義和団事件~八カ国連合軍(1900年)左から: 英・米・英領豪・英領印・独・仏・墺洪・伊・日
【義和団事件と孫文蜂起失敗~1900/M33年 30歳】
清国各地で宣教師や基督教徒などの外国人排斥が起きる(義和団事件)。
これに乗じて孫文や滔天らも広東省恵州で武装蜂起する。
しかし途中で中止 調達した武器も届かず、仲介役の滔天も非難された。
また、清王朝が義和団を支え、列強8か国が連合軍を組んで清を攻撃した。
【義和団の強さは?】
日清戦争では脆かった清の強さに連合軍は手を焼いた。
滔天も考え、一つの結論に辿り着く。異民族支配への抵抗ではないか、と。
同胞が分割統治されれば抵抗する・・・列強の植民地統治の難しさでもある。
義和団事件は収束、欧米の各国は植民地の版図拡大の愚も悟る。
・・・というようなことが滔天著「三十三年の夢」には書いてある。
(残念ながら、この作品は青空文庫では読めない。)
【滔天・浪曲師になる~1901/M34年 31歳】
暮れの或る日、「俺は浪花節かたりになる」と言い出して、槌を驚かす。
もちろん、兄の民蔵も槌も必死で思いとどまらせようとした。
「孫さんと一緒に欧米に行き、革命の勉強や宣伝に努めたらいいでしょう」
「そうだ、槌さんのいうとおりだ」 しかし、滔天の決意は揺るがない。
「全国各地を興行して回って、資金の調達も同志集めも歌でやる」
翌日、滔天は槌を連れて寄席に行く。桃中軒雲右衛門の舞台だった。
もちろん、槌は聴くどころではなかったが、滔天は独り悦に入った。
彼は、浪曲を平民芸術と言い、客の彼らに権力への怒りや反抗を見出した。
そして、自分の喉と才能に自信も持ってもいた。
間もなく滔天は、弟子入りを頼みに桃中軒雲右衛門宅を訪れる。
名前もすでに自分で考えていた 桃中軒牛右衛門・・・。
デビュー作も用意した。それが上に掲げた「三十三年の夢」である。
準備万端、ところが師匠の前に出た彼は、自分でも思いがけない事を発見!
続きは明日にして今日はここまで。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]