1945/S20年 荷風67歳
荷風の空襲体験の履歴を以下に超要約記述する
03/10 大空襲で偏奇館を失った荷風は 代々木の従弟の杵屋五叟宅に寄寓
04/15 東中野の菅原(※)氏アパートに寄寓
※菅原明朗:オペラ「葛飾情話」の作曲家 妻は永井智子(オペラ歌手)
右から荷風、アルトの永井智子、菅原明朗、テナーの増田晃久、ソプラノの真弓明子
~05/03 新聞がヒットラー・ムッソリーニの死を報じる~
05/25 夜空襲があり菅原氏アパート含め一帯は瓦礫土塊となる
菅原夫妻と共に代々木の五叟宅へ行くが 23日の空襲で一帯焼野原
五叟一家は代々木駅前の知人宅に仮寓していて皆無事
3人は駒場に住む菅原氏知己の家を訪ねて仮寓
06/02 菅原氏の生家明石市に疎開しようと渋谷駅から列車に乗る
06/03 明石市大蔵町の菅原氏の生家に着き母堂と会う
家に罹災者で空き部屋無く 3,4丁(1丁は約110m)離れた西林寺に泊まる
西林寺のサイトはこちら (内容が殆ど無いが・・・)
西林寺主人は年40位の未亡人で言語快活談話巧み云々と荷風は書いている
06/10 明石も近く空襲ありとの噂 3人で岡山に行く(※)と決める
※菅原氏の音楽仲間のピアノ演奏会が06/11に岡山市で行われた
06/11 演奏会の後 音楽仲間の知人宅に泊まる
06/13 菅原氏の知人宅で昼食 3人で岡山ホテルに泊まる
ホテルには3泊し その後松月という旅館に移る
06/28 深夜空襲 爆音で飛び起き土手を走り河原に伏せ九死に一生を得る
~この夜 菅原夫妻は明石の実家へ行っていて荷風は1人だった~
06/29 過日訪ねた菅原氏知人宅へ行くが家は焼失
知人らは近隣の家に避難して無事 明石から戻った菅原夫妻とも会えた
~摘録には7月の記載31日のみ 下痢が止まず近くの病院で薬との記述
07/26 米英中によるポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)発表~
08/06 菅原氏広島から戻る~原爆投下の記述なし~
08/09 (欄外墨書)ソ連赤軍満州侵入
08/14 谷崎(潤一郎)君と会う
08/15 岡山に戻り 菅原氏から正午のラジオ放送 戦争突然停止を聞く
夕方 染物屋の老媼 鶏肉・葡萄酒を持参 皆で休戦の祝宴を行う
本当に聞きたいのは唯一つ ポツダム宣言をすぐ受諾しなかったのは?
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]