◆野の中の音 1996 榛葉莟子
1999年2月10日発行のART&CRAFT FORUM 13号に掲載した記事を改めて下記します。
一粒のアメ玉 榛葉莟子
「アメ玉もらっただけんどなもう昼だで、はよコメッツブまでせにゃならんでなあ」「ああ、アメですか」 さっきから、せわしなく、もぐもぐと動くおじいさんの口元は、アメを溶かそうとしていたのだった。家着く頃にゃ、ちょうど溶けるでと、立ち寄った家の人にもらった一粒のアメ玉を口にいれたは良いけれど、家が見えてきたというのに口の中のアメはまだ大きい。さあ、困った。90歳を超えたおじいさんの歯は噛むには無理がある。唾液も少ない。玄関の戸をがらがらと開け、はい、ただいまと言った時には口の中はきれいさっぱりにしておきたい。お嫁さんがお昼の支度をして待っていてくれるのだから。それならぷっと放り出せばいいのに、それも、もったいないし……おじいさん複雑に口元を動かしながら「まあ、ありがためいわくっちゅうこんもあるわなあ」と言って笑った。
小春日和の大空は一片の雲もなく晴れ渡り、まるでシルクスクリーンのベタ刷りのように、真っ青にきらきらと輝いている。時々、散歩の道で出会うおじいさんは、優しくて強い明治の男だ、いかにも大地と共に生きてきた農夫の堂々とした威厳をすら感じる。私がおじいさんの、ファンになったのはもう5、6年前になるだろうか、おばあちゃんが亡くなった次の年の夏だった。いつもの夏なら花好きのおじいさんの家の前の両脇には、コスモスやダリヤやひまわりなどの、夏の花特有のにぎやかな色彩であふれかえっていた。ところが、その夏はちがっていた。おじいさんの家の前の、道の両脇を延々と縁取る花は白いマーガレットだった。他の色のひとかけらも混じらず、ただただ、白、白、白の異様とも感じられる満開の白いマーガレットの花が灯明のように道を照らしていた。そこだけが日常からふわりと離れたような不思議な空間が出現していた。この夏はおばあさんの新盆……ということは、おじいさんは、春先、白いマーガレットの苗のひと株ひと株を延々と道の縁に植えていったのだなあ。ちゃんと新盆の頃花開くように……
私はその白い道をすたすたと犬と駆け抜けるのは気が引けて、曲がらずにまっすぐ走った。何か明るいものが沸いてきた。いいなあ、いいなあおじいさん、走りながら胸の奥がちくちく痛かった夏の日の事を思い出す。耳の遠いおじいさんと立ち話するにはちょっと気合がいる。大きな声と身振ぶり、簡素な言葉、いやそんな大げさなものでもないが、何しろ私はおじいさんのファンなので適当にやり過ごすなんて事はできない。ヘーとか、わつとかあいずちを打ちながら、しばらくは立ち話する。いつだったか、土手に坐り込んで草取りをしているおじいさんを、遠くから発見、そう、発見としか言いようがないのだ。ひとっこひとりいない日中、拡がる田園風景の草のなかに溶けこんでいるおじいさんを見つけたのだから。気配にきずいて、おおっというふうに顔をあげたおじいさんに、きれいになりますねと言うと、こんなこんしかできんのよ、足痛いしな、もう用無しじゃ、いつお迎えがきてもええしなあ。などと言うおじいさんの陽やけした顔が静かに笑った。そんな時、私になにが言えるだろう。黙るしかない。大地を耕して一生を農夫として生きるおじいさんの世界に入りこむ事はできないけれど、希望も絶望も超えた場所にこそ深く静かな平和がおとずれるという。おじいさんの静かな笑顔に、それを感じたのは生意気だろうか。
それではと言う引き際のタイミングというのもなかなか難しく、この日はお昼のサイレンが合図になつた。どうやら立ち話の間に、アメ玉はコメッツブになりやっと溶けて口の中は、お昼のご飯の準備ができたようだった。空の色に似た青い綿入れの半纏が窮屈そうなおじいさんの後ろ姿をちらっと見送った。それから私はつくずくと、青く拡がる大空を仰いだ。あまりにも今日の青空は膨らんでいるよ。と感じる。青い丸天井を見つめていると、身体が除々に縮小していく感覚になっていく。おじいさんの口の中で溶けていくアメ玉と似ているなあ。コメッツブまで溶かさにゃならん?これって比喩だ。青い丸天井の囲いのなかのちっぽけな自分が見えてくる。溶ける寸前、青空のなかに手をつっこみたい衝動に駆られ、掌のハサミを青空のなかにつっこむ。呑み込まれる訳にはいかないよ。絶望と希望の狭間で揺れ動き夢みていたいもの、だからジョキリ。小さな裂け目がぎらっと空白を生む。脱出する。囲いのなかから。
くいっと引っ張る力に気ずくと、綱の先で犬が、さあ帰ろうよと私を見上げていた。うん、帰ろう、次の授業開始のベルが鳴っているものね。眼の先の空には、いつのまにか一片の魚のような白い雲が泳いでいた。
1999年2月10日発行のART&CRAFT FORUM 13号に掲載した記事を改めて下記します。
一粒のアメ玉 榛葉莟子
「アメ玉もらっただけんどなもう昼だで、はよコメッツブまでせにゃならんでなあ」「ああ、アメですか」 さっきから、せわしなく、もぐもぐと動くおじいさんの口元は、アメを溶かそうとしていたのだった。家着く頃にゃ、ちょうど溶けるでと、立ち寄った家の人にもらった一粒のアメ玉を口にいれたは良いけれど、家が見えてきたというのに口の中のアメはまだ大きい。さあ、困った。90歳を超えたおじいさんの歯は噛むには無理がある。唾液も少ない。玄関の戸をがらがらと開け、はい、ただいまと言った時には口の中はきれいさっぱりにしておきたい。お嫁さんがお昼の支度をして待っていてくれるのだから。それならぷっと放り出せばいいのに、それも、もったいないし……おじいさん複雑に口元を動かしながら「まあ、ありがためいわくっちゅうこんもあるわなあ」と言って笑った。
小春日和の大空は一片の雲もなく晴れ渡り、まるでシルクスクリーンのベタ刷りのように、真っ青にきらきらと輝いている。時々、散歩の道で出会うおじいさんは、優しくて強い明治の男だ、いかにも大地と共に生きてきた農夫の堂々とした威厳をすら感じる。私がおじいさんの、ファンになったのはもう5、6年前になるだろうか、おばあちゃんが亡くなった次の年の夏だった。いつもの夏なら花好きのおじいさんの家の前の両脇には、コスモスやダリヤやひまわりなどの、夏の花特有のにぎやかな色彩であふれかえっていた。ところが、その夏はちがっていた。おじいさんの家の前の、道の両脇を延々と縁取る花は白いマーガレットだった。他の色のひとかけらも混じらず、ただただ、白、白、白の異様とも感じられる満開の白いマーガレットの花が灯明のように道を照らしていた。そこだけが日常からふわりと離れたような不思議な空間が出現していた。この夏はおばあさんの新盆……ということは、おじいさんは、春先、白いマーガレットの苗のひと株ひと株を延々と道の縁に植えていったのだなあ。ちゃんと新盆の頃花開くように……
私はその白い道をすたすたと犬と駆け抜けるのは気が引けて、曲がらずにまっすぐ走った。何か明るいものが沸いてきた。いいなあ、いいなあおじいさん、走りながら胸の奥がちくちく痛かった夏の日の事を思い出す。耳の遠いおじいさんと立ち話するにはちょっと気合がいる。大きな声と身振ぶり、簡素な言葉、いやそんな大げさなものでもないが、何しろ私はおじいさんのファンなので適当にやり過ごすなんて事はできない。ヘーとか、わつとかあいずちを打ちながら、しばらくは立ち話する。いつだったか、土手に坐り込んで草取りをしているおじいさんを、遠くから発見、そう、発見としか言いようがないのだ。ひとっこひとりいない日中、拡がる田園風景の草のなかに溶けこんでいるおじいさんを見つけたのだから。気配にきずいて、おおっというふうに顔をあげたおじいさんに、きれいになりますねと言うと、こんなこんしかできんのよ、足痛いしな、もう用無しじゃ、いつお迎えがきてもええしなあ。などと言うおじいさんの陽やけした顔が静かに笑った。そんな時、私になにが言えるだろう。黙るしかない。大地を耕して一生を農夫として生きるおじいさんの世界に入りこむ事はできないけれど、希望も絶望も超えた場所にこそ深く静かな平和がおとずれるという。おじいさんの静かな笑顔に、それを感じたのは生意気だろうか。
それではと言う引き際のタイミングというのもなかなか難しく、この日はお昼のサイレンが合図になつた。どうやら立ち話の間に、アメ玉はコメッツブになりやっと溶けて口の中は、お昼のご飯の準備ができたようだった。空の色に似た青い綿入れの半纏が窮屈そうなおじいさんの後ろ姿をちらっと見送った。それから私はつくずくと、青く拡がる大空を仰いだ。あまりにも今日の青空は膨らんでいるよ。と感じる。青い丸天井を見つめていると、身体が除々に縮小していく感覚になっていく。おじいさんの口の中で溶けていくアメ玉と似ているなあ。コメッツブまで溶かさにゃならん?これって比喩だ。青い丸天井の囲いのなかのちっぽけな自分が見えてくる。溶ける寸前、青空のなかに手をつっこみたい衝動に駆られ、掌のハサミを青空のなかにつっこむ。呑み込まれる訳にはいかないよ。絶望と希望の狭間で揺れ動き夢みていたいもの、だからジョキリ。小さな裂け目がぎらっと空白を生む。脱出する。囲いのなかから。
くいっと引っ張る力に気ずくと、綱の先で犬が、さあ帰ろうよと私を見上げていた。うん、帰ろう、次の授業開始のベルが鳴っているものね。眼の先の空には、いつのまにか一片の魚のような白い雲が泳いでいた。