1997年10月25日発行のART&CRAFT FORUM 9号に掲載した記事を改めて下記します。
祖父が亡くなった後、日がな続いていた打ち抜きの音が消えて、私の身体がその連続する音に反応していたために、時々、どこか遠いところからやって来るような、身体中を廻る奇妙なリズム感におそわれるのだった。それが祖父の足踏み機械の連続音が消えたためであったことを、私は三十年も経った今頃になって理解することができた。
鍛金の仕事をするようになった私が、一日中の金属音を、さして不快に感じなかったのも、おそらくそのためである。芸大の鍛金工房で教えられた金槌を降りおろすリズムを無視して、私の金鎚の音がいつの間にか単調な連続音になっていったのも、自分の身体が慣れ親しんでいたリズムの記憶の方に向かったもののようだ。当初、自分がこんな風に金属に触れ続けることになるとは、思いも寄らなかったことである。中学生の頃から慣れ親しんだ油絵具に、突然吐き気を覚えるようになって、絵画を捨てたのと同様に、現在もっぱら銅を素材として制作している私が、突然に金属アレルギーを起こさないとも限らないほど、私の体内には金属蓄積が起きているに違いない。夏の仕事では、汗でシャツが緑青色に染まるのを見ると、抗菌染色シャツなどと冗談を言ってはいられないのかも知れない。大学の工房では、当然、安全のための工夫があれこれとなされていて、そうした環境でできる仕事の方向に囲われざるを得ないだろうが、自らの方法を開拓して行く荒れ野では、ただ一人で夢中になっている内に、身の安全というものは後回しになる。自分の仕事の在り方が、まじないのような余分な技法を捨てて、次第にシンプルな方法を取ろうとするのは、私の根っからの性向だろう。しかし、そうでなければ仕事というものは、自分の身体そのものが拒絶反応を起こし始めるに違いない。私は、あれがなければ、これがなければというような仕事は好まない。道具はなるべく少ない方が良いというのが、私の好みである。けれども、金属を熔接するために、少なくとも熔融温度に上げるための工夫が必要だが、私がその必要を、現代の日本でかなう最も簡便な方法でできれば、それ以上の便宜を望もうとしないのは、どうした訳だろう? おそらく、別な最新式の方法を取れば、そこからまた別の仕事の方向が見え始めることになるのは明らかだが、今この方法に固執し続けるのは、この方向の限度いっぱいを知りつくしたいがためでもある。私はそこから突端口を見い出したいのだが、その先のことは、まだ見当もつかないことである。
かって、鉄をたたいて造形していた二十代の頃、身長170センチメートルで、ようやく体重50キログラムの虚弱な体質だった私にとって、日々の制作における労働は身体作りでもあった。重量上げの選手が次第にバーベルの重さを上げて行くように、私は鉄板の厚さ大きさを付加して行った。厚さ1ミリの鉄板を当て金の上でたたき絞って造形することは、さして困難ではなかったが、私の腕力では全力のエネルギーが必要だった。当時、私は林檎ばかりを作り続けていたのだが、次第に鉄が柔らかくなったように感じて、規格の厚さ1.6ミリの鉄板に替えた時も、まだ困難とも思えなかった。1.6ミリの鉄板が、私にとって丁度良い抵抗として感じ始めた時、もっと大きな林檎を作るために、その上の規格の厚さ2.3ミリにした。それは、さすがに自分の能力を超えた相手に向かっていると思えたが、一ケ月の間たたき続けていると、手におえない相手でもないと思えて来るのには、心底驚いた。さらに厚さ3.2ミリの規格の鉄板を扱うのは冒険だった。金鎚も重いものに替えて、3×6板の規格サイズから最大に取れる直径90センチメートルの円盤から制作を開始した。八週間かかってようやく半球状にまで造形した。二つ造った半球状部分を熔接して、球状に近付けようとした時、当て金からずり落ちる、かさばった作品をささえるのが困難になって来て、私は当て盤を使うことにした。すでに作品は左手で支える限度を超えていて、何度も作品と共に木床の上から転げ落ちたからである。「当て金」とは、「木床」という切り株に固定して、その上で金属をたたく鉄の道具である。「当て盤」とは板金工が曲面のならし作業に使うシンプルな工具なのであるが、当て金の替りに拳大の鉄塊を左手に持って、造形しようとする金属板の下から当てて金鎚の衝撃を受けるのである。けれども、当て盤を3.2ミリの鉄をたたくために使うには、すさまじい衝撃に耐えねばならない。私は軍手の上に皮手袋を二枚重ねて鉄塊を持った。八ケ月かけて、高さ80センチ程の林檎が出来上がったが、新しくこしらえた大きな金鎚は歪んでひびが入っていた。私の左腕は、次第に金鎚の衝撃に耐える強さを持ち出していたのである。しかし私は、この困難な仕事を再び続けることの無理を感じて、厚さ2.3ミリで直径90センチの鉄板に戻した。最初の一撃、2.3ミリの厚さの鉄は意外にも柔い素材になっていた。力八分で仕事ができることに気付いた時、左腕に余裕ができて、当て盤で鉄が絞れた。その後、左腕の訓練によって、自分の体重を超える大きな作品を作ることが可能になったのである。
こんな書き方をすると、私がよほど筋肉隆々の人物になったように錯覚するかも知れないが、私はきわめて普通の筋肉を得たに過ぎない。ただし、利き腕の右腕よりも、少し強い左腕を訓育したのである。同時に、音質を聞き分けて金鎚の当り具合を判断するこの方法は、私を難聴にした。あるひとつの素材に固執して作品を作り続けるということは、その素材を知悉して自在を得ると同時に、その素材に向き合った作者の肉体もまた作られ、あるいは破壊されるということでもある。素材と方法によって、じりじりと自らを鍛えようとせずに、安易に利用しようとする姿勢では、作家は素材と方法によって、その脆弱な肉体を逆襲されることになる。このことは「鍛金に及いて」と限定を付けるべきだろうか? ところで、過保護を必要とする鉄の耐候性にがっかりしていた私は、屋外で保存の可能な銅に向かわざるを得なかった。私の仕事場は大きな鉄の作品でいっぱいになってしまったのである。厚さ1ミリの銅板による大きな作品に向かったのも、同じ厚さの銅の小さな作品を、学生時代以来作っていたという手がかりがあったからである。けれども、銅による大きな作品に向かうためには、鉄と同じ構造で成り立つ訳には行かない。厚さ2.3ミリの鉄と1ミリの銅では、同じ曲面でも強度が異なるためである。厚さ1ミリの銅による作品が、自重に耐えて自立するためには、その内部構造から異なる成り立ちを必要としていた。このことが、その後の私の作品の方向を指示したのである。
長いこと鉄をたたき続けた後で銅をたたくと、それは殆どボール紙をたたいているかと思えるほどだった。そして、金鎚をとらえる銅の粘ついた感触は、沼地に足を取られるようで、金鎚を引き上げる力が必要だった。鉄は硬い分だけ金鎚をはね上げる力がある。つまり、振りおろす満身の力だけで充分なのである。その点、銅は二重に疲れるのだった。けれども、鍛金に及ける素材との力関係は、いつも均衡に向かうようだ。しばらくの間たたき続けると、決まって同じバランス感覚に落ちつくことになるのは何故だろう? 金属自体が変化するのでない限り、人間の身体が金属に合わせて動いていることは確かなことである。金鎚も当て盤も、私の感覚にとって時々刻々同じ重さである訳ではない。こんなあたりまえな感覚の変化が、作品の方位を決定しつつ進む。欧米の美意識からすれば、主体的意志を欠いた軟弱な美意識ということだろう。しかし、意志に及ける私とは何か? 徹底的に純粋な自意識の在り処を求めて、夾雑物を削ぎ落とした末に、何もなくなってしまう自意識の場処を思えば、私は、逆に存在の固別性を踏み倒して、物質と自意識とを同じ自我の囲いの中に入れてしまいたいのである。その時、自我の形態も自ら造り得るのではないかという、向こう見ずな跳躍をしたのである。
私は自問する。銅板が私のところにまでやって来る経済的な経緯をも、自我の囲いに入れることが引き受けられるのか? 物質の転変のさなかにある存在同志の結びつきに及いて、私は「社会性」を共に転変する環境として選ぶつもりはないが、私あるいは私達の形態を決定していることも確かなのである。銅・鉄が工業規格に当てはめられて私の手元に来る時、私はその最大寸法や厚さや純度が、私の制作に大きな影響を与えていることを自覚している。社会と関わる以上、私は自由である訳ではない。他者の決定した事象の間で、自我は自己拡大する他にすべはないのである。それを拒んで、ただ一人の荒れ野に向かっても、自我をめぐる世界の悪夢の中で、自我の同一性、あるいは充足を確認することになるはずである。社会的経路を通って来る、ある特定の素材と徹底的に直接することによって、肉体は造り変えられ、感覚の変動を経験し、その事で自我もまた何らかの変貌を強いられているのであれば、この複合した自我の形態は、社会の一断面と向き合っている形態でないはずはないのである。いずれこのことの明瞭な隆起が、社会全体の大変動を通して決定的に来る時、それがいかなる形で隆起することになるのか? 私はいまだ答えるすべを持たないが、その時、手の思想は試されるのである。
祖父が亡くなった後、日がな続いていた打ち抜きの音が消えて、私の身体がその連続する音に反応していたために、時々、どこか遠いところからやって来るような、身体中を廻る奇妙なリズム感におそわれるのだった。それが祖父の足踏み機械の連続音が消えたためであったことを、私は三十年も経った今頃になって理解することができた。
鍛金の仕事をするようになった私が、一日中の金属音を、さして不快に感じなかったのも、おそらくそのためである。芸大の鍛金工房で教えられた金槌を降りおろすリズムを無視して、私の金鎚の音がいつの間にか単調な連続音になっていったのも、自分の身体が慣れ親しんでいたリズムの記憶の方に向かったもののようだ。当初、自分がこんな風に金属に触れ続けることになるとは、思いも寄らなかったことである。中学生の頃から慣れ親しんだ油絵具に、突然吐き気を覚えるようになって、絵画を捨てたのと同様に、現在もっぱら銅を素材として制作している私が、突然に金属アレルギーを起こさないとも限らないほど、私の体内には金属蓄積が起きているに違いない。夏の仕事では、汗でシャツが緑青色に染まるのを見ると、抗菌染色シャツなどと冗談を言ってはいられないのかも知れない。大学の工房では、当然、安全のための工夫があれこれとなされていて、そうした環境でできる仕事の方向に囲われざるを得ないだろうが、自らの方法を開拓して行く荒れ野では、ただ一人で夢中になっている内に、身の安全というものは後回しになる。自分の仕事の在り方が、まじないのような余分な技法を捨てて、次第にシンプルな方法を取ろうとするのは、私の根っからの性向だろう。しかし、そうでなければ仕事というものは、自分の身体そのものが拒絶反応を起こし始めるに違いない。私は、あれがなければ、これがなければというような仕事は好まない。道具はなるべく少ない方が良いというのが、私の好みである。けれども、金属を熔接するために、少なくとも熔融温度に上げるための工夫が必要だが、私がその必要を、現代の日本でかなう最も簡便な方法でできれば、それ以上の便宜を望もうとしないのは、どうした訳だろう? おそらく、別な最新式の方法を取れば、そこからまた別の仕事の方向が見え始めることになるのは明らかだが、今この方法に固執し続けるのは、この方向の限度いっぱいを知りつくしたいがためでもある。私はそこから突端口を見い出したいのだが、その先のことは、まだ見当もつかないことである。
かって、鉄をたたいて造形していた二十代の頃、身長170センチメートルで、ようやく体重50キログラムの虚弱な体質だった私にとって、日々の制作における労働は身体作りでもあった。重量上げの選手が次第にバーベルの重さを上げて行くように、私は鉄板の厚さ大きさを付加して行った。厚さ1ミリの鉄板を当て金の上でたたき絞って造形することは、さして困難ではなかったが、私の腕力では全力のエネルギーが必要だった。当時、私は林檎ばかりを作り続けていたのだが、次第に鉄が柔らかくなったように感じて、規格の厚さ1.6ミリの鉄板に替えた時も、まだ困難とも思えなかった。1.6ミリの鉄板が、私にとって丁度良い抵抗として感じ始めた時、もっと大きな林檎を作るために、その上の規格の厚さ2.3ミリにした。それは、さすがに自分の能力を超えた相手に向かっていると思えたが、一ケ月の間たたき続けていると、手におえない相手でもないと思えて来るのには、心底驚いた。さらに厚さ3.2ミリの規格の鉄板を扱うのは冒険だった。金鎚も重いものに替えて、3×6板の規格サイズから最大に取れる直径90センチメートルの円盤から制作を開始した。八週間かかってようやく半球状にまで造形した。二つ造った半球状部分を熔接して、球状に近付けようとした時、当て金からずり落ちる、かさばった作品をささえるのが困難になって来て、私は当て盤を使うことにした。すでに作品は左手で支える限度を超えていて、何度も作品と共に木床の上から転げ落ちたからである。「当て金」とは、「木床」という切り株に固定して、その上で金属をたたく鉄の道具である。「当て盤」とは板金工が曲面のならし作業に使うシンプルな工具なのであるが、当て金の替りに拳大の鉄塊を左手に持って、造形しようとする金属板の下から当てて金鎚の衝撃を受けるのである。けれども、当て盤を3.2ミリの鉄をたたくために使うには、すさまじい衝撃に耐えねばならない。私は軍手の上に皮手袋を二枚重ねて鉄塊を持った。八ケ月かけて、高さ80センチ程の林檎が出来上がったが、新しくこしらえた大きな金鎚は歪んでひびが入っていた。私の左腕は、次第に金鎚の衝撃に耐える強さを持ち出していたのである。しかし私は、この困難な仕事を再び続けることの無理を感じて、厚さ2.3ミリで直径90センチの鉄板に戻した。最初の一撃、2.3ミリの厚さの鉄は意外にも柔い素材になっていた。力八分で仕事ができることに気付いた時、左腕に余裕ができて、当て盤で鉄が絞れた。その後、左腕の訓練によって、自分の体重を超える大きな作品を作ることが可能になったのである。
こんな書き方をすると、私がよほど筋肉隆々の人物になったように錯覚するかも知れないが、私はきわめて普通の筋肉を得たに過ぎない。ただし、利き腕の右腕よりも、少し強い左腕を訓育したのである。同時に、音質を聞き分けて金鎚の当り具合を判断するこの方法は、私を難聴にした。あるひとつの素材に固執して作品を作り続けるということは、その素材を知悉して自在を得ると同時に、その素材に向き合った作者の肉体もまた作られ、あるいは破壊されるということでもある。素材と方法によって、じりじりと自らを鍛えようとせずに、安易に利用しようとする姿勢では、作家は素材と方法によって、その脆弱な肉体を逆襲されることになる。このことは「鍛金に及いて」と限定を付けるべきだろうか? ところで、過保護を必要とする鉄の耐候性にがっかりしていた私は、屋外で保存の可能な銅に向かわざるを得なかった。私の仕事場は大きな鉄の作品でいっぱいになってしまったのである。厚さ1ミリの銅板による大きな作品に向かったのも、同じ厚さの銅の小さな作品を、学生時代以来作っていたという手がかりがあったからである。けれども、銅による大きな作品に向かうためには、鉄と同じ構造で成り立つ訳には行かない。厚さ2.3ミリの鉄と1ミリの銅では、同じ曲面でも強度が異なるためである。厚さ1ミリの銅による作品が、自重に耐えて自立するためには、その内部構造から異なる成り立ちを必要としていた。このことが、その後の私の作品の方向を指示したのである。
長いこと鉄をたたき続けた後で銅をたたくと、それは殆どボール紙をたたいているかと思えるほどだった。そして、金鎚をとらえる銅の粘ついた感触は、沼地に足を取られるようで、金鎚を引き上げる力が必要だった。鉄は硬い分だけ金鎚をはね上げる力がある。つまり、振りおろす満身の力だけで充分なのである。その点、銅は二重に疲れるのだった。けれども、鍛金に及ける素材との力関係は、いつも均衡に向かうようだ。しばらくの間たたき続けると、決まって同じバランス感覚に落ちつくことになるのは何故だろう? 金属自体が変化するのでない限り、人間の身体が金属に合わせて動いていることは確かなことである。金鎚も当て盤も、私の感覚にとって時々刻々同じ重さである訳ではない。こんなあたりまえな感覚の変化が、作品の方位を決定しつつ進む。欧米の美意識からすれば、主体的意志を欠いた軟弱な美意識ということだろう。しかし、意志に及ける私とは何か? 徹底的に純粋な自意識の在り処を求めて、夾雑物を削ぎ落とした末に、何もなくなってしまう自意識の場処を思えば、私は、逆に存在の固別性を踏み倒して、物質と自意識とを同じ自我の囲いの中に入れてしまいたいのである。その時、自我の形態も自ら造り得るのではないかという、向こう見ずな跳躍をしたのである。
私は自問する。銅板が私のところにまでやって来る経済的な経緯をも、自我の囲いに入れることが引き受けられるのか? 物質の転変のさなかにある存在同志の結びつきに及いて、私は「社会性」を共に転変する環境として選ぶつもりはないが、私あるいは私達の形態を決定していることも確かなのである。銅・鉄が工業規格に当てはめられて私の手元に来る時、私はその最大寸法や厚さや純度が、私の制作に大きな影響を与えていることを自覚している。社会と関わる以上、私は自由である訳ではない。他者の決定した事象の間で、自我は自己拡大する他にすべはないのである。それを拒んで、ただ一人の荒れ野に向かっても、自我をめぐる世界の悪夢の中で、自我の同一性、あるいは充足を確認することになるはずである。社会的経路を通って来る、ある特定の素材と徹底的に直接することによって、肉体は造り変えられ、感覚の変動を経験し、その事で自我もまた何らかの変貌を強いられているのであれば、この複合した自我の形態は、社会の一断面と向き合っている形態でないはずはないのである。いずれこのことの明瞭な隆起が、社会全体の大変動を通して決定的に来る時、それがいかなる形で隆起することになるのか? 私はいまだ答えるすべを持たないが、その時、手の思想は試されるのである。