作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

日々の聖書(13)――イエスの平常心

2007年02月27日 | 宗教・文化

日々の聖書(13)――イエスの平常心

さて、ある日イエスは弟子とともに舟に乗った。彼は弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう。」と言った。そうして彼らは漕ぎ出して行った。
しかし、弟子たちが帆を揚げたとき、彼は眠り込んでいた。すると湖に嵐が吹いてきて、舟は水に浸かってしまい、弟子たちは恐れおののいて、彼の所にやってきて彼を起して言った。「先生、先生、溺れてしまいそうです。」 すると彼は起き上がり、風とうねる大波にむかってお叱りになった。するとすっかり静かになった。
そのとき彼は弟子たちに言われた。「あなた方の信仰はどこにあるのか」
すると弟子たちは、恐れ驚いてお互いに言いあった。
「この方は何という人だろう。命ぜられると風も波も彼に従うではないか。」

(ルカ書8:22~25、マタイ書8:23~27、マルコ書4:35~41)

この一節からも、さまざまの事柄が読み取れると思う。自然をさえ従わせることのできるイエスの権威、あるいは、すべてに超然としたイエスの態度、あるいは、弟子たちの神に対する信頼心のなさなど。
弟子たちとその師であるイエスと間に見られるこの態度のちがいは何によるのだろうか。仏教などにおいても、修行を積んだ禅僧などにもイエスのような何事にも動じない平常心をしばしば見ることができる。ただ外見的には同じような不動心、何事にも超然とした平常心であっても、その由来は異なるようである。

「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言われるように、無神論の仏教ではその境地は無を観想する修行に由来する。

それに対して、イエスの教えによれば、畏れるべきはただ永遠の存在である神のみである。そこから、自己の生命に対しても、有限な存在としての人間の存在の本質的な虚しさの自覚も生まれてくる。そうして神以外の存在の一切に対する本質的に無頓着な態度から、生命の危機に対してさえも超然とした姿勢が生まれてくる。

だからイエスは言った。「身体を殺しても、それ以上に何もできない者を怖れるな」(ルカ12:4)と言い、「自分の命のために何を食べようか、何を着ようかと思い患うな」(ルカ12:22)と言った。哲学者ヘーゲルはこれを評して、歴史上もっとも革命的な言説であると言っている。

そして、さらにはイエスの祈りの精神がある。彼は弟子たちに「倦まず弛まず気を落とさず絶えず祈ることを教え」(ルカ18:1)彼自身も、血の汗を滴らせながら(ルカ22:44)祈った。イエスの不動心はこうした祈りの修練によってももたらされたのだろうと思う。そしてキリスト者とは、キリスト・イエスを唯一の師と認める者のことだから、イエスのこの境地は、当然にキリスト者の目指すべき境地でもあるのだろう。


さて、ある日イエスは弟子とともに舟に乗った。彼は弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう。」と言った。そうして彼らは漕ぎ出して行った。
しかし、弟子たちが帆を揚げたとき、彼は眠り込んでいた。すると湖に嵐が吹いてきて、舟は水に浸かってしまい、弟子たちは恐れおののいて、彼の所にやってきて彼を起して言った。「先生、先生、溺れてしまいそうです。」 すると彼は起き上がり、風とうねる大波にむかってお叱りになった。するとすっかり静かになった。
そのとき彼は弟子たちに言われた。「あなた方の信仰はどこにあるのか」
すると弟子たちは、恐れ驚いてお互いに言いあった。
「この方は何という人だろう。命ぜられると風も波も彼に従うではないか。」

(ルカ書8:22~25、マタイ書8:23~27、マルコ書4:35~41)


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