2021/12/30(木) 晴/曇
今日は、最高気温予想10°、週間最高気温予報も10°前後と寒い日が続く。炬燵に丸まっているだけの生活では体が鈍るので、様子見に御船町まで13時前からポタリングに出る。
目的地は、熊本市の藩政時代にあった相撲町跡を通り、御船町木倉の六地蔵とする。
相撲町跡は、12月23日のリベンジポタである。通町筋の電車通りを横断し、籠町通り(写真1参照)を南に進む。
「この通りは、藩主とその一門の人々を乗て運ぶ御駕籠衆の居住地でしたから、俗に御駕小路とか駕丁と呼ばれていました。 駕丁の東の通りは戦のときに幟を掲げる御昇衆の居住地で昇町、西の通りはお抱え力士の居住地の相撲町と呼ばれ、明治12年に正式の町名となり、明治40年までその町名が続いていました。」この界隈に力士など相撲関係者が多く住むようになったことによりこの名がついた。」(熊本県商店街振興組合連合会ホームページ「くまもと商店街ネット」より)
アーケードに「相撲町通り」の案内板や標柱(写真2・3参照)がある。
相撲町(丁)は、肥後細川三代藩主・細川綱利公が「当時京都に居をかまえていた吉田司家を召し抱え、現在の藤崎八幡宮参道脇に住まわせました。」(熊本県ホームページ「くまもと歴町50選」より)
また、一説に「ここ(相撲丁)に屋敷を構えさせた。やがて細川藩お抱え力士達が居住したといわれる。」とも云う。
銀座通りを横断し右折すると、駐車場隅に小楠堂跡(横井小楠相撲町旧居跡)(写真4参照)がある。
説明文には、「弘化三年(1846)から安政二年(1855)までの横井家の住居跡。兄時明が組頭に任命されたのを機に水道町から移転し小楠も居宅兼教堂を建設したが、弘化四年には家塾を新築して小楠堂と名づけ、二十余名の門下生を寄宿させた。しかし、兄が亡くなって小楠が家督を継ぐに及んで在宅を願い沼山津に転居した。」とある。
「相撲町」を後にして、一路御船町まで走る。「旧日向往還」御船市街地入口辺り左側に、四里木跡之碑(写真5参照)がある。
その先の右側に、門前川眼鏡橋がある。肥後の石橋のなかでは、初期のもので輪石に楔石がある。
更に国道443を横断して先に進むと、右側に木倉六地蔵(写真8・9参照)が鎮座する。
ここで折返し、熊本市萩原町の共同墓地内の六地蔵(写真10・11参照)を拝する。
墓地西側に位置し4体と3体、計7体あるが、エプロンが掛っているのは6体。この6体で六地蔵か。
16時過ぎ帰宅。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)22km→木倉六地蔵22km→熊本(自宅)
所要時間3.5時間(実3時間) 総計44km 走行累計44,820km
今年一年のご訪問ありがとうございました。
拙いブログですが来年も宜しくお願い申し上げます。
どうぞ御身大切に、良いお年をお迎えください。
自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。
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