私達人も天地自然に生かされて、
人力を尽くし、自分の運命を切り開きましょう!
2020・01・15、天地と因果
[神明に恥じない、祈りと生活]
宗教の長い歴史の中には、呪いの祈りが盛んに行われた時代があります。
しかし、不思議なことに相手が自分の罪を感じて、改めた場合には、その呪いは呪った側に返ってくるということです。
敵対する心で自分の幸せを祈っても『天地の心』にかないません。
『敵味方を隔てなく祈る心』でいれば人生は守られるものです。
その祈りを『神明に恥じない祈り』といいます。
天地神明に誓ってといいますが、そもそも神明とは『見抜き見通しの神眼(しんがん)』のことです。
『天知る、地知る、己知る』で、邪気は必ず知られるところとなります。
『天地と人の霊』は繋がっているからです。その証拠に、『人と対立し、切れて離れた気持ち』をかくしていても、『本心には、うずきを感じる』ものです。
これは、天地から離れている証拠です。そして、これこそ、『神明に逆行している心そのもの』です。
人間は仕方のないもので、油断すれば人間関係にひずみが生まれやすくできています。だから、『祈る心で己を律する』ことが、『神明に恥じない生き方』となります。やります!
2020・01・13、天地の慈悲
[喜びは汝自身の生命なり]
にがり切った顔で『人生に面白いことなどあるもんか。』と不満がいっぱいという人がいます。
その人の人生観は、『喜びごとは人に求める』ことで『自らが喜びを見いだし作り出す』なんてとんでもないの世界でしょう。
それで、『貴方は今幸せですか?』と問えば、如何でしょうか。『まあまあまあか』『それなりにこまっていませんよ』といわれるかも。
夫婦生活でも、『不満はないが、喜びもない』ということもあれば、心に不満を押し殺して日々をおくることもあります。
ようするに、天地の働きは前に前に進んでいます。しかも、調和という空間に恵みをもたらしながら、瞬時の停滞もなく刻、刻と歩んでいます。
そのことを、空を仰ぎ、雲の流れを追いかけながら、嘆息することがあります。
天地の風景、動きに込められた、『かく生きなければ生きるに生きられず』とは。それは、ただ、食べて、飲んで生きるだけでなく、心の喜びこそ、明日に向かう生命のエネルギー源ではありませんか。
それが、『家族への感謝となり愛の生活』の喜びを生み出す源泉でありましょう。気付いて欲しいですね。やります!
2020・01・12、心と運命
[人間心は広くして狭し]
人間とは、面白い一面を持っています。『悪いことをしながら、良いことを思い』『良いことをしながら、悪いことを考え』ています。
昨日のニュースで、年配の人が、神社にお参りしながらお賽銭を入れ、合掌の後、お賽銭箱をひっくり返し1000円のお賽銭を盗みました。これなど、見ていて典型的な人生観をみたものです。
時と場合により、『心が広くなれる時もあれば、狭くなる時もあり』『体もまた、柔らかくなったり、固くなったり』します。
生活も同様にして、『楽しい時もあれば、悲しい時もあります』つまり、『良い部分と悪い部分が混在している』からこそ、『自分の心の幅を広げる努力』『寛容の人になる』ことが、運命を開く鍵を開くことになります。やります!
2020・01・11、人生と使命
[我がものとするより〜]
[人のものになりきる者に不幸なし]とウラのことばがあります。そこに運命開拓の方向が示されています。
人が、家族が、自分の思い通りには、なかなかなってくれないものです。その反対に私も妻の思いにかなっているかと、問われれば即答しにくい生活があります。
これは、いくら嘆いたところで自分のくせです。自分の持ち物でありながら、持て余しているのです。
では、この道でいうところの、人間らしいとは『人のものになりきる』ことをいうのです。
結論的にズバリいえば、『寄り付きやすい人』のことを、『人のものになりきる』といいます。『どんな人が寄り付きやすい』かといえば、決まってます。
『暗い無口より、明るい笑顔』『頑固を振り回す人より、やわらかく、相槌をうつ』『なにも言わなくても、辛いときに、そっと気持ちを寄せる、優しさ』ここしか、神は見ていないのです。気をつけましょう。やります!
2020・01・10、心と運命
[汝の思いは汝を悩ます]
以下、[神の思いは汝を喜ばしむ]と続きます。
私たちの思いは、まず自己中心的にはたらくものです。相手が何を思い考えているか、よりも優先しています。
そこから、人間関係に食い違いが生じたりします。
神というより、天地の働きと表現した方が、わかりやすいとおもわれます。
あえて天地と表現し、その『天地の新陳代謝と差別なき慈愛』を、感じてほしいものです。天地は広大で広い視野を持っています。
事情は、私たちの生活の視野を狭くしています。つまり、自分で自分を責め、悩み、自らの思いで苦しめていることになります。
しかし、天地に思いを寄せてみれば、いかにも、小さなことに囚われていたのか?が、わかってきます。そこに、現在、未来を歩もうとする自身が見えてくるでしょう。それを運命といいます。
天地の視野に立てば、おそらく悩みもいくらか楽になるはずです。やります!
2020・01・09、天地の願い
[我がために終わるより、多くの人の為に終わらんとする者は幸いなり]
人生は生老病死の宿命のもとにあります。考えてみれば、学歴、職業、経済力、名誉に関係なく、人は悟っても死に、悩んで死に、迷っても死ぬことになっているということです。
誰であろうと、人は死ぬことに決まっています。そして、誰でもそのことを知りながら生きています。ただ、切実に考える瞬間がないだけです。忘れたフリをして生きています。
身に迫るのは、周囲の親しい人が亡くなったときです。そして、死というものは、皆んなが死んだ後に、死ぬという錯覚にあることです。
そこで、その人の人生観があらわになります。大きなことはいりません。せめて、家族や仕事関係で社会で、自ら挨拶やことばをかけていく、小さな一歩からでけっこうです。
まるで、ロウソクの我が身を縮める如く、世のため、人のために生きて明るさ、柔らかさ、優しさで、宿命の死を、輝くものにしたいものです。やります!