占有取得によって物は、私の物であるという述語をえ、意志は物に対して積極的な関係を持つ。物が私の意志とこのように同一の物となることにより、物はまたそれだけ消極的なものとして定立され、私の意志はこの規定によって、特殊的意志、すなわち欲求、気まま等となる。【法の哲学§59】
けれども、一個の意志の特殊性としての私の欲求は、自己を満足させる積極的な物であり、物はそれ自身において即自的に消極的なものとして、その欲求という積極的な物のために存し、かつそれに奉仕する。――――使用とは、物を変化せしめ、無くし消耗することによって、このように私の欲求が、a
実現されることであり、物の無自己的性質はこれによって明らかにされ、物はかくて使命を果たすのである。所有者の意志が第一の実体的な基礎であって、それによって物が彼の物となるのである。a
それから派生した規定が使用であり、使用は単に、かの所有者の意志という普遍的な基礎に従う現象および特殊的仕方に他ならない。(ibid s64 )
財の平等について:がんらい人間はもちろん平等であるが、しかし、それは単に人格として、すなわち、その占有の法源に関してである。この意味では各人は所有を有しなくてはならないだろう。したがって、もし我々が平等を云々しようとするならば、考察しなければならないのは、a
このような平等である。けれども、特殊性の規定、すなわち私がいかに多く占有するかの問題は、これ以外の領域に帰するのである。ここにおいて、正義は各人の所有の平等たるべきを要求する、という主張は誤りである。b
がんらい、このような主張は単に、各人は所有を有すべし、ということを要求するものに過ぎないからである。むしろ特殊性とは、まさに不平等の存するところであり、ここでは平等はかえって不法であろう。人間がしばしば他人の財を欲しがるということは、まったくその通りである。c
けれども、まさにこれは不法である。けだし法はどこまでも特殊性に対しては無関係なものだからである。§49h
けれどもこれはまさに不法である。けだし法はどこまでも特殊性にたいしては無関係なものだからである。§49この箇所の記述は、とくに左翼の、革命家の狂信的な平等化要求に対する反証となるだろう。
しかし、現実に何が平等か、個別具体的に決するのは難しい。どこまでが資本家の搾取と見なされるか、という問題につながって来る。
※しかし、現実に何が平等か、個別具体的に決することは難しい。どこまでが資本家の搾取と見なされるか、という問題につながって来る。どこからが盗みで、どこからが正当な勤労の報酬と見なされるべきか、それを実際に決定するの難しい。