見出し画像

熊本から気ままに山と自転車のブログ

柳川小路・牛縊坂

柳川小路・牛縊坂
2023/4/17(月) 晴

今日は、最高気温21°所用を兼ねて、午後14時半から京町台までウォーキングに出る。
目的を以前(下記)散策したとき確認できなかった「牛縊坂」と「柳川小路の説明板」の確認とする。

京町台県道303(旧国道3)の「清正まちと街路つくり公園」がある交差点から東方向の柳川小路の入り口に、「牛縊坂」(写真1・2参照)の標柱がある。
坂は、柳川小路から交差点方向に下っている。交差点も県道が北方向に下がっている。
標柱説明文には、「縊とは当て字であり、もともと「くくる」とか「つなぐ」という意味で東西の坂から上がってきて、ここに牛をつないで休憩したであろう。」とある。


前回はバス停標識に柳川小路の名残を見たが、今回は熊本市の説明板(写真3・4参照)を見た。
説明板には、「柳川丁。その昔は柳川小路(しゅうじ)と呼ばれていたが、明治以降柳川町となり、戦後の町名改称で京町本丁と同二丁目に吸収されてしまった。現在市営バス停留所に「京町柳川」の名を残すだけである。
関が原の戦いで、柳川の領主立花宗茂は西軍に味方して所領を没収された。そのとき、加藤清正は宗茂の家臣団を預かってここに住まわせた。立花氏の居城は柳川にあったため、家臣団は柳川衆と呼ばれ、その居住地も柳川小路と名付けられたものである。元和六年(1620)立花宗茂が柳川城主に返り咲き、柳川衆も皆帰藩したが、町名だけはそのまま残って戦後に及んだ。」とある。確認できたので帰途に就く。


総所要時間3(実2.5)時間(ウォーキングの記事は1万歩以上)


宮本武蔵の旧居跡から柳川小路・宇土小路まで
2023/1/29(日) 曇

今日は、出かけた時の最高気温予報8°早朝の気温-1°今日も午後13時から、目的地を宮本武蔵旧居跡から柳川小路・宇土小路までとしてウォーキングに出る。

加藤神社旧鎮座地跡を後にして、北に歩を進め柳川小路、宇土小路の痕跡はないかと散策する。
加藤清正は、関ヶ原の戦いでは肥後にあって西軍の柳川藩の立花氏と宇土藩の小西氏を攻め落し、その家臣団を熊本城の京町に住まわせた。それが柳川小路、宇土小路である。
尚、立花宗茂とは和睦交渉により開城させているようである。立花宗茂は関ヶ原の戦いで改易後、大名に復帰した唯一の武将である。清正はその復帰にも尽力したようである。
町名表示は京町二丁目となっており、名残は街路だけのようである。辛うじてバス停名称に「京町柳川」(写真6・7参照)の文字が残る。
頼りは、「清正まちと街路つくり」のこの地図のみである。ここを最後として帰途に就く。


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

コメント一覧

asotakadakedake1592
Re:FUSAさんへ コメント有難うございます。
そうですか。歴史ある呼称が消えていくのは寂しいですね。
「清正まちと街路つくり」の地図あるように、町と丁は明確に分けられていたのですね。自転車くま
FUSA
明治16年生まれの私の祖母はこの辺りが京町2丁目になってからもずっと「柳川町」と呼んでいました。

牛縊坂と旧3号線が交差するある辺りがかつてクランク状になっていましたが、明治初期に京町遊郭があった頃、この牛縊坂が妓楼などの建設が許可される限界線だったようです。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「加藤清正遺跡等探訪記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事