個別・特殊・普遍の論理③
概念論の研究
この個別と特殊と普遍の論理は、すべての事物の根本的な原理でもあるから、当然に思想や精神の原理でもある。精神においては、その普遍の契機として、モメントとしては絶対的な精神が、天地の創造者として、父なる神として前提されている。この絶対的精神は、主体的な絶対的な威力でもある。
しかし、この絶対的な精神としての普遍も自己の分身としての子を、キリスト・イエスを産み出す。そしてこの特殊の契機において、自然は有限的な精神すなわち人間と対立的に分裂する。そして、子なるキリスト・イエスは死の痛苦の中に絶命する。こうして、普遍は特殊へと進展するが、それは普遍が自己を原始分割(UR-TEIL)することであり、それは日本語には現われてはいないが、判断をすることでもある。それは事物が分裂することによって、自己の本質を明らかにする判断の過程でもある。
絶対的な精神は、このを原始分割(UR-TEIL)を通じて自己の本質を現象させ、自己の姿をみずからの子の姿の中に顕かにする。そして、苦痛の中に死に至るという子の絶対的な自己否定を通じて、和解はなし遂げられる。この過程は、普遍―→特殊―→個別の推理をなし、客観的な歴史的な全体的な統一として、すでに世界において実現されている。
この普遍―→特殊―→個別の推理は、歴史的に実現された客観的な全体として、有限な個人においては、それを他者として、しかし、真理として直観されているものである。この精神の証を有限な精神(個人)が手に入れることを通じて、個人は自己の本性を悪として、虚しきものとして自覚するが、すでに、この普遍―→特殊―→個別の推理を通じて、世界に和解の実現されていることを確信しており、その直観を通じて、自己の永遠性を認識しようとする。ここでは個別は特殊を通じて普遍と結合されている。
また同様に、特殊は普遍を媒介として個別と結合される。また、個別は普遍と特殊をつなぐものでもある。
この個別は具体的で現実的なものであり、かつその永遠の存在が精神の理念であり、聖霊である。この事柄も日本語では表現されにくいが、ドイツ語では精神も聖霊も同じくGEISTであり、同一物の二側面である。
これらの推理の構造は、もちろん形式論理学では説明できないキリスト教の三位一体の教理を説明するものであるが、事実としては、ヘーゲルはキリスト教の研究を通じて、この論理を洞察したというべきだろう。