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熊本から気ままに山と自転車のブログ

木葉宇都宮神社

木葉宇都宮神社
2021/2/24(水) 晴

今日の最高気温は17°今日も晴天の暖かい日になった。週末は雨模様のようなので、13時からではあるが玉東町指定天然記念物の木葉宇都宮神社の楠木と稲佐熊野座神社の大梛を目的としてポタリングに出る。

往路は県道31から国道208を走って、玉東町木葉小学校の横の参道を通り宇都宮神社を訪れる。鳥居扁額(写真1参照)は、宇都宮大明神とある。


町指定天然記念物の楠木(写真2参照)は、参道石段左側にある。


楠木根元に、熊本県の「ふるさとの樹木」の説明板(写真3参照)がある。


拝殿(写真4参照)を見る。お百度参りをしている方がいらっしゃった。


由緒書(写真5参照)を読む。
「古い伝えによると養老七年(西暦723年)十月十九日藤原氏の氏神であり、祖神である大和国(奈良)春日神社の祭神天児屋根命と建御賀豆智命とを勧請(分霊をお招き)して、木葉に春日大明神宮が創建された。
源頼朝は平家方の勢力を九州から一掃して元暦元年(西暦1184年)三月に九州を己の領地とし同年十一月にそれを御家人等(頼朝の武将)に分け治めさせた。
頼朝の命に依り藤原氏の血統をひく宇都宮信房は下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)から九州に下り豊前国(福岡県東部)を治めることとなった。この頃からわが木葉も宇都宮氏の支配するところとなる。そして春日大明神宮は宇都宮一族から氏神、祖神として崇められた。
信房から数えて五代の頼房の第五子は隆房である。正平十四年(西暦1359年)八月菊池武光等と共に隆房は征西将軍懐良親王を奉じて筑後大原に小弐頼尚の軍を攻めて功をたてたが同年八月十五日武運つたなく討死した。時に三十一歳懐良親王は隆房の勲功を称え、その戦死をいたんで同年十二月十五日宇都宮大明神の号を賜りかねて隆房が尊崇していた木葉の春日大明神宮内に祀られた。
信房から数えて十六代の宇都宮静房及び、その子朝房は豊臣秀吉の命に逆らった。秀吉は黒田長政、加藤清正に宇都宮父子を討つことを命じた。長政は中津城(大分県中津市)にて静房を殺す。時に天正十七年(西暦1589年)四月二十二日黒田長政の父孝高と共に肥後検地に出かけた朝房は翌二十三日加藤清正に討たれた。朝房の亡霊の祟りなやまされた清正は慶長元年(西暦1596年)八月木葉の宇都宮神社内に朝房の霊を祀った。・・・」とある。


宇都宮神社を後にして、稲佐熊野座神社・稲佐廃寺跡に移動する。


木葉宇都宮神社
2015/1/18(日) 晴

西安寺を後にして玉東町木葉地区を目指す。
TV「黒田官兵衛」に出てきた宇都宮鎮房と関連がある宇都宮神社があることを思い出したので再確認のため立ち寄った。

早速神社由緒書(2021.2.24の項-写真5参照)を読む。
ここ木葉も中世鎌倉幕府が下野国宇都宮から豊前に派遣した宇都宮信房一族が治める所となり、木葉春日大明神宮を氏神、祖神として崇めていた。
信房から数えて五代目頼房の第五子隆房が小弐頼尚と戦って戦死した。
隆房の死を悼んだ懐良親王から大明神の称号を賜り、ここの宮内に祀ったころから宇都宮神社と言うようになった。
その後、加藤清正が鎮房の子朝房を合祀したとある。
ここでも古代貴族藤原氏から武家支配への変遷の歴史が見える。


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

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