料は決して万能なものではなく欠点も多い。日常の衣類を染めるには不向きの色もある。しかし目的と素材と染料と技術の息がぴったりと合った時には、長い間の使用に耐え、美しい作品として生命力を持つようになる。自分達の技術はまだ「延喜式」を越えられないのだから、工夫を重ねることです。そして世界に目を向けることも忘れないように」というようなことだった。
現在では染織関係の情報誌、技術の紹介記事、技の探訪番組等によって日本のみならず世界中の工芸品や製作現場の様子、さらに材料までが人手できるようになった。目まぐるしく変る流行や素材、扱う人の技術の相違点まで伝わるようになると、かえって情報に押しつぶされ、自分を見失いそうになることもある。しかしどんなに大量の情報や技術を仕入れたとしても、作品として姿を現す時は本人そのものの生きざまを映し出すことになる。作品は「私小説」と似たところがある。良くも悪くも生きざまや健康状態までが詰め込まれて仕上って来る。第三者の立場で見れば、「上手か下手か」ではなく「好きか嫌いか」つまり「惚れたかどうか」ということになる。いささか下世話な言い方だが、私はそう思っている。
藍を染める場合、おおよそこれで良しとするかと思われる醗酵建が出来るまで10年以上かかった。今年で20年目になるが一瓶づつ状態も色も違うし、天候による藍の作柄次第で色相も違って来る。つむぎ糸と生糸では明らかに発色が違うし、木綿も麻も毛もそれぞれ産地や糸の撚り加減で百面相のように変る。オチョクられているなと思うことさえある。私の力量が足りないからである。17年程前野洲で先代の紺九さんにお会いした時のこと、「昨年納屋の二階から足を踏みはずしてからどうもね」とおっしゃりながらご高齢にもかかわらず染め場に立たれていた時の爪は美しい浅黄色に染まっていた。「毎年少しづつ貧乏になって行くようです」と静かに話されていた。私は藍染めを止められないのである。紺九さんに惚れてその姿が忘れられないから。
紅も茜もラックも書き始めたらきりがない。グレイも黒も茶も黄色も使う染料はさまざまで染め方もいろいろ違う。染めるのに最適な季節まであって、染め手を追い立てる。それぞれの材料が個性を主張して生きもののように動き廻っている。見る人を眩惑するあの能装束の中に棲み付いている色を思うとき、もう一度もう一度と染めの深みにはまって行く。
4~5年前から和紙を染めて糸にする勉強を始めさらに2年前にシナ糸と出合った。これは素材の一つとして扱ければ作り手は充分に応えてくれないような気がする。古来からの行程による手仕事の紙漉きの現場を見ると、この紙を使って手軽にひともうけできる商品を作ろうなどという考えは絶対に浮かんで来ない。作り手と同じように地を這うようにして糸を作り染めて織るべきものだと思うようになる。やはり「時代おくれ」の生き方が最もふさわしくなる。
紙の糸もマニラ麻系の繊維をドロドロにつぶして、機械漉きしてカットし、撚りかけして糸にする方法で工業生産品として安価に出廻るようになった。染めにも耐えるし強度も耐久性もあって、アパレル関係で時折見かけるようになった。けっこうイケルという評判である。レーヨンや麻糸と撚り合せをしたお洒落なものもある。
一方手仕事の糸作りの能率はかたつむりより遅い。当然のことながら大量生産や流行をねらっての儲け仕事をしているわけではない。自分の不器用な生きざまを自嘲しながら。でもきっとこんなことが好きだからに違いない。この紙糸には手仕事でなければ表現できない工夫がある。今それを作っている。きっとうまく仕上ると思い込んでいる。
シナ糸も作り手が高齢化してだんだん入手がむずかしくなって来た。シナ糸は素朴で強烈な個性を持ち生命力に満ちあふれている。この糸と出合ったとき、40才で若死した鷹匠を思いマタギの姿が思い浮かんだ。惚れて買い込んだが実際に織ってみると、疲れはてる程手強い糸である。織り上ると端が歪んで波打っている「よし、もうひとはた織ってみよう、そして好きな文様を染めてみょう」
今年、小倉遊亀展で「磨針峠」を見た。使いなれた針を無くしたので、斧を研いで針を作ろうとしている老婆と峠で出逢う若い修行僧の図である。針は町へ行けば買えるのに。心に滲む絵であった。