遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

詩人あの人この人~林芙美子その3「尾道・女学校時代」

2023年09月10日 | 読書



芙美子の一家が尾道に移り住んだのは、1916(大正05)年、芙美子13歳の時。
木賃宿を変えながら住むが、やがて渡辺醤油店の離れの2階を借りられた。

そこが記念館になっているらしく、ネットを探した。

これが何と今年3月の新聞報道だ。えっ! 今頃?
そして文化遺産オンラインサイトに登録された。

でも、明らかに家が違う。
地方TVは板張り、文化遺産は鉄板葺 ・・・どうなってんのこれ?
中の部屋の写真は同じ。(記念館の一室として公開しているからだろう)

もう一つ、文化遺産サイトから記念館サイトへのリンクが無い・・・。
というか記念館にはWebサイトも無い!
尾道に6年も住み、「放浪記」で有名にもした芙美子に冷た過ぎない?

これは苦情ブログではない。本来の話に戻ろう。
他の資料に拠れば、
<宮地醤油店の二階は、二畳と六畳の二間あり、二畳を芙美子が使った。
 行商の荷で埋まる隙間だけ芙美子が使えたが、それでも嬉しかった>

さて、昨日は芙美子の学校のことで書き洩らしたことがある。
芙美子の文才、画才の才能を見出してくれたのは小学校の先生だった。
尾道に移住した時に戻ってそのことを書き足す。初恋のことも。

1916(大正05) 13歳
母キクは、殆ど学校に通わなかった芙美子を転入させようと学校に出向く。
本来なら小学校を卒業する歳だったが、学力不足で5年に編入される。
学校は第二尾道尋常小学校、任の教師は女性で寺原先生。

この先生が、芙美子の読書好きを知り、次々と本を貸してくれる。
本読みたさで芙美子は学校へ通うが、キクは一安心、再び行商に出る。
やがて寺原先生は本を貸すだけでなく、芙美子の苦手な教科も教える。

2歳年上、行商経験も役立ち話が上手くて人を喜ばすことも好き。
やがてクラスの人気者になり、友達も増えてゆく。
芙美子は、学校に通うことがますます楽しくなる。

1917(大正06) 14歳
六年生になると寺原先生が転任、芙美子は途方に暮れてしまう。
が、新担任の小林正雄が海外生まれの文学好き。
難しい文学書を次々貸してくれ、繰返し読んで芙美子も理解する。

その次は感想文を書いて来なさい・・・ハードルが上がるのも楽しい。
ぜひ女学校に行け、図書館に大量の本もある、ただ、今の学力では不合格。
授業以外の時間だけでなく、休日は先生の家にまで行って特訓を受ける。

その頃、芙美子は、間借りする宮地醤油店の親戚の岡野軍一と親しくなる。
因島から忠海中学校に通学する2歳年上の美男子。
熱中して本を読む可愛らしい姿に惹かれた彼が声をかけてくる。
二人は親しく付き合い、芙美子は岡野への恋心を募らせてゆく。
絶対に合格しなくては・・・そんな思いも芙美子にはあったのだろう。

1918(大正07) 15歳
猛勉強した芙美子、5番の優秀な成績で 尾道市立高等女学校に合格する。
学費稼ぎのため、夜は帆船の帆布を作る工場に勤める。
夏休みには神戸まで行き、蕎麦屋の住込み女中として働く。 
学校ではやはり読書に熱中する。
国語教師の森要人が芙美子の文才に注目、校友会誌に彼女の作文が載る。

1919(大正08) 16歳
福岡の直方に住む実父中村に、学費の支援を頼みに行く。
会えば中村は小遣いをくれるが、まとまった学費を渡すことはしなかった。
学校では、新しい国語教師今井篤三郎が赴任する。
彼もまた芙美子の文才を育くんでくれ、生涯にわたって師弟関係を結ぶ。
この頃、芙美子も本格的に詩作を始める。

1921(大正10) 18歳
秋沼陽子のペンネームで、「山陽日日新聞」「備後時事新報」に短歌や詩が載る。

1922(大正11) 19歳
女学校を卒業、明治大学に通う岡野を頼って上京する。

【余計なお世話】
寺原先生はともかく、小林正雄先生や今井篤三郎先生は、
林芙美子の才能を育てた人たちだから、尾道を有名にした人たちでもある。
が、地元ではあまり知られてないらしく、ネットを検索しても出て来ない。
冒頭のWebサイトの件といい、市や県の教育委員会は何をしている!

独り文句を言っていたら小林正雄と今井篤三郎の名がヒットした。
それが何とJR西日本のサイトだった。教育員会の者ども必見!
特集 芙美子の尾道を歩く
2ぺージだけだが写真もよく、一見の価値あり。
なお、ここの芙美子住居跡は板張りの家になっている。

今日はここでお別れ。明日またお会いしましょう。
[Rosey]