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明治・大正の作家たち~跳んでいる女性たち・その6 長谷川時雨&「女人芸術」

2023年06月30日 | 読書


朋遠方より来たる、亦楽しからず・・・が理由で昨日はブログ掲載を休んだ。
今日は改めて長谷川時雨と「女人芸術」の話を続ける。
ところで、一昨日、主役の一人、三上於菟吉の写真を掲載し忘れた。


三上於菟吉(みかみおときち)1891(明治24)- 1944 (昭和19)小説家


1916(大正5)年、長谷川時雨は無名の作家三上と出会う。時に時雨、37歳。
そして3年ほどして、12歳年下の彼からの求愛に応えて同棲を始める。
時雨は、父を亡くし母らの世話とも重なり、忙しい時期だった。

それでも、姐御肌で面倒見のいい時雨は、於菟吉を売り出そうと奔走。
1921年(大正10)頃から、於菟吉の評判が次第に高まる。
彼は芸者を囲い家にも戻らず、放蕩三昧の暮らしを続け時雨を悩ませた。

於菟吉が世に出たので、時雨も自分のやりたかったことを始める。
1923(大正12)、「青鞜」の岡田八千代と同人誌「女人芸術」を創刊。
だが、2号発行後に関東大震災が発生、止む無く休止せざるを得なかった。 


「女人芸術」1923(大正12)年 創刊第1号表紙

一方、人気が出た於菟吉には、連載依頼が次々と来た。
が、放蕩がもとで連載に穴をあけそうになった時もあった。
そんな時は時雨が代筆・・・というから彼女の才知も大したものである。

純文学志望から大衆作家へ。
売れに売れた於菟吉、「オレは紙幣製造機」と自嘲することもあったらしい。
だからといって、彼は芸者のATMと化したわけではない。
時雨の「女人芸術」復刊に当たっては、必要資金をすべて彼が負担した。

1928(昭和3)年、時雨は新生「女人芸術」を創刊する。
最初の創刊時は、女性向けの文芸雑誌だったが、今回は目的を明確にした。
新人女流作家の発掘・育成・・・がそれである。


「女人芸術」1928(昭和3)年 創刊第1号表紙

そのためには売れて発行部数も延ばすことも必要。
時雨は昔の「青鞜社」等の社員メンバーを雇って編集や執筆()を任せた。
※生田花世、素川絹子(詳細情報無し)、長谷川春子(時雨の妹~洋画家)


生田 花世(いくた はなよ)1888(明治21)-1970年(昭和45)作家、詩人

 さて、新生「女人芸術」に作品が掲載されてデビューした作家は数多い。
一人だけ挙げろ、と言われたら、私ならまずこの人を選ぶ。

林芙美子1903(明治36)-1951(昭和26年) 

彼女自身は「歌日記」というタイトルで寄稿した。
が、それじゃ詰まらない、「放浪記」がいい、と提案したのが於菟吉・・・。
やはり彼はセンスもあるのだ。


私も若い頃「放浪記」文庫本を読み、彼女の苦労に想いを馳せた。
また、於菟吉の「雪之丞変化」も青空文庫で読み、止められなくなった。
映画やドラマの脚本を読む感じで、テンポ・話の運び、描写などが抜群!
当時は映画(キネマ)が流行り始めた頃である。
於菟吉もキネマを想定して描いたのだろう、と私は勝手に思っている。

もう一人、「女人芸術」で世に出た女性作家を挙げよ。
そう言われたら、やはり、この人「矢田津世子」である。
でも、この人について書いた記憶があるのだが・・・。


矢田津世子(やだつせこ) 1907(明治40)-1944年(昭和19) 小説家・随筆家 

「跳んでる女性たち」の最初が「伊藤野枝」、次が「木村曙」、
そして3番目が「矢田津世子」の予定だった。
が、彼女を書くことは、坂口安吾に話が及ぶことなので、書くことを諦めた。
今回も彼女のことは見送り写真だけ掲載する。
いずれ「矢田津世子~安吾の不滅の恋人」とでも題して描きたい・・・。

さて、寄り道し過ぎた。
「女人芸術」は多くの女性作家を輩出したが、世相の影響で「左傾化」。
掲載作品が発禁処分になるなどもあり、4年目、1932(昭和7)に廃刊に至る。
 その後も、時雨は仲間たちと集い、「輝ク」などの新聞を発行する。

ただ、これは文芸誌では無く、戦争翼賛の新聞となった。
以下、年譜を書いて、長谷川時雨・三上於菟吉の話は終わりとする。

1936(昭和11) 三上於菟吉が脳血栓で倒れる
1937(昭和12) 関東軍が志那の占領を始める
1939(昭和14) 時雨60歳ー慰問団を組織、志那や南方の部隊の慰問に訪れる
1941(昭和16) 時雨62歳 発病し、没する
1944(昭和19) 於菟吉53歳 没する



それでは明日またお会いしましょう。

[Rosey] 

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