作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

詩篇第百二十八篇註解

2007年03月14日 | 宗教・文化

詩篇第百二十八篇

巡礼の歌

何という幸せか、主を畏れ、主の道を歩むものはすべて。
あなたがその両手で労した果実は、まさにあなた自身が食す。
あなたは幸せである。善き物に恵まれるだろうから。
あなたの妻は家の奥にあって、葡萄の木のように豊かな房を実らせる。
あなたの子供たちは、オリーブの若木のように、
あなたの食卓を囲む。
見よ、主を畏れるものは、まさにこのように祝福される。
シオンから主があなたを祝福されますように。
そして命あるかぎりエルサレムの恵みを見るように。
そして多くの子供たちや孫たちを見るように。

イスラエルの上に平安あれ。


詩篇第百二十八篇註解

この詩篇にも、「巡礼の歌」という標題が付せられている。エルサレムに祭りがあり、そこへ参る途上で人々が和しながら歌ったものと思われる。ある意味では私たちの生涯も巡礼のようなものである。
それは死へ向かう旅路であり、また私たちは天上のエルサレムに向かう旅人でもある。

キリスト・イエス自身は生涯妻を娶ることもなく独身であったし、また彼自身も独身生活を勧めもしたが、聖書には家庭の幸福を描いている個所は少なくない。この詩篇第128篇もそうである。短い詩の中に、このうえなき家庭の幸福を描いている。このような幸福な家庭像はまさに永遠の理想であって、時間や土地によって、時代や民族によって変化するものではない。どんなにフェミニストたちが、独身女性たちの身分を謳歌しようとも。

わが国でも妻のことを「奥さん」と呼び習わしているけれども、この聖書の詩篇の精神に見事に一致している。妻は、家の奥にあって、葡萄の木々のように豊かな房を実らせている。そして、食卓に連なっている子供たちは、一度もまだオリーブを搾り取られたことのない若木のように青々として幼い。

このような幸福な家庭を手にすることのできるのは誰か。
それは主を畏れ、主の道を歩む者である。彼はこのような家庭に恵まれるという。幸福な家庭を手に入れたものは、すでにこの世にいながらにして半ば、すでに天上にあるようなものである。それほどに幸福な家庭は貴重である。

人は誰も二人の主人に仕えることができないように、幸福な家庭にも主人は一人しかいない。わが国では妻は夫のことを主人と呼ぶが、これも聖書の精神に適っていると思う。しかしそれは厳密には正しくはない。なぜなら、どのような家庭にあっても真の主人はただ一人、それはキリスト・イエスのみだからである。

現代の日本の家庭の多くが、離婚や崩壊に面しているとすれば、それぞれの家庭が、この唯一の主人を抱かず、妻と夫が主人の地位を争うような誤った家庭観に囚われてしまっているからではないだろうか。

 


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