浅見松瑩(松江) 1886年~1969年 をご存じか? 開催中
明治19年東京に生まれる。本名松江。後に松瑩と号を変える。
一時京都で上村松園にも学ぶが、東京に戻って寺崎広業の弟子となる。
その後松岡映丘の門に入り、木之華社で大和絵の研鑽を積む。
また、昭和10年には同門の国画院の研究会会員となる。
大正15年第7回帝展に「妖蛇物語三題」が初入選し、翌年第八回帝展に「女歌舞伎」、第十回帝展に「髪」を出品。
目黒雅叙園の室内装飾にも参加している。雅叙園収蔵作品展では「細川ガラシャ」が表紙となっている。
戦火を避け知人の紹介で昭和20年、松代町に移り作画を続けた。
戦後信州美術展にも協力、秀作を残した。松代群発地震の折、住まいが被害を受け住居を移し、そこでも制作を続けたが昭和44年没した。83歳であった。
生涯独身で、画道一筋に古典をよく噛みこなした典雅で美しい色彩の王朝風人物画を描いた。没後44年の忘れ去られたくない閨秀の名作家である。
明治19年東京に生まれる。本名松江。後に松瑩と号を変える。
一時京都で上村松園にも学ぶが、東京に戻って寺崎広業の弟子となる。
その後松岡映丘の門に入り、木之華社で大和絵の研鑽を積む。
また、昭和10年には同門の国画院の研究会会員となる。
大正15年第7回帝展に「妖蛇物語三題」が初入選し、翌年第八回帝展に「女歌舞伎」、第十回帝展に「髪」を出品。
目黒雅叙園の室内装飾にも参加している。雅叙園収蔵作品展では「細川ガラシャ」が表紙となっている。
戦火を避け知人の紹介で昭和20年、松代町に移り作画を続けた。
戦後信州美術展にも協力、秀作を残した。松代群発地震の折、住まいが被害を受け住居を移し、そこでも制作を続けたが昭和44年没した。83歳であった。
生涯独身で、画道一筋に古典をよく噛みこなした典雅で美しい色彩の王朝風人物画を描いた。没後44年の忘れ去られたくない閨秀の名作家である。