遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

こんな人がいた~『俳人・金子兜太その2.』

2023年12月26日 | 読書


 今日から岡本太郎の対談集から離れるので タイトルを変更した
 改めて俳人・金子兜太の幼少期からの人生を追いかけてみる
 また 以下の逸話は兜太の著書等から 超々要約記述した

屁糞の話大正末期~昭和初め
 兜太が小学校1~2年の時 秩父の祖父母の家に預けられていた 
 この祖父母が稀代の物臭者 といっても村人にとってはそれが当たり前 
 働いても大して金にならないので 人の褌で食っていこうというワケ

 祖父もその典型でやるのは道楽だけ 祖母も家でごろごろしているだけ
 よくしたもので 近所の連中が麦飯や汁を持って来て振舞ってくれる
 ちゃっかり自分たちも一緒に食っちまうのだけれど・・・

 広い農家だったから夜になると 村のみんなが集まって好き勝手をやる
 そのうち食事が芋だの根菜だから腹にガスがたまる
 そうすると "十ばかり 屁を棄に出る 夜永哉"(小林一茶) 状態になる
 室内では憚られるから 代わる代わる庭に出て屁をこいて戻って来る

 兜太の父元春は開業医 伊惜紅(いせきこう)の号を持つ俳人でもある
 その父が詠んだ句に "元日や 餅で押し出す 去年糞" 
 "去年糞”って造語が面白く 糞尿愛好的環境が兜太の中にもあった

秩父音頭と七五調
 父親が俳句以上に熱心だったのが "秩父音頭"の作り直しと宣伝普及
 盆踊りや豊年踊りをもとに 歌詞を父 踊りを祖父が作り直したという

 秩父音頭

 この秩父音頭の七七七五調のリズムが小学生の淘汰に沁み込んだ
 これが自分にとって大きく ずっと五七五を噛みしめることになった

俺の男根
 秩父では男の生殖器の呼び方は年齢に応じて4つあった
 (女性についても4通りあったらしいが 兜太は控えると書いている)

 男の4つとは "ちんこ"(幼児) "ちんぼう"(少年) ”まら”(青年)
 ここまではどこも似たようなものだろう それでは老年期は秩父で何と?
 ”ぎゅうない”~ぎゅうっと握ったら皴だけでなくなっちゃうから~だという

 それで老齢になった兜太が詠んだ一句 
 "男根は 落ち鮎のごと 垂れにけり" 割りあい評判のいい句だったらしい

 話が垂れたところで今日はお終い 続きは明日に
 それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~『岡本太郎その28「対談集その11 前衛俳人?.』

2023年12月25日 | 読書


 昨晩 1人連想ゲームをした。
 黒川紀章→日本会議→安部→安部政治は許さない→金子兜太→前衛俳人
 これで岡本太郎の対談本の人物に辿り着いた

 金子兜太(金子兜太) 1919(T08)ー 埼玉生・東大経済学部卒・俳人・「海程」主宰
 現代俳句協会名誉会長・句集「少年」「金子兜太句集~以下略」・・・対談集の略歴より
 対談時は存命だったが2018(H30)逝去(享年100歳)
 掲げる文言は 2015年の自衛隊海外派遣などを可能とする安保改定反対運動時に
 作家の澤地久枝の依頼を請けて揮毫した

 岡本太郎との対談のテーマは「現代の前衛とは何か」~1969(S44)年実施
 対談者は金子の他にもう一人 寺山修司がいて鼎談形式だった
 3者の意見が最後まで嚙み合わず 私の理解力では超要約記述が不可能

 もともと前衛(avant-garde)は軍隊用語 対義語は後衛(garde arrière)
 岡本・金子は従軍体験があり、時代背景の差が議論に出ている可能性もある
 彼ら二人には 身体・生命・生物・自然との繋がりがある
 しかし 寺山にはそれがなく理屈先行の感じがする
 金子と寺山の議論は水掛け論 最後は太郎が「仲裁役も面白い」で結論は無し

 理屈っぽい話は切り上げ 金子兜太の人生の一端を動画で紹介


 それは「生きもの感覚」とでもいう言葉なのではないか
 その感覚をもとに兜太は 五七五の俳句に一生を託したように思う
 '自分の中には 前衛の意識は些かも無い'と彼は自分の著書で語っている

 これから対談本を離れ 金子兜太の世界を追いかけてみたい
 長くなりそうなので 今日はここまで
 それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~『岡本太郎その27「対談集その10 黒川紀章#3 The End.』

2023年12月24日 | 物語


 黒川紀章は今日が最終回となる
 黒川の政治活動を調べていたら 彼は"日本会議"※の創立来の会員だった
 え~っ!? 前衛的なメタボリズム建築と超々保守組織・・・何だ それはッ!!
 ※日本会議:設立は1997(H09)年 黒川は設立時以来の会員で代表委員

 ともかくそれで興味を失ったので今日でケリをつける
 2007(H19)年3月 72歳 共生党を創設し党首となる
 同7月 東京都知事選立候補し落選※ 当選は石原慎太郎
 ※得票約16万票(石原は約281万票) 
 政見放送

 ”日本会議”らしからぬ政見だが、この頃脱会していたかどうかは不詳
 選挙に先立つ記者会見での彼の発言から 
 「社会主義国への幻影がある 中国・亡命への亡命も一時期考えていた」 

 選挙に先立ち発表したマニュフェストのポイント(一部のみ)は以下のとおり
 ・オリンピック招致反対 ・教育現場での日の丸、君が代の強制を改める
 ・築地市場の豊洲新市場移転に反対 ・首都機能の一部移転
 
 2007(H19)年7月 参院選に共生党から10人立候補
 自身は東京選挙区から 妻で女優の若尾文子は比例
 これも政見放送があったので埋め込み


 結果は全員が落選した
 同陣営で愛知県から立候補した人が惨敗の理由を語っている
 すべてを鵜呑みには出来ないにしても 理解に苦しむなぁ が私の感想 

 参院選からほぼ2か月後 2007(H19)年10月 黒川紀章逝去(享年73歳)

 冒頭に述べたとおり 黒川紀章は今日で終る
 それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~『岡本太郎その26「対談集その9 黒川紀章#2 ソビエト旅行etc.』

2023年12月23日 | 物語


 今日は太郎との対談では触れられていない黒川紀章と海外の繋がりを紹介

【ソビエトへの旅】
1958(S33)年 黒川24歳 東大大学院建築学科在学中
 全国50大学が参加する日本建築学生会議の初代委員長を務める
 ソビエト共産党から世界建築学生会議に招待され 初の海外旅行へ
 レーニン大学で行われた上記会議の議長として取り仕切る

2000(H12)年 65歳
 42年ぶりにロシアを再訪 学生会議時代の級友や初恋の女性と再会する
 この時のドキュメント映像が NHK BS2~Youtube動画で遺っている
 世界わが心の旅~黒川紀章のソビエト Part1-3 (連続再生されるはず)


【海外の建築】
 黒川紀章は国内の建築だけでなく 外国の建築設計も数多く行っている
 その一部を紹介
   1988(S63) ドイツ ベルリン日独センター

 ■1991(H03) オーストラリア メルボルンセントラル Photo taken by Sho Horiuchi 


 ■1992(H04) フランス ラ・テファンス パシフィック・タワー

 ■1995(H07) シンガポール リパブリック・プラザ by Photographer/Painter: Huaiwei


 ■1998(H10) マレーシア クアラルンプール国際空港(メイン・ターミナル)
 
 
外国の都市計画】
 1998(H18)年のカザフスタン政府主催の首都アスタナ計画の国際コンペで
 黒川紀章の都市計画案が1位に選ばれた 2030年完了予定で建設中
 このほかに中国や台湾の都市計画にも関わった

 アスタナ~Youtubeで表示→字幕アイコンをクリックで日本語(自動翻訳)

 それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

こんな人がいた~『岡本太郎その25 「対談集その8 黒川紀章#1』

2023年12月22日 | 読書



今日の太郎の対談テーマは【拒否する要素を潜ませよ】 1966(S41)対談
対談相手はこの人
黒川紀章(くろかわきしょう)1934(S09)-2007(H19) 建築家・思想家・実業家・政治活動家 

 今日の対談は超要約記述する 小見出し【】は私が勝手につけた
【金を取る鐘】
 黒「大晦日に名古屋へ行って 先生が作られた鐘をついて来ました
  音が出ないのかと思ったら 先生のエネルギーがこもった音でした
  150円とられて…高いですね」
 太「驚いた 金をとるんですか あれは鳴らないでもいいと思って作った
  ところで建築は合理的で実用性とか居住性が必要 でも住まわせないとか
  実用的でないとか そういうことがどこかに潜んでいたほうが面白い
  黒川君くらいの野性味がもっと欲しい 秀才の答案みたいで面白くない」

メタボリズム建築(メタボリズムは生物学t的な言葉で"新陳代謝"のこと)
 黒「僕たちが提案している”メタボリズム”の考えは 不動産の建築物を動産
  として扱う 作ったものは耐用年数が違うものの集合体で永久ではない
  だからユニットで構成し あとは施主自身が仕事や生活の必要に応じて  
  上下左右方向に増築したりする・・・ということをどこまでやれるか」
 太「なるほど」 

 ここで一休み
 黒川設計の"中銀カプセルタワービル"(冒頭写真の背景)・・・1972(S47)年
 カプセルが上記対談でいう”ユニット” その中も紹介される

【岡本太郎の建築デザイン】
 対談本には太郎が唯一設計したビルの写真が載っている

 東京都大森山王町 マミ会館 1968(S43)年・・・現在は取り壊されている

【都市計画論へ】
 このあと対談は都市計画論へと発展する
 大雑把だが メタボリズムの考え方を都市全体の空間へ発展させたもの

農村都市計画:対談本では言及していない
 黒川は"農村都市計画"を1960年に発表している(実現はしていない) 
 簡単に言うなら 農村の田畑の上に拡大可能な居住空間を作る構想
 壮大で面白い発想 以下の3枚の画像で計画のあらましを紹介





 今日はここまで 次回も黒川紀章の続きを予定
 それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]