あすか塾 2021年(令和3)年度 3
【野木メソッドによる鑑賞・批評の基準】
◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、心情内容は深い俳句。(意志・悟性の力)
◎ 鑑賞・批評の方法
鑑賞する句の「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」に注目して。
※ ※ ※
1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」10月)
◎ 野木桃花主宰句(「涼新た」より・「あすか」2021年9月号)
黙禱を捧げ始まる夏季講座
高層の窓の沈黙灼けてをり
ほろ苦きコーヒー猛暑の五輪かな
炎天下影まで消えてしまひけり
存分に伸びる名木影涼し
まつすぐに海を目指して秋燕
【鑑賞例】
一句目、戦後の日本の夏は戦没者への祈りの季節であることが定着してきました。自分が担当する夏季講座で生徒たちと黙禱をしつつ、全国的に同じことをしているのだろうなという思いが詠まれているのでしょう。二句目、夏のビル群の壁面の焦げるような暑さの描写ですが、背景にコロナ禍によって都会の職場のおかれている厳しさが感じられます。三句目、感染症拡大下での五輪開催、さまざまな意見で民意が分断され、主催側の問題も噴出したりした「苦い苦い」五輪でした。四句目、灼熱で大気がゆらゆら揺らぎ、影までゆらぎ消えるような猛暑の表現ですね。五句目、光を浴びて伸びる名木の清々しさが「影涼し」と短く鮮やかに表現されていますね。六句目、秋燕、つまり帰燕は仲秋の季語になっています。春に渡って来た燕は夏の間に雛をかえし、秋に南方へ帰ってゆきます。その知識があるので詠める句ですね。海に近い横浜市の辺りでは普通に目にする光景でしょうか。
〇 武良竜彦の七月詠
七月の川に少年を置いて来る
除草剤この過剰なる夏の果て
【自解】(参考)
一句目、現実に少年を川に置き去りにしたのではなく、もう自分は少年のように無邪気に川遊びをすることはないな、という老境の比喩的境涯句です。二句目、丹念に草むしりなどをせず、機械や薬に頼ってしまう現代、猛暑も含めて、なにもかもが過剰であるように感じます。
2「あすか塾」33 2021年10月
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」9月号作品から
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。
思い出を拾ふ貝殻夕薄暑 奥村安代
「思い出を拾ふ」という心情抽象表現を「貝殻」という具象で受けるという文学的な表現に詩情がありますね。こういう表現が力まずにできるようになると表現のステージが一段あがりますね。
枇杷たわわ海夕焼に鎮もりぬ 加藤 健
近景に枇杷、遠景に夕焼の海。場面構成が巧みで鮮やかですね。そのどちらかに作者の心情が込められていることを読者は受け止めます。
十薬の雨に触れつつ九十九折 金井玲子
「つづらおり」は坂道が180度に近い角度で曲り延々と続く様を表したことばで、この句のように「九十九折」と書いたり「葛折」とも書きます。これは葛籠の元々の原料であるツヅラフジの蔓が曲がりくねっていることにたとえたもの。類義語に「七曲り」「羊腸」などがあります。「羊腸」は腸管の曲がりくねった様子から来た言葉で、鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲の『箱根八里』の歌詞2番に「羊腸小径」という歌詞がありますね。熊野古道の一つであるツヅラ峠越えの古道、日光の「いろは坂」などが有名ですね。鞍馬の九十九坂には与謝野晶子の歌があります。この句はどの坂でしょうか。その道際の十薬が雨に濡れている様を詠んだだけですが旅情豊ですね。「濡れつつ」ではなく、「触れつつ」としたのが効果的ですね。
日時計の南南西を蟻の列 坂本美千子
日時計の原理は太陽が真南に来て、影が真北に伸びているところを「正午」にする仕組みで時を計るものですね。この句では「南南西」が影の位置のことかどうかは解りませんが、雰囲気としては真昼の、太陽が真南に近い時間に、働いている蟻の姿を詠んでいるような感じです。白昼の労働を労わっているような眼差しを感じますね。
暗号を受信中なり蝸牛 鴫原さき子
蝸牛の角をアンテナと見立てて電波を受信しているようだという表現だったら、類型的かも知れませんが、この句はもう一歩踏み込んで「暗号を受信中」と表現しました。それで何もかもが暗号化されていっている現代世相を、見事に捉えた句になっていますね。
荒梅雨の傷跡覆ふ荒筵 白石文男
「あすかの会」句会で高得点だった句です。二つの「荒」で土砂崩れなどに災害痕の痛ましさが表現されていますね。
子雀の巣翔ち見てゐる屋根鴉 摂待信子
親心のように温かい眼差しなのか、獲物として虎視眈々と狙っているのか、読者の心の有り様で解釈が二通りに分れるでしょう。作者はその二つの思いのあいだで揺れる心を詠んだのでは。
亡き父を正客として鮎料理 高橋みどり
「正客」は客の中でいちばん主な客、主賓、茶会における最上位の客のことですね。改まった心で亡父の霊を主賓として、遺された家族が鮎料理の席に着いているという景ですね。この心のおもてなしは、深い追悼、追憶の心によってなされることですね。
一雨に葉の先伸びる茄子かな 服部一燈子
植物の成長は一雨ごとに進展する速さといいますが、それを「葉の先伸びる」と一点をクローズアップして可視化表現したのが効果的ですね。
川ほそる所にとうすみとんぼかな 本多やすな
「とうすみとんぼ」という美しい和語で詠んだのが効果的ですね。それと上流の方角と場所を「川ほそる所」とし、ひらがなで共鳴させています。漢字では「灯心蜻蛉」でイトトンボの別名ですね。
「灯心・灯芯」は行灯 (あんどん) ・ランプなどの芯のことで、細さの表現ですね。
海を向く背に夏の日の影重し 丸笠芙美子
下五が「影の濃し」だったら予定調和の普通の景の表現ですが、この句は「影重し」と結んでいてインパクトがありますね。何かの屈託を抱いた人の背の哀愁が感じられます。
捨て猫の目の奥素直ソーダ―水 三須民恵
「捨て猫」ですから不遇の存在ですが、作者はその目の奥の邪気のなさに心が揺さぶられているようですね。下五が「ソーダ水」なので、どこか「泡立つ」思いも暗示されています。
筆りんどう隠れ心地の草のなか 宮坂市子
フデリンドウは紫色の花を茎の上部に一~十数個、上向きにつけます。花は日が当っている時だけ開き、曇天や雨天では筆先の形をした蕾状態になって閉じています。だからこの句は曇天雨天の草叢に、隠れるように筆状になっている状態を詠んだ句でしょう。「隠れ心地」とした表現が効果的ですね。部屋に籠って俳句の筆をとっている自分の姿の投影のようにも感じますね。
初生りのほてりし茄子を供へけり 柳沢初子
中七の「ほてりし茄子」の措辞が効果的で、初物の特別感が巧みに表現されていますね。
蝉しきり廃止とありしバス路線 矢野忠男
にぎやかで、時にはうるさいと感じる蝉しぐれも、廃線のバス停の景と共に表現されると哀愁が漂いますね。
いたどりやダム放流の宣伝カー 山尾かづひろ
和名イタドリの語源は、傷薬として若葉を揉んでつけると血が止まって痛みを和らげるのに役立つことから、「痛み取り」が転訛して名付けられたといいます。そんな背景を持つことばを上五に置いて、増水による緊急放流を告げるダムの宣伝カーの、緊張感のある表現が効果的ですね。
逃走のいのちに重さごきかぶり 渡辺秀雄
ゴキブリにはあまり質量感がなく薄い体をしていますね。しかしこの句は、その必死に逃げ惑う姿に、わたしたち人間と同等の「いのちの重さ」を感じている表現ですね。
指太きオカリナ奏者夏の杜 磯部のり子
オカリナのどこか懐かしいような響きを持つ演奏に聴き入りつつ、演奏者の指を目に止めて、音からは想像できない意外に太さに、ある感慨をもよおしている句ですね。ピアノのなどもそうですが、熟練者ほど、その練習量に比例して逞しい筋力の指をしている人が多いですね。その発見ですね。
点滴や鯖雲我が家の方へ行く 伊藤ユキ子
作者はベッドで点滴治療を受けているようです。時間がかかりますね。窓の外に鯖雲がゆっくり流れているのが見えているのでしょう。「我が家の方へ」という言葉に一言では言えない思いが込められていますね。ゆっくりしか動かない雲の流れを感じ取っている繊細な表現ですね。
噴水の一日をたたむ夕間暮れ 稲葉晶子
「一日をたたむ」という表現が独特で効果的ですね。止まった、という言葉と比較すると、その詩情の違いが判りますね。
消しゴムの減りの早さよ梅雨明けぬ 大木典子
手書きの鉛筆でものを書いている場面が浮かびますね。俳句手帳でしょうか。なんども推敲を重ねているのだということも伝わりますね。梅雨のことを苦心して表現しようと推敲している間に、梅雨が明けてしまった……というような感慨も感じられますね。
古利根の水嵩増えて桜桃忌 大澤游子
太宰治が入水したのは玉川上水(東京都三鷹市近)ですね。「古利根」は利根川から分流する埼玉県東部の中川の上流のことをいいます。場所は離れていますが、「桜桃忌」は川の水量が増える夏の季語ですから、距離を越えた通じ合う思いを詠んだ句ですね。
纏ひ付くやうな闇なり蛍縫ふ 大本 尚
闇というのは暗さという状態のことですから、質量感をともなう実体的なものではないですね。それを「纏い付くやうな」と質量感の表現にして、同時に蛍が飛ぶ、舞うとは言わず「縫う」としたのが効果的ですね。
〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」九月号から)
籠るとふ革命もあり巴里祭 村田ひとみ
籠城戦にもなった巴里革命記念でもある「巴里祭」の「籠る」イメージを、コロナ禍での「籠り」を背景にして詠んだのが、独特で効果的ですね。
捨寺に鎮座の仏梅雨の月 石坂晴夫
管理するものがいなくなった廃屋のような寺でしょうか。仏像もそのまま放置されている様に、複雑な思いを抱いた句ですね。下五の季語が効いていますね。
※ 晴夫さんのご冥福をお祈りいたします。この投句が最後となられました。
手も足も艶めき揃ふ阿波踊 稲塚のりを
ただ所作が揃っている美しさだけでなく、そこに「艶」のある美を感じ取っている句ですね。見ている景をワンステージ上げているような効果がありますね。
黄菖蒲や湯気流れくる無双窓 近藤悦子
「無双窓」は竪板を連子(れんじ=一定の間隔を置いて取り付けたもの)にして、外側を固定して左右に移動可能とした窓のことですね。そこからの湯気ですから台所か風呂場の外に黄菖蒲が咲いている景でしょうか。湯気にけむる花の色が見えます。
晩節に免状用なし蝸牛 須貝一青
ものごとに取り扱い説明書とか、免許とか資格とかが必要な、なにかと生きるのが面倒な世の中にあって、作者は自分の老境をまっすぐ見つめて、これからは「免状」なんて要らないよ、と自分の歩を進める蝸牛のように生きる覚悟を噛みしめているようです。
⑵ 同人句「あすか集」(九月号作品から)
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
その観点から選出した句です。同じように合評してみましょう。
青芒原抜けてゆく子は反抗期 砂川ハルエ
思春期の反抗的な態度は成長の証と見守っている眼差しの句ですね。その成長の姿を上五中七で象徴的に詠んで効果的ですね。
烏瓜好き放題にさせる庭 立澤 楓
荒れ放題と言えば、無精さを思わせますが、生命力溢れる烏瓜の「好き放題にさせ」ていると、視点をがらりと変えた表現が効果的ですね。
不器用な私するりとところてん 千田アヤメ
まるで作者が全身、ところてんになって滑っていっているようなユーモラスで爽快感のある句ですね。上五の前置きの「不器用な」が効いていますね。
リモートの孫にもメロン切り分ける 西島しず子
普段なら出勤していて、家にいるものだけのお八つの時間を、孫と共有できている、ささやかな歓びを感じる句ですね。重苦しくなりがちなコロナ禍の背景を明るく詠みました。メロンにしたのがいいですね。
夏めくや昔豆腐は水の中 丹羽口憲夫
昭和的な落ち着いた暮らしぶりと感性までが表現されていますね。大きな水槽の中に泳いでいるような豆腐の姿と、店の雰囲気まで感じます。
翁媼のカップルつなぎ風渡る 沼倉新二
カップル、とカタカナ語でモダンに言い表して、逆に二人の間に流れた時間の暖かな重層性の表現に成功している句ですね。
海霧の空へとつなぐ汽笛かな 浜野 杏
「つなぐ」がいい表現ですね。響く、鳴るに置き換えてみると、その縦に広がる空間性の違いがよくわかります。
雲の峰水平線に見る地球 浜野 杏
高く盛り上がる入道雲のてっぺんの高度、その視界を引き寄せたダイナミックな表現が効果的ですね。地球の丸さを感じる水平線が視界に入るには、ある程度の高度が必要ですね。
花樗太子も駆けし奈良古道 林 和子
太子といったら聖徳太子のことですね。しかもその発育盛りの少年時代の、賢そうな太子像を幻視している句ですね。初夏、淡い紫色をした小花が穂状になり咲く栴檀の古称「花樗」も効いていて、奈良古道が鮮やかに輝きます。
富士山にぶつかり割れる雲の峰 増田 伸
瞬時のことではなく、天空の気象のゆっくりとしたダイナミックな動きの表現ですね。それを見届けている作者が過ごした充実した気分の時間を読者も共有します。
向日葵の顔になれないまあいいか 松永弘子
下五を口語表現の「まあいいか」がユーモラスで、微かな諦念を感じました。「私はひまわりみたいな笑顔にはなれないよ」という作者の呟きと読むのが普通ですが、ひまわり自身の悩みと解しても面白いですね。
沖縄忌白き朝顔一つ咲く 緑川みどり
本土から差別的な扱いを受けてきた、その集合体としての沖縄の人びとの思い、それを「白き朝顔一つ咲く」と象徴的に表現し、しっかり思いを寄せた句ですね。
炎帝や敷かれしレール五輪へと 望月都子
レールという言葉が、動き出したら止められないことの象徴のように詠まれているのが効果的ですね。上五の炎帝も効いていますね。
かなかなや厨に妣の声のごと 吉野糸子
「ごと」で切って、「今も妣の声が響いているかのようだ」という思いが、凝縮的に表現されて、余韻を生んでいる句ですね。
山彦や大つり橋のハンモック 安蔵けい子
大つり橋を「山彦」の「ハンモック」だと見立てた、爽快でダイナミックな表現ですね。
別行動土産は同じ水羊羹 飯塚昭子
やはり夏ですからねーというみんなの声が聞こえるような句ですね。
蓮池やのぞけば弥生人の影 内城邦彦
水面に映った自分の顔に「弥生人」を感じたのか、蓮を栽培した弥生人を幻視したのか、いずれにしろ「蓮池」の雰囲気に相応しい表現ですね。
梅漬くる無駄なる時間何もなし 風見照夫
家庭味噌や家庭梅干しを作るのは、趣味などではなく、かつては季節毎におこなった、暮らしの時間の中の行為だったのですね。そこには無駄とは無縁の時間が流れていますね。
じやが芋の花野末まで一直線 金井きよ
「野末まで一直線」で清々しい空間の広がりを感じる句ですね。畝を作って栽培する作物は、確かに一直線を形成します。その視点がいいですね。
選別の叔母の手捌き枇杷熟れて 城戸妙子
叔母という血縁者の熟達の手捌きをクローズアップした表現で、そこに一つの感慨を抱いている句になりました。叔母が故人となっても、きっと、記憶の中で生き続けることでしょう。
朝顔の蔓を手繰りて種袋 佐々木千恵子
種袋は仲春の季語で春蒔きの種の入った袋のことですが、この句では違うようです。上五の「朝顔」という初秋の季語を主たる季語とした句ですから、この種袋は球形の袋状に種をつけている朝顔の種のことを言っているようです。それを手繰り寄せているという句でしょう。「蔓を手繰りて」の中七が効いていている句ですね。
※ ※ ※
1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」9 月)
◎ 野木桃花主宰句(「蔵の街」より・「あすか」2021年8月号)
メビウスの輪となる蜷の跡たどる
移ろひの世をすり抜けて夏燕
つりしのぶ日々を自在の暮し向き
涼し気な濡れ縁に坐し父母のこと
涼しげな沓脱ぎ石や留守の家
【鑑賞例】
一句目、「メビウスの輪」は、帯状の長方形の片方の端を一八〇度ひねり、他方の端に貼り合わせた形のもので「メービウスの帯」ともいいます。発見したドイツの数学者アウグスト・フェルディナント・メビウスの名に由来する言葉です。普通の輪状の帯なら裏と表面は明確に分かれていますが、「メビウスの輪」では、片面を指で辿っていくと、裏だった筈の所が表になりまた裏になって繋がりあってしまいます。掲句は「蜷」が這った軌跡にそのような果てしなさを感じている句ですね。二句目は「燕」の迷いのない切れのある飛翔の姿から逆に、この移ろいやすい世相に思いを巡らせた句ですね。三句目、「釣忍」は軒下に吊られているだけなのに、風にそよぐその姿にゆとりある自由さを感じますね。細かいことに拘らないで日々を、ゆとりを持って生きようという思いが投影された句ですね。四句目と五句目は「涼し気」「涼しげ」の句で、「涼し気」の方は作者自身の心の、回想している父母の姿への投影表現ですね。「涼しげ」の句は、訪ねた家が留守で、帰ろうとして泳がせた視線がふと捉えた景の表現ですね。「沓脱ぎ石」は縁側などの前に置いて、履物をそこで脱いだり踏み台にしたりする石のことですね。 縁側がある和風の旧家で、それが丸見えなっている。そのおおらかさとしっとりとした暮らしぶりに心を動かされている句ですね。
〇 武良竜彦の六月詠
ウイルスの波状攻撃はたた神
六月の俘囚に絵具差し入れて
水無月や賢治の貝の火も消えて
【自解】(参考)
一句目、新型コロナ・ウイルスの感染状況のグラフは波型になって、時間の経過とともに、その波の山がどんどん高くなっていくのが不気味です。それを「波状攻撃」と表現し、それを激しい雷である夏の季語の「霹靂神(はたたがみ)」と取り合せました。二句目の俘囚は例えば第二次世界大戦時のような現実の「俘囚」ではなく、私たちの閉塞感という心の捉われ状態の比喩として表現しました。「絵具差し入れて」は、夏の空でも描いて、そこからの脱出を勧める表現にしました。三句目は宮沢賢治の「貝の火」という童話の主題を借用した表現です。「悪」と知りつつ、それを止められず自分も染まってしまう結末を描いた童話です。今の世相への批判を暗に込めたつもりです。
2「あすか塾」32 2021年9月
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」8月号作品から
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。 ※印は「あすかの会」参加会員
何もせぬという手もあり余花の雨 ※ 大本 尚
「余花の雨」は山の高いところなどで、夏になっても咲き残っている桜花をぬらす雨で、風情のある美しいことばですね。「何もせぬという手もあり」という表現は、文字通り「何もできないで手持無沙汰になっている」という意味と、こんな季節には「何もしないで、ゆったりと過ごすのもいいな」と思っている心の状態の意味にも解せますね。
ひと呼吸して薔薇の香の角曲がる ※ 奥村安代
初夏らしい場面と作者の心持ちが、この一句に凝縮されているような無駄のない見事な表現ですね。
深呼吸、薔薇の香、町角、作者のいつも通う道の、季節の変化に伴う空気感。作者が季節感を肌で感じながら、地に足をつけた丁寧な生き方をしている人であることも伝わりますね。
新緑の時ゆるやかに切通し 加藤 健
新緑の切通しという場面の切り取り。「時ゆるやかに」という心情を投影した言葉を挟んで、初夏の空気感が表現されていますね。
鎮魂の淵に迷える花筏 ※ 金井玲子
上五の「鎮魂の淵」は大胆な象徴的な抽象表現ですね。現実は流れの淵に少し淀んでいる状態の「花筏」ですが、作者の内面の「迷い」の表現になっていますね。最近増えている災害などの犠牲者や、作者の身近な人を喪った「鎮魂」の思いが籠められているのでしょう。
言ひ訳を手で制したる鉄線花 坂本美千子
「制したる」で切れている表現だと解すると、「鉄線花」は独立した季語表現ということになりますね。「制したる鉄線花」と修飾的に花にかかっていると解すると、掌をいっぱいに広げているような花の形状を借りた、心象表現ということになりますね。自分の言い訳がそんな鉄線花か他の人に制止されたのか、自分が誰かのそれを制止したのか。その比喩的心象表現が効いていますね。
引き算のように人逝く夏椿 ※ 鴫原さき子
はっとするような独自の視点の句ですね。報道で感染症の増加という足し算を見慣れていて、実はその数字は重症者数、死者数というこの世から「引き算」のように「逝く」人の数であると言う事実に向き合わされる表現ですね。
鉈彫の口もと涼し微笑仏 ※ 白石文男
文男さんの鮮やかな具象表現とその的確さにはいつも感心します。粗削りの、作者の呼吸まで感じるような鉈遣いの素朴な円空仏のことでしょうか。それを「口もと涼し」とズームアップで表現する、同じように鮮やかな「鉈使い」のような言葉づかいの表現ですね。
筍に小糠を添へて宅急便 摂待信子
宅配便が届いた。故郷からの初夏の贈りものでしょうか。煮て灰汁をとるための小糠まで同封されている心遣い。父母からのものだったら、しみじみと。知人友人からのものだったら、その心遣いに感じ入っている句ですね。あるいは作者がそんな心といっしょに誰かに送っているのかもしれません。
思ひ出すことも供養か鳳仙花 高橋みどり
大切な人を亡くす喪失感の伴う体験や、それに伴って生じる諸事の多忙な日々を過ぎて、しみじみとその喪失の思いを噛みしめているという時間経過も感じる句ですね。供養は物品でするものだけではなく、その人に纏わることを思い出すという心の行為こそが供養になるのだと、そう思うことができるようになった自分を見つめ直している表現ですね。
震災の使えぬ堆肥梅実る 服部一燈子
折角つくっておいた堆肥が使えなくなってしまった。読者には津波の塩害や、原発事故の放射能汚染など、さまざまな被害を想像させる句ですね。でも作者の表現の主眼はそのことだけでなく、下五の「梅実る」という季語に投影した、明日への希望を繋ぐ思いの方ではないでしょうか。
水槽の目高ふえてる町役場 本多やすな
下五の「町役場」が効いていている表現ですね。目高は絶滅危惧種に指定されています。それを町中の人が大切に守ろうとしていることが、この一言で伝わります。
揚羽蝶湖の碧さを連れてゆく 丸笠芙美子
芙美子さんの象徴詩的な具象表現も、毎月、冴えていますね。くっきりと眼に浮かぶような具象表現ですが、作者の心を投影した心象表現であり、読者の心にも鮮やかに刻まれる表現ですね。
夏木蔭一人帰れば一人来る 三須民恵
夏木陰のキャパシティが小さくて、一人分しかない様をユーモラスに詠んだ句とも解せますね。それだけではなく、作者がその人たちを相手に楽しく会話を交わし合っている雰囲気も伝わる表現ですね。
日の匂ふ毛布小鳥のごと寝落つ ※ 宮坂市子
市子さんの季節感と風土を噛みしめるようにして生きていることを表現する句も、円熟の域に達してきたようですね。掲句は、その日の日中、快晴で干した毛布が遠赤外線をたっぷり蓄えたことが解ります。それを「小鳥のごと寝落つ」と、野生の感覚に引き付けて、その毛布にくるまれて眠ることの至福感を見事に表現してありますね。
日にゆるる影まろやかに八重椿 柳沢初子
「まろやか」という言葉は、形が「円い」という形容表現から派生して、口あたりが柔らかいさまというような、味覚表現に転用されてきた言葉ですね。視覚的な色合いなどにも転用するようになりました。この句はさらに深化させて「影」の色合いではなく、その「影」が日差しの中で揺れているさまが「まろやかに」と表現しました。この「まろやかに」がこの句の命ですね。
かきつばた句友句仇無き静寂 矢野忠男
「かきつばた (杜若)」は古来より日本にある植物で、江戸時代前半から観賞用に多くの品種が改良された古典園芸植物。開花時期は夏の気配がしてくる初夏。まさに「夏が来れば思い出す」という花であり、また深い友愛のような紫色ですね。懐かしい友もみんな幽界に旅立って久しい。身辺の静寂にひときわ寂寥感が募ります。
廃山とてをんな神輿にひとだかり 山尾かづひろ
日本の主たるエネルギーが石炭から石油に替わっていった時代、全国の炭鉱が廃業になりました。「廃山」とはそのことを指すのでしょう。そこで働いていた人たちは転職して炭鉱町を出て行き、町はすっかり寂れました。「をんな神輿」というのは町の人口が減って祭の「神輿」の担ぎ手がなくなり、残った女性がその役を担ったのです。「ひとだかり」は残った町びとたちの心からの応援の姿ですね。
勤勉の姿かたちに植田かな 渡辺秀雄
米農家の仕事は怠惰な人には勤まりません。そのことへの尊敬のまなざしが「勤勉の姿かたち」という表現によく表れていますね。何枚もの田に整然と植えられた稲苗の姿が目に浮かびます。下五が「田植えかな」ではなく「植田かな」となっているのも、単に田植え姿のことを指しているのではなく、その仕事にいそしむ人への、全的な尊敬の念の表現だからですね。
二畝はじやがいももつそり芽吹くなり 磯部のり子
専業農家ではなく、多種の野菜を栽培している家庭菜園でしょうか。その中の二畝だけに「じやがいも」が植えられているのでしょう。いっせいに芽吹いて、そこだけ緑色に盛り上がっている姿が目に浮かびます。「もつそり」という音韻的な表現が効果的ですね。
ねむた木の花やカヌーは滑り漕ぐ 伊藤ユキ子
合歓木の方言的な呼称で「ねむた木」という言葉を上五に置いて、味わい深いですね。その向こうに見えるやや川幅のある水面をカヌーが滑るように過っていく光景です。まるで扇型の合歓木の花が、その樹上に揺らいで、声援を送っているかのようです。
ぴかぴかの銀輪確と春を漕ぐ 稲葉晶子
自転車の車輪を漢音の「銀輪」と表現しているのが、金属のぴかぴかした光に相応しいですね。下五は普通「漕ぎゆけり」というふうにしてしまいがちですが、季節を鷲掴みにするかのように「春を漕ぐ」としたのも効果的ですね。そんなふうに鑑賞すると、これは自転車ではなく車椅子マラソンなどの競技用の練習風景にも感じられてきます。
竹皮を脱ぐ昭和の男皿洗ふ ※ 大木典子
典子さんは最近、体調を悪くされて、家事を夫である尚さんがカバーされているそうです。その姿を「昭和の男皿洗ふ」と少しユーモラスに、温かい眼差しで表現されています。上五の「竹皮を脱ぐ」という季語が、家事を習得して今までとは違う自分に脱皮しようとしている男性の姿に見えてきます。
筍の十二単衣を解く厨 大澤游子
筍の重なりあっている皮を剥いているだけの景ですが、その皮を「十二単衣」に喩えた表現ですね。普通、その比喩だけで句を詠んでしまいがちですが、「解く」と短く表現して解放感やテキパキとした捌きぶりまで目に浮かぶ表現にしたのが効果的ですね。最後を「厨」という場所にしたのも効果的ですね。
⑵「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」八月号)
風涼し柱状節理の岩に向き 村田ひとみ
下五を「岩の元」とか「岩聳え」というように、場面の説明にしないで「岩に向き」と自分の眼差しの表現にしたのが効果的ですね。人の眼差しと体温をそこに感じますから、上五の「風涼し」がより実感として迫ってきます。涼やかな景に包まれているような感覚になる句ですね。
バードデー雀起きよと窓叩く 石坂晴夫
窓を叩いているのは作者ではなく、擬人化した雀でしょう。人間が窓を叩いて、眠りこけている雀を起こしているという状態は考えにくいですね。そのことが解ると、この句の面白さをより深く味わうことができます。「バードデー」というのは人間が勝手に作った記念日ですから、鳥たちは知らないことです。よりもよってその「バードデー」に、雀に起こされたよ、と微笑んでいる句ですね。
※石坂さんはご闘病中でしたが、この九月に逝去されました。残念です。謹んでお悔み申し上げます。
その奥にをみなの影や青すだれ 稲塚のりを
美しい日本画のような景の句ですね。筆頭に「その」が日本的な暮らし全般を総括しているような効果があります。淡い色調の「青すだれ」の向こうに人影が……。それを古風に「をみな」と表現したのも効果的ですね。日本女性の凛とした美しさまで表現されています。もしかしたら亡き御母堂の幻影なのかも知れない、と深読みしたくなる句です。
大屋根や孤独まとひし朴の花 近藤悦子
「大屋根」と「朴の花」、一見、なんの関連も無く意味的には結びつかないような二語が取合された句ですね。でも俳句的に中七で「孤独まとひし」と表現されると、屋根の下の家の中がどんなに賑わっていても、ただ空に向かって広がっている大屋根はどこか寂し気であり、朴の葉と花の、幹や枝とは釣り合わない大きさも寂し気だと一点で心の中で繋がります。俳句の妙ですね。
はつ夏や旧街道にしるべ立つ 須貝一青
上五の初夏をひらがなで「はつ夏」として、道路標識もひらがなで「しるべ」と表現して、懐かしい想いを高める効果をあげていますね。旧街道に残る標識は目立たないものが多いですね。徒歩の速さでないと目に留まらないような標識です。昔の旅は徒歩でした。そのことも感じさせる句ですね。初夏の、どこかへ旅をしてみたくなる気持ちも表現できていますね。
⑶ 同人句「あすか集」八月号作品から
沈黙のワクチン会場薄暑かな 高橋光友
※会場の緊張感も伝わる表現ですね。
茄子咲くや多産の母のこと憶ふ 滝浦幹一
※懐かしさを感じる紫色の、ふっくらとした肉付きの茄子のかたちに響き合う表現ですね。
狭庭にはひしめき合って夏野菜 立澤 楓
※「我が庭」といわず「狭庭」と短く言い切って、そこに多種の夏野菜を植え、その芽吹きを期待している作者の気持ちが伝わります。
香を内にずしりと重きメロンかな 葛籠貫正子
※メロンの質量感を、香りを閉じ込めている表現にしたのが斬新ですね。
夏蝶の戯れ合ふは通学路 坪井久美子
※蝶はただ二羽がひらひら舞っているだけですね。そこが通学路であることも、自分たちが戯れているように見えているとも知りません。作者がそう表現したことで、そこを通る子供たちの生き生きとした姿が浮かび上がるという俳句の力ですね。
走り過ぎる少年の手にカーネーション 西島しず子
※あっという間のできごとだったでしょう。見逃してしまうような景ですね。その場面を捉えて句にした作者の心が、いい光景を見た、と輝いたであろうことを、読者も感じる句ですね。もちろん少年は母のために購って帰路を急いでいるのですね。
天道虫背ナのメダルの重々し 沼倉新二
※まだ今年のオリンピック開催がどうなるか解らない時期に詠まれている句ですね。その戸惑い感を天道虫の星模様に託して表現しましたね。
わつさわつさ風と遊びし栗の花 乗松トシ子
※房状に咲く栗の花の質量感を「わつさわつさ」という音韻で見事に捉えた句ですね、「遊びし」も効果的で、もう散って地面に落ちているのでしょう。回想の句なのですね。
夏燕駅構内を物色中 浜野 杏
※燕の懸命の巣造りの姿に温かい眼差しを投げている句ですね。人が絶えず往来する場所の方が、天敵に襲われず安全であることを、燕たちは知っているのですね。
子供の日ワクチン予約の電話前 林 和子
※ワクチンの予約をしようとしているのが「子供の日」という表現が効果的ですね。気遣っている家族の眼差しを感じる表現になりました。
夕虹に近づきたくて転びけり 幕田涼代
※何かに憧憬を抱いては、その都度挫折してきた人生の暗喩のような響きのある表現ですね。それをユーモラスに表現していて、読者の心に沁みます。
薔薇の花描けば紙上に咲き続く 増田綾子
※芸術というものの真髄を捉えたような表現ですね。俳句もそうですね。そのときの一瞬の感慨が永遠化されます。
夏の恋0番線の夜汽車から 松永弘子
※「0番線」「夜汽車」が、「夏の恋」という青春の象徴性をより深めて、うまく響き合い、心にジンときました。「0番線」というまだ存在しない可能性の象徴、「夜汽車」という若者特有の空想的な響き。巧みな表現の句ですね。
ばれいしょの白き花見て直売所 緑川みどり
※たとえばこんな鑑賞ができる句ですね。この「直売所」では花をつけた茎ごと売られていて、作者は初めてその花を見、その色を知ったのかもしれない。または近くに畑があって偶然、目にしたのかもしれない。その足で「直売所」に立ち寄りたくなった……というように。まるで何かいいことがあったよ、というような雰囲気の句ですね。
県境の向こうもこちらも青田風 宮崎和子
※何かと「違い」ばかりが強調されて、反目しあっているような世相の中で、もともとこの地上のものは同じだよ、と爽やかに感じることができた歓びのようなものを感じる表現ですね。
春の暮前垂れ換える六地蔵 村上チヨ子
※「換える」となっているので、作者が「六地蔵の前垂れを換える」行為をしているようにも読めます。「六地蔵巡り」という言葉もあるので、一か所ではなくそれぞれが離れた場所にある場合も想像されます。いずれにしろ「六地蔵」に「前垂れ」を付けてあげて、それを定期的に交換している町に作者が暮していることが解ります。落ち着いた暮らしぶりが伝わります。ちなみに「六地蔵」は地蔵菩薩の六分身で、仏教では人間は生前の行いによって死後,地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六道の境涯を輪廻転生するといわれ、そのそれぞれに衆生救済のために配されているのが、檀陀・宝印・宝珠・持地・除蓋障・日光の六地蔵であるとされています。
点火せし白百合慕う雨の中 村山 誠
※まるで真白な蝋燭に灯を点したかのように、白百合の花が花粉の淡い黄色をちらちらと見え隠れさせつつ、雨の中で揺れているという景ですね。それを「点火せし白百合」と大胆に効果的に表現してありますね。その凝視の眼差しを「慕う」と短いことばで添えています。
夏燕かならず雲を置いてゆく 吉野糸子
※巧みな表現の句ですね。燕の素早い飛翔の軌跡を目で追っても、追いつきません。燕の姿は線状の彼方に去ってしまいます。取り残された視線の先には、ただ夏の白い雲だけが……という作者の思いが見事に刻まれていますね。
黒南風や大師の水を山襞に 飯塚昭子
※「大師の水」は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として名高い高野山麓の清冽な伏流水ですね。その水が山襞から滲み出して、滾々と湧き出しているという景でしょうか。上五の「黒南風」は暗くどんよりとした梅雨の長雨が続く時期に吹く湿った南風のことで、このころの空や雲の色と憂鬱な心持ちを重ねて「黒」とされました。それと「大師の水」の透明で白い飛沫を飛ばして流れる爽やかさを対比して効果を上げていますね。
大空へ吹つ切りにけり巣立鳥 内城邦彦
※中七を「吹っ切りにけり」とだけ表現して、「大空」と「巣立鳥」を繋げた表現が効果的ですね。閉塞感漂う世相の中、作者の祈るような思いが投影された句ですね。
雲形の兎痩せゆく吾妻嶺 大谷 巖
※夏の雲は姿をめまぐるしく変え続けますね。作者が一日の中でふと吾妻嶺を遠望した、つかの間の時間の表現ですね。「あの雲、まるまると太った兎みたいな形だな」と思っている間に、みるみる細って形を変えたのでしょう。作者の別の句に「にわたずみ木くずに蟻の流れゆく」がありますが、これも移ろいやすい自然の中の命たちに投げる優しい眼差しを感じる句ですね。
荒梅雨や掛け声高く自彊術 小澤民枝
※「自彊術」は中井房五郎という技療法士治療法が創った健身術で、按摩、指圧、整体、カイロプラクティック、マッサージ等をミックスした数百種に及ぶ手技療法で、難病克服に効果があるそうです。この句では「掛け声高く」とありますので、気合をいれる声をあげて行うようです。鬱陶しい「荒梅雨」を吹き飛ばすような力がありますね。
村一面発電パネル揚ひばり 風見照夫
※こう詠まれただけで読者は、原発禍で人の住めなくなった村のことだなと了解します。原発事故が起こる前だったら、この句は生まれなかったでしょうし、生まれてもそのようには受け止めなかったでしょう。俳句表現にもこのようにあの原発禍が刻印されることになったのですね。
露草の朝色夕色ありて閉じる 金井和子
※「露草」は畑の隅や道端で常に見かけますから、朝咲いた花が昼過ぎにはしぼむことを知らない人が多いですね。この句は夕方まで咲いているのを発見して、その色の変化にも心を動かされたことを表現していますね。その形から「蛍草」などの別名もあり種類も色もいろいろありますね。
※ ※
1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」8月)
◎ 野木桃花主宰句(「青葉風」より・「あすか」2021年7月号)
かつと照る夏日朴の葉ひるがへる
蕉翁に兄と姉妹やねぶの花
夏蝶の風を力に国境
懸命に咲いて翳濃き七変化
羽衣の千里を飛んで青葉風
【鑑賞例】
一句目、他の季節がどこか閉塞感があるのに比べて、明るい日差しの中の夏の視界は広々と開けています。その感覚を広い朴の葉が風にそよぐ景に凝縮して表現してありますね。二句目は相当、俳句に詳しい人ではなくては詠めない句ですね。「蕉翁」芭蕉のイメージは孤高の人という感じですが、死ぬまで方々を旅した身を案じてくれた兄、姉妹がいたのです。「奥の細道」の原本は逝去前に兄に託され、兄が大切に保管してくれていたから、後世に伝わり私たちが読むことができているわけです。下五を「ねぶの花」で結んでいるのも、芭蕉の「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」を踏まえた表現です。象潟の美景の中、雨にぬれる合歓(ねむ)の花は、眠りについた西施の面影を彷彿とさせる、というような句意ですが、西施とは越の国から呉の国王に献上された中国古代の美女のことです。芭蕉は「松島は笑うようで、象潟は恨むようだ。その土地は悲しい境遇の美女が憂いに閉ざされているようだ」と述べています。三句目から五句目は独特の視点と類型に陥らない表現がされていますね。三句目は下五の「国境」という視点、四句目は「懸命」さと「翳濃き」という表現、五句目は千里を飛ぶ「羽衣」の喩で「青葉風」に軽やかさを与える表現ですね。
〇 武良竜彦の五月詠
森に眠る人ゐる起こすなよ若葉
青葉木菟墳墓に隠す偽史のあり
蟾蜍億光年の一歩かな
【自解】(参考)
一句目は森閑と何もかもが眠りについていたような森が、若葉の季節で明るくにぎやかになってゆく様を比喩的に表現しました。二句目は考古学者による発掘が禁じられている古墳群があることを詠みました。天皇家由来の墳墓で、発掘されて新事実が出てきたら何かまずいことでもあるのではという疑念すら封じ込められている「聖域」が日本にはあるのです。三句目、私たちが今見ていることは、今だけのことではなく、宇宙の始まりから連綿と続いている歴史的一瞬でもありますね。
2「あすか塾」31 2021年8月 ※ 八月の合評会は無く、武良による鑑賞資料のみ
⑴ 野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による鑑賞例―「風韻集」7月号作品から
―独自の視点・視点の逆転・類型からの脱却・個人的な感想から普遍的視座への跳躍。
※印は「あすかの会」参加会員
七色の囀藪をふくらます 大澤游子
はっとするような新鮮な表現の句ですね。囀りという音が七色で、それが藪をふくらませている。春の植物の成長の勢いまで感じられます。
空の青上枝に残花ゆるぎなし ※ 大本 尚
澄み切った青空に桜の残花がくっきりと見えている景が浮かびます。「上枝」で作者が見上げていることがわかり、「ゆるぎなし」が花の様であると同時に、作者の心が明確に投影されていることを感じる表現ですね。
飛花落花風の形のままにあり ※ 奥村安代
夕桜詩となるまでを佇めり 〃
一句目、見えない風の形が花びらの流れるさまでわかる、という景ですが、それを「形のままにあり」と表現したところが独自の視座ですね。二句目、「詩となるまでを」の「を」でゆったりとした時間経過を表わし、自分の心の中での熟成の時間とした点が独自ですね。
妻の忌や香煙に添ふ花吹雪 加藤 健
花びらが「香煙」の流れと同じに流れたという景ですが、それを「添ふ」と表現して、亡き妻に寄り添う想いが表現されていますね。
若布干す海の光を滴らせ ※ 金井玲子
潮水が滴っている景ですが、それを「光」に転換したのが独自の表現ですね。
水口に旅の終りを花筏 坂本美千子
水口(みなくち、みずぐち)は特に水田における用水の取り入れ口を指す言葉ですね。稲作が産業の中心を占めていた日本ではとても大切なもので、地名や名字としても用いられる言葉です。この句は花筏の「旅」の終点に「水口」を描いて、その歴史的感慨まで詠みこんでいますね。
大空に風の椅子ありいかのぼり ※ 鴫原さき子
まるで大空に大きな椅子があって、そこに風が憩うているようだという独自の視座があります。
人声の重なるところ噴井あり ※ 白石文男
噴井の周りに人が集まって楽しく会話しているという景ですが、それを「人声の重なるところ」という独自の視座による表現がしてありますね。
屋根ごしに枝垂柳の五十年 摂待信子
下五を「五十年」という時間の堆積表現に転換したのが独自の表現ですね。
梅の実や時確かめる朝なりき 服部一燈子
機械的な時計ではなく、季節の中で変化を見せる「梅」という植物にした点が独自の視座ですね。自然を体感し噛みしめて生きている姿勢まで感じられます。
さまざまな楓若葉や緑舟忌 本多やすな
「あすか」の創設者である師への敬意を含めた「挨拶句」ですね。「さまざまな楓若葉」と、その弟子たちの多様な個性の集いまで表現されています。
花万朶風の吐息とたはむれて 丸笠芙美子
吐息と戯れる、という表現に独自の視点と言葉選びの技がありますね。
擬宝珠の裏で手を振る師の笑顔 三須民恵
この擬宝珠は、欄干飾ではなく季語のキジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシでしょう。山間の湿地などに自生する多年草で、食用となり花が美しく、日陰でもよく育つため栽培されています。野生ではなく自宅の庭に咲いているのでしょう。「裏で手を振る師の笑顔」だとすると、背が花の丈より小さい妖精を幻視しているような表現で、亡き師への親しみと敬愛の籠る表現ですね。
鳥の恋一瞬窓辺過去となる ※ 宮坂市子
白木蓮傷つきさうな空の蒼 〃
一句目、たった今を一瞬で「過去」にしてしまう、今このときを生きるものたちの命の輝きを、その一瞬の筆さばきで捉えたような表現が独創的ですね。二句目、このうえもない繊細な心の動きを感じますね。
水底に青葉の山を抱く湖 柳沢初子
湖に青葉の山が映じている景ですが、それを「水底に抱く」という表現したのが独自の視座ですね。
懐に風を馴染ませ六月来 矢野忠男
風を懐に馴染ませる、まるで慈しんで迎えているような視座が独創的ですね。
手掘りの隧道へ村営バスの梅雨ダイヤ 山尾かづひろ
雨季の特別ダイヤなのでしょうか。常設ダイヤであっても、こう表現することで、この村のこの手掘りの隧道が特別に愛されていることが伝わる句ですね。
老いてまだ叱る人欲る遍路杖 渡辺秀雄
高齢者が鬱陶しがられるのは、独善的な傾向が強まるからでしょう。老いてなお自分を叱り、糺し、導いてくれる心の柔軟さの表現に、作者の人柄まで窺える句ですね。
ふらここや向こうの山の艶めきて 磯部のり子
向こうの、という丁度いい距離感、艶めくという独特の輝きの表現、この二つにブランコの躍動的なリズムを加えた高度な技の光る表現ですね。
耕しの土に濃淡午前過ぐ 伊藤ユキ子
農場の風景の時間経過だけでなく、そこで働く人の丁寧な仕事ぶりまで見えるような表現ですね。
花見には花見の歩幅ありにけり 稲葉晶子
花見という特別な時間、その独特な祝祭感が巧みに表現されていますね。
囀りや迎へてくれし野面積 ※ 大木典子
野面積という自然石を加工しないで割ったまま積んだ石垣が、そこを訪れた自分たちを迎えてくれたという表現ですね。そう表現することで空気が和らぎ、鳥たちの囀りも優しく響き渡るようです。
〇野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による鑑賞例
―「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」7月号)
中くらゐの幸せ乗せてボート漕ぐ 村田ひとみ
手漕ぎのボートサイズの幸せ感の表現が独自でいいですね。二人が向かい合って座っている景も見えますね。
墨堤の花に入る鳥蜜に酔ふ 石坂晴夫
墨堤と言ったら隅田川の堤の異称で、「墨堤遊春の客」という言い回しがあるくらいですね。この句はその土手の花の蜜を吸いに鳥が来ているという優雅な景として描いたのが独創的ですね。
人物画友に似てをり昭和の日 稲塚のりを
友に似た人物画に、共に過ごした昭和という時間を感受している表現ですね。街路の似顔絵師の絵を通りがかりに見ているのでもいいですし、美術館で高名な画家の絵をみているのでもいいですね。
花筏流れ流れて浄土かな 近藤悦子
花筏の行方は知れません。静かに川底の塵となったり、流れ流れと海の藻屑となることなどが想像されます。それを「浄土」への足袋と見立てたことに、救済感がありますね。花びらの足袋を人間の一生に見立てているような雰囲気もたち現れますね。
花いっぱい妻の手縫いの布の端 須貝一青
上五の「花いっぱい」で先ず、屋外の繚乱たる桜の景が浮かびます。そして視点が室内に切り替わり、裁縫をする妻の手元へとズームしてゆきます。そこにも満開の桜模様を発見します。祝祭的な空気感に包まれた表現で、作者の妻への優しい眼差しの溢れる表現ですね。
⑵ 同人句「あすか集」7月号作品から ※ 評例なし 自分で考えてみましょう。
―特に野木メソッドの「ド」「ハ」「ス」の視点が明確に感じられる句を選びました。
独特の視点・視点の逆転・類型からの脱却・個人的な感想から普遍性への跳躍。
以下の句のどういう表現にそれらが感じられるか考えてみましょう。
リハビリの心の弾む梅雨晴間 鈴木ヒサ
人影を水面に浮かべ植田かな 鈴木 稔
コロナ禍の静寂を落花急ぎをり 砂川ハルエ
花苺花壇のまん中幼き日 高橋光友
青葉潮百歳までのスケジュール 滝浦幹一
北鎌倉樹木葬には花木五倍子 忠内真須美
心電計針の乱れや青嵐 立澤 楓
こいのぼり尾っぽの先で空なでて 千田アヤメ
葉桜を飛び出すジェットコースター 丹羽口憲夫
雀の子喉元見せて水溜り 沼倉新二
群青を傾ぎてすべるヨットかな 乗松トシ子
囀を目で追ひかけて地の吐息 曲尾初生
母の日や園児は笑顔のママを画く 増田綾子
青春は夜行列車の登山かな 松永弘子
鶯のおぼつかなくて鳴きかわす 緑川みどり
梅雨兆す一つの光まとふ庭 村山 誠
朱の傘の中に白無垢菖蒲園 吉野糸子
つばめ来ぬ免許返納せし車庫へ 飯塚昭子
つばくらめ紺碧の空に十字切る 大谷 巖
横腹に園児の名前鯉のぼり 小澤民枝
花筏たどりつきたる竜宮城 金子きよ
顔知らぬ祖父母の話月朧 城戸妙子
生業を問へど無言や蟻の列 佐々木千恵子
※ ※ ※
【野木メソッドによる鑑賞・批評の基準】
◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、心情内容は深い俳句。(意志・悟性の力)
◎ 鑑賞・批評の方法
鑑賞する句の「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」に注目して。
※ ※ ※
1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」10月)
◎ 野木桃花主宰句(「涼新た」より・「あすか」2021年9月号)
黙禱を捧げ始まる夏季講座
高層の窓の沈黙灼けてをり
ほろ苦きコーヒー猛暑の五輪かな
炎天下影まで消えてしまひけり
存分に伸びる名木影涼し
まつすぐに海を目指して秋燕
【鑑賞例】
一句目、戦後の日本の夏は戦没者への祈りの季節であることが定着してきました。自分が担当する夏季講座で生徒たちと黙禱をしつつ、全国的に同じことをしているのだろうなという思いが詠まれているのでしょう。二句目、夏のビル群の壁面の焦げるような暑さの描写ですが、背景にコロナ禍によって都会の職場のおかれている厳しさが感じられます。三句目、感染症拡大下での五輪開催、さまざまな意見で民意が分断され、主催側の問題も噴出したりした「苦い苦い」五輪でした。四句目、灼熱で大気がゆらゆら揺らぎ、影までゆらぎ消えるような猛暑の表現ですね。五句目、光を浴びて伸びる名木の清々しさが「影涼し」と短く鮮やかに表現されていますね。六句目、秋燕、つまり帰燕は仲秋の季語になっています。春に渡って来た燕は夏の間に雛をかえし、秋に南方へ帰ってゆきます。その知識があるので詠める句ですね。海に近い横浜市の辺りでは普通に目にする光景でしょうか。
〇 武良竜彦の七月詠
七月の川に少年を置いて来る
除草剤この過剰なる夏の果て
【自解】(参考)
一句目、現実に少年を川に置き去りにしたのではなく、もう自分は少年のように無邪気に川遊びをすることはないな、という老境の比喩的境涯句です。二句目、丹念に草むしりなどをせず、機械や薬に頼ってしまう現代、猛暑も含めて、なにもかもが過剰であるように感じます。
2「あすか塾」33 2021年10月
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」9月号作品から
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。
思い出を拾ふ貝殻夕薄暑 奥村安代
「思い出を拾ふ」という心情抽象表現を「貝殻」という具象で受けるという文学的な表現に詩情がありますね。こういう表現が力まずにできるようになると表現のステージが一段あがりますね。
枇杷たわわ海夕焼に鎮もりぬ 加藤 健
近景に枇杷、遠景に夕焼の海。場面構成が巧みで鮮やかですね。そのどちらかに作者の心情が込められていることを読者は受け止めます。
十薬の雨に触れつつ九十九折 金井玲子
「つづらおり」は坂道が180度に近い角度で曲り延々と続く様を表したことばで、この句のように「九十九折」と書いたり「葛折」とも書きます。これは葛籠の元々の原料であるツヅラフジの蔓が曲がりくねっていることにたとえたもの。類義語に「七曲り」「羊腸」などがあります。「羊腸」は腸管の曲がりくねった様子から来た言葉で、鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲の『箱根八里』の歌詞2番に「羊腸小径」という歌詞がありますね。熊野古道の一つであるツヅラ峠越えの古道、日光の「いろは坂」などが有名ですね。鞍馬の九十九坂には与謝野晶子の歌があります。この句はどの坂でしょうか。その道際の十薬が雨に濡れている様を詠んだだけですが旅情豊ですね。「濡れつつ」ではなく、「触れつつ」としたのが効果的ですね。
日時計の南南西を蟻の列 坂本美千子
日時計の原理は太陽が真南に来て、影が真北に伸びているところを「正午」にする仕組みで時を計るものですね。この句では「南南西」が影の位置のことかどうかは解りませんが、雰囲気としては真昼の、太陽が真南に近い時間に、働いている蟻の姿を詠んでいるような感じです。白昼の労働を労わっているような眼差しを感じますね。
暗号を受信中なり蝸牛 鴫原さき子
蝸牛の角をアンテナと見立てて電波を受信しているようだという表現だったら、類型的かも知れませんが、この句はもう一歩踏み込んで「暗号を受信中」と表現しました。それで何もかもが暗号化されていっている現代世相を、見事に捉えた句になっていますね。
荒梅雨の傷跡覆ふ荒筵 白石文男
「あすかの会」句会で高得点だった句です。二つの「荒」で土砂崩れなどに災害痕の痛ましさが表現されていますね。
子雀の巣翔ち見てゐる屋根鴉 摂待信子
親心のように温かい眼差しなのか、獲物として虎視眈々と狙っているのか、読者の心の有り様で解釈が二通りに分れるでしょう。作者はその二つの思いのあいだで揺れる心を詠んだのでは。
亡き父を正客として鮎料理 高橋みどり
「正客」は客の中でいちばん主な客、主賓、茶会における最上位の客のことですね。改まった心で亡父の霊を主賓として、遺された家族が鮎料理の席に着いているという景ですね。この心のおもてなしは、深い追悼、追憶の心によってなされることですね。
一雨に葉の先伸びる茄子かな 服部一燈子
植物の成長は一雨ごとに進展する速さといいますが、それを「葉の先伸びる」と一点をクローズアップして可視化表現したのが効果的ですね。
川ほそる所にとうすみとんぼかな 本多やすな
「とうすみとんぼ」という美しい和語で詠んだのが効果的ですね。それと上流の方角と場所を「川ほそる所」とし、ひらがなで共鳴させています。漢字では「灯心蜻蛉」でイトトンボの別名ですね。
「灯心・灯芯」は行灯 (あんどん) ・ランプなどの芯のことで、細さの表現ですね。
海を向く背に夏の日の影重し 丸笠芙美子
下五が「影の濃し」だったら予定調和の普通の景の表現ですが、この句は「影重し」と結んでいてインパクトがありますね。何かの屈託を抱いた人の背の哀愁が感じられます。
捨て猫の目の奥素直ソーダ―水 三須民恵
「捨て猫」ですから不遇の存在ですが、作者はその目の奥の邪気のなさに心が揺さぶられているようですね。下五が「ソーダ水」なので、どこか「泡立つ」思いも暗示されています。
筆りんどう隠れ心地の草のなか 宮坂市子
フデリンドウは紫色の花を茎の上部に一~十数個、上向きにつけます。花は日が当っている時だけ開き、曇天や雨天では筆先の形をした蕾状態になって閉じています。だからこの句は曇天雨天の草叢に、隠れるように筆状になっている状態を詠んだ句でしょう。「隠れ心地」とした表現が効果的ですね。部屋に籠って俳句の筆をとっている自分の姿の投影のようにも感じますね。
初生りのほてりし茄子を供へけり 柳沢初子
中七の「ほてりし茄子」の措辞が効果的で、初物の特別感が巧みに表現されていますね。
蝉しきり廃止とありしバス路線 矢野忠男
にぎやかで、時にはうるさいと感じる蝉しぐれも、廃線のバス停の景と共に表現されると哀愁が漂いますね。
いたどりやダム放流の宣伝カー 山尾かづひろ
和名イタドリの語源は、傷薬として若葉を揉んでつけると血が止まって痛みを和らげるのに役立つことから、「痛み取り」が転訛して名付けられたといいます。そんな背景を持つことばを上五に置いて、増水による緊急放流を告げるダムの宣伝カーの、緊張感のある表現が効果的ですね。
逃走のいのちに重さごきかぶり 渡辺秀雄
ゴキブリにはあまり質量感がなく薄い体をしていますね。しかしこの句は、その必死に逃げ惑う姿に、わたしたち人間と同等の「いのちの重さ」を感じている表現ですね。
指太きオカリナ奏者夏の杜 磯部のり子
オカリナのどこか懐かしいような響きを持つ演奏に聴き入りつつ、演奏者の指を目に止めて、音からは想像できない意外に太さに、ある感慨をもよおしている句ですね。ピアノのなどもそうですが、熟練者ほど、その練習量に比例して逞しい筋力の指をしている人が多いですね。その発見ですね。
点滴や鯖雲我が家の方へ行く 伊藤ユキ子
作者はベッドで点滴治療を受けているようです。時間がかかりますね。窓の外に鯖雲がゆっくり流れているのが見えているのでしょう。「我が家の方へ」という言葉に一言では言えない思いが込められていますね。ゆっくりしか動かない雲の流れを感じ取っている繊細な表現ですね。
噴水の一日をたたむ夕間暮れ 稲葉晶子
「一日をたたむ」という表現が独特で効果的ですね。止まった、という言葉と比較すると、その詩情の違いが判りますね。
消しゴムの減りの早さよ梅雨明けぬ 大木典子
手書きの鉛筆でものを書いている場面が浮かびますね。俳句手帳でしょうか。なんども推敲を重ねているのだということも伝わりますね。梅雨のことを苦心して表現しようと推敲している間に、梅雨が明けてしまった……というような感慨も感じられますね。
古利根の水嵩増えて桜桃忌 大澤游子
太宰治が入水したのは玉川上水(東京都三鷹市近)ですね。「古利根」は利根川から分流する埼玉県東部の中川の上流のことをいいます。場所は離れていますが、「桜桃忌」は川の水量が増える夏の季語ですから、距離を越えた通じ合う思いを詠んだ句ですね。
纏ひ付くやうな闇なり蛍縫ふ 大本 尚
闇というのは暗さという状態のことですから、質量感をともなう実体的なものではないですね。それを「纏い付くやうな」と質量感の表現にして、同時に蛍が飛ぶ、舞うとは言わず「縫う」としたのが効果的ですね。
〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」九月号から)
籠るとふ革命もあり巴里祭 村田ひとみ
籠城戦にもなった巴里革命記念でもある「巴里祭」の「籠る」イメージを、コロナ禍での「籠り」を背景にして詠んだのが、独特で効果的ですね。
捨寺に鎮座の仏梅雨の月 石坂晴夫
管理するものがいなくなった廃屋のような寺でしょうか。仏像もそのまま放置されている様に、複雑な思いを抱いた句ですね。下五の季語が効いていますね。
※ 晴夫さんのご冥福をお祈りいたします。この投句が最後となられました。
手も足も艶めき揃ふ阿波踊 稲塚のりを
ただ所作が揃っている美しさだけでなく、そこに「艶」のある美を感じ取っている句ですね。見ている景をワンステージ上げているような効果がありますね。
黄菖蒲や湯気流れくる無双窓 近藤悦子
「無双窓」は竪板を連子(れんじ=一定の間隔を置いて取り付けたもの)にして、外側を固定して左右に移動可能とした窓のことですね。そこからの湯気ですから台所か風呂場の外に黄菖蒲が咲いている景でしょうか。湯気にけむる花の色が見えます。
晩節に免状用なし蝸牛 須貝一青
ものごとに取り扱い説明書とか、免許とか資格とかが必要な、なにかと生きるのが面倒な世の中にあって、作者は自分の老境をまっすぐ見つめて、これからは「免状」なんて要らないよ、と自分の歩を進める蝸牛のように生きる覚悟を噛みしめているようです。
⑵ 同人句「あすか集」(九月号作品から)
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
その観点から選出した句です。同じように合評してみましょう。
青芒原抜けてゆく子は反抗期 砂川ハルエ
思春期の反抗的な態度は成長の証と見守っている眼差しの句ですね。その成長の姿を上五中七で象徴的に詠んで効果的ですね。
烏瓜好き放題にさせる庭 立澤 楓
荒れ放題と言えば、無精さを思わせますが、生命力溢れる烏瓜の「好き放題にさせ」ていると、視点をがらりと変えた表現が効果的ですね。
不器用な私するりとところてん 千田アヤメ
まるで作者が全身、ところてんになって滑っていっているようなユーモラスで爽快感のある句ですね。上五の前置きの「不器用な」が効いていますね。
リモートの孫にもメロン切り分ける 西島しず子
普段なら出勤していて、家にいるものだけのお八つの時間を、孫と共有できている、ささやかな歓びを感じる句ですね。重苦しくなりがちなコロナ禍の背景を明るく詠みました。メロンにしたのがいいですね。
夏めくや昔豆腐は水の中 丹羽口憲夫
昭和的な落ち着いた暮らしぶりと感性までが表現されていますね。大きな水槽の中に泳いでいるような豆腐の姿と、店の雰囲気まで感じます。
翁媼のカップルつなぎ風渡る 沼倉新二
カップル、とカタカナ語でモダンに言い表して、逆に二人の間に流れた時間の暖かな重層性の表現に成功している句ですね。
海霧の空へとつなぐ汽笛かな 浜野 杏
「つなぐ」がいい表現ですね。響く、鳴るに置き換えてみると、その縦に広がる空間性の違いがよくわかります。
雲の峰水平線に見る地球 浜野 杏
高く盛り上がる入道雲のてっぺんの高度、その視界を引き寄せたダイナミックな表現が効果的ですね。地球の丸さを感じる水平線が視界に入るには、ある程度の高度が必要ですね。
花樗太子も駆けし奈良古道 林 和子
太子といったら聖徳太子のことですね。しかもその発育盛りの少年時代の、賢そうな太子像を幻視している句ですね。初夏、淡い紫色をした小花が穂状になり咲く栴檀の古称「花樗」も効いていて、奈良古道が鮮やかに輝きます。
富士山にぶつかり割れる雲の峰 増田 伸
瞬時のことではなく、天空の気象のゆっくりとしたダイナミックな動きの表現ですね。それを見届けている作者が過ごした充実した気分の時間を読者も共有します。
向日葵の顔になれないまあいいか 松永弘子
下五を口語表現の「まあいいか」がユーモラスで、微かな諦念を感じました。「私はひまわりみたいな笑顔にはなれないよ」という作者の呟きと読むのが普通ですが、ひまわり自身の悩みと解しても面白いですね。
沖縄忌白き朝顔一つ咲く 緑川みどり
本土から差別的な扱いを受けてきた、その集合体としての沖縄の人びとの思い、それを「白き朝顔一つ咲く」と象徴的に表現し、しっかり思いを寄せた句ですね。
炎帝や敷かれしレール五輪へと 望月都子
レールという言葉が、動き出したら止められないことの象徴のように詠まれているのが効果的ですね。上五の炎帝も効いていますね。
かなかなや厨に妣の声のごと 吉野糸子
「ごと」で切って、「今も妣の声が響いているかのようだ」という思いが、凝縮的に表現されて、余韻を生んでいる句ですね。
山彦や大つり橋のハンモック 安蔵けい子
大つり橋を「山彦」の「ハンモック」だと見立てた、爽快でダイナミックな表現ですね。
別行動土産は同じ水羊羹 飯塚昭子
やはり夏ですからねーというみんなの声が聞こえるような句ですね。
蓮池やのぞけば弥生人の影 内城邦彦
水面に映った自分の顔に「弥生人」を感じたのか、蓮を栽培した弥生人を幻視したのか、いずれにしろ「蓮池」の雰囲気に相応しい表現ですね。
梅漬くる無駄なる時間何もなし 風見照夫
家庭味噌や家庭梅干しを作るのは、趣味などではなく、かつては季節毎におこなった、暮らしの時間の中の行為だったのですね。そこには無駄とは無縁の時間が流れていますね。
じやが芋の花野末まで一直線 金井きよ
「野末まで一直線」で清々しい空間の広がりを感じる句ですね。畝を作って栽培する作物は、確かに一直線を形成します。その視点がいいですね。
選別の叔母の手捌き枇杷熟れて 城戸妙子
叔母という血縁者の熟達の手捌きをクローズアップした表現で、そこに一つの感慨を抱いている句になりました。叔母が故人となっても、きっと、記憶の中で生き続けることでしょう。
朝顔の蔓を手繰りて種袋 佐々木千恵子
種袋は仲春の季語で春蒔きの種の入った袋のことですが、この句では違うようです。上五の「朝顔」という初秋の季語を主たる季語とした句ですから、この種袋は球形の袋状に種をつけている朝顔の種のことを言っているようです。それを手繰り寄せているという句でしょう。「蔓を手繰りて」の中七が効いていている句ですね。
※ ※ ※
1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」9 月)
◎ 野木桃花主宰句(「蔵の街」より・「あすか」2021年8月号)
メビウスの輪となる蜷の跡たどる
移ろひの世をすり抜けて夏燕
つりしのぶ日々を自在の暮し向き
涼し気な濡れ縁に坐し父母のこと
涼しげな沓脱ぎ石や留守の家
【鑑賞例】
一句目、「メビウスの輪」は、帯状の長方形の片方の端を一八〇度ひねり、他方の端に貼り合わせた形のもので「メービウスの帯」ともいいます。発見したドイツの数学者アウグスト・フェルディナント・メビウスの名に由来する言葉です。普通の輪状の帯なら裏と表面は明確に分かれていますが、「メビウスの輪」では、片面を指で辿っていくと、裏だった筈の所が表になりまた裏になって繋がりあってしまいます。掲句は「蜷」が這った軌跡にそのような果てしなさを感じている句ですね。二句目は「燕」の迷いのない切れのある飛翔の姿から逆に、この移ろいやすい世相に思いを巡らせた句ですね。三句目、「釣忍」は軒下に吊られているだけなのに、風にそよぐその姿にゆとりある自由さを感じますね。細かいことに拘らないで日々を、ゆとりを持って生きようという思いが投影された句ですね。四句目と五句目は「涼し気」「涼しげ」の句で、「涼し気」の方は作者自身の心の、回想している父母の姿への投影表現ですね。「涼しげ」の句は、訪ねた家が留守で、帰ろうとして泳がせた視線がふと捉えた景の表現ですね。「沓脱ぎ石」は縁側などの前に置いて、履物をそこで脱いだり踏み台にしたりする石のことですね。 縁側がある和風の旧家で、それが丸見えなっている。そのおおらかさとしっとりとした暮らしぶりに心を動かされている句ですね。
〇 武良竜彦の六月詠
ウイルスの波状攻撃はたた神
六月の俘囚に絵具差し入れて
水無月や賢治の貝の火も消えて
【自解】(参考)
一句目、新型コロナ・ウイルスの感染状況のグラフは波型になって、時間の経過とともに、その波の山がどんどん高くなっていくのが不気味です。それを「波状攻撃」と表現し、それを激しい雷である夏の季語の「霹靂神(はたたがみ)」と取り合せました。二句目の俘囚は例えば第二次世界大戦時のような現実の「俘囚」ではなく、私たちの閉塞感という心の捉われ状態の比喩として表現しました。「絵具差し入れて」は、夏の空でも描いて、そこからの脱出を勧める表現にしました。三句目は宮沢賢治の「貝の火」という童話の主題を借用した表現です。「悪」と知りつつ、それを止められず自分も染まってしまう結末を描いた童話です。今の世相への批判を暗に込めたつもりです。
2「あすか塾」32 2021年9月
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」8月号作品から
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。 ※印は「あすかの会」参加会員
何もせぬという手もあり余花の雨 ※ 大本 尚
「余花の雨」は山の高いところなどで、夏になっても咲き残っている桜花をぬらす雨で、風情のある美しいことばですね。「何もせぬという手もあり」という表現は、文字通り「何もできないで手持無沙汰になっている」という意味と、こんな季節には「何もしないで、ゆったりと過ごすのもいいな」と思っている心の状態の意味にも解せますね。
ひと呼吸して薔薇の香の角曲がる ※ 奥村安代
初夏らしい場面と作者の心持ちが、この一句に凝縮されているような無駄のない見事な表現ですね。
深呼吸、薔薇の香、町角、作者のいつも通う道の、季節の変化に伴う空気感。作者が季節感を肌で感じながら、地に足をつけた丁寧な生き方をしている人であることも伝わりますね。
新緑の時ゆるやかに切通し 加藤 健
新緑の切通しという場面の切り取り。「時ゆるやかに」という心情を投影した言葉を挟んで、初夏の空気感が表現されていますね。
鎮魂の淵に迷える花筏 ※ 金井玲子
上五の「鎮魂の淵」は大胆な象徴的な抽象表現ですね。現実は流れの淵に少し淀んでいる状態の「花筏」ですが、作者の内面の「迷い」の表現になっていますね。最近増えている災害などの犠牲者や、作者の身近な人を喪った「鎮魂」の思いが籠められているのでしょう。
言ひ訳を手で制したる鉄線花 坂本美千子
「制したる」で切れている表現だと解すると、「鉄線花」は独立した季語表現ということになりますね。「制したる鉄線花」と修飾的に花にかかっていると解すると、掌をいっぱいに広げているような花の形状を借りた、心象表現ということになりますね。自分の言い訳がそんな鉄線花か他の人に制止されたのか、自分が誰かのそれを制止したのか。その比喩的心象表現が効いていますね。
引き算のように人逝く夏椿 ※ 鴫原さき子
はっとするような独自の視点の句ですね。報道で感染症の増加という足し算を見慣れていて、実はその数字は重症者数、死者数というこの世から「引き算」のように「逝く」人の数であると言う事実に向き合わされる表現ですね。
鉈彫の口もと涼し微笑仏 ※ 白石文男
文男さんの鮮やかな具象表現とその的確さにはいつも感心します。粗削りの、作者の呼吸まで感じるような鉈遣いの素朴な円空仏のことでしょうか。それを「口もと涼し」とズームアップで表現する、同じように鮮やかな「鉈使い」のような言葉づかいの表現ですね。
筍に小糠を添へて宅急便 摂待信子
宅配便が届いた。故郷からの初夏の贈りものでしょうか。煮て灰汁をとるための小糠まで同封されている心遣い。父母からのものだったら、しみじみと。知人友人からのものだったら、その心遣いに感じ入っている句ですね。あるいは作者がそんな心といっしょに誰かに送っているのかもしれません。
思ひ出すことも供養か鳳仙花 高橋みどり
大切な人を亡くす喪失感の伴う体験や、それに伴って生じる諸事の多忙な日々を過ぎて、しみじみとその喪失の思いを噛みしめているという時間経過も感じる句ですね。供養は物品でするものだけではなく、その人に纏わることを思い出すという心の行為こそが供養になるのだと、そう思うことができるようになった自分を見つめ直している表現ですね。
震災の使えぬ堆肥梅実る 服部一燈子
折角つくっておいた堆肥が使えなくなってしまった。読者には津波の塩害や、原発事故の放射能汚染など、さまざまな被害を想像させる句ですね。でも作者の表現の主眼はそのことだけでなく、下五の「梅実る」という季語に投影した、明日への希望を繋ぐ思いの方ではないでしょうか。
水槽の目高ふえてる町役場 本多やすな
下五の「町役場」が効いていている表現ですね。目高は絶滅危惧種に指定されています。それを町中の人が大切に守ろうとしていることが、この一言で伝わります。
揚羽蝶湖の碧さを連れてゆく 丸笠芙美子
芙美子さんの象徴詩的な具象表現も、毎月、冴えていますね。くっきりと眼に浮かぶような具象表現ですが、作者の心を投影した心象表現であり、読者の心にも鮮やかに刻まれる表現ですね。
夏木蔭一人帰れば一人来る 三須民恵
夏木陰のキャパシティが小さくて、一人分しかない様をユーモラスに詠んだ句とも解せますね。それだけではなく、作者がその人たちを相手に楽しく会話を交わし合っている雰囲気も伝わる表現ですね。
日の匂ふ毛布小鳥のごと寝落つ ※ 宮坂市子
市子さんの季節感と風土を噛みしめるようにして生きていることを表現する句も、円熟の域に達してきたようですね。掲句は、その日の日中、快晴で干した毛布が遠赤外線をたっぷり蓄えたことが解ります。それを「小鳥のごと寝落つ」と、野生の感覚に引き付けて、その毛布にくるまれて眠ることの至福感を見事に表現してありますね。
日にゆるる影まろやかに八重椿 柳沢初子
「まろやか」という言葉は、形が「円い」という形容表現から派生して、口あたりが柔らかいさまというような、味覚表現に転用されてきた言葉ですね。視覚的な色合いなどにも転用するようになりました。この句はさらに深化させて「影」の色合いではなく、その「影」が日差しの中で揺れているさまが「まろやかに」と表現しました。この「まろやかに」がこの句の命ですね。
かきつばた句友句仇無き静寂 矢野忠男
「かきつばた (杜若)」は古来より日本にある植物で、江戸時代前半から観賞用に多くの品種が改良された古典園芸植物。開花時期は夏の気配がしてくる初夏。まさに「夏が来れば思い出す」という花であり、また深い友愛のような紫色ですね。懐かしい友もみんな幽界に旅立って久しい。身辺の静寂にひときわ寂寥感が募ります。
廃山とてをんな神輿にひとだかり 山尾かづひろ
日本の主たるエネルギーが石炭から石油に替わっていった時代、全国の炭鉱が廃業になりました。「廃山」とはそのことを指すのでしょう。そこで働いていた人たちは転職して炭鉱町を出て行き、町はすっかり寂れました。「をんな神輿」というのは町の人口が減って祭の「神輿」の担ぎ手がなくなり、残った女性がその役を担ったのです。「ひとだかり」は残った町びとたちの心からの応援の姿ですね。
勤勉の姿かたちに植田かな 渡辺秀雄
米農家の仕事は怠惰な人には勤まりません。そのことへの尊敬のまなざしが「勤勉の姿かたち」という表現によく表れていますね。何枚もの田に整然と植えられた稲苗の姿が目に浮かびます。下五が「田植えかな」ではなく「植田かな」となっているのも、単に田植え姿のことを指しているのではなく、その仕事にいそしむ人への、全的な尊敬の念の表現だからですね。
二畝はじやがいももつそり芽吹くなり 磯部のり子
専業農家ではなく、多種の野菜を栽培している家庭菜園でしょうか。その中の二畝だけに「じやがいも」が植えられているのでしょう。いっせいに芽吹いて、そこだけ緑色に盛り上がっている姿が目に浮かびます。「もつそり」という音韻的な表現が効果的ですね。
ねむた木の花やカヌーは滑り漕ぐ 伊藤ユキ子
合歓木の方言的な呼称で「ねむた木」という言葉を上五に置いて、味わい深いですね。その向こうに見えるやや川幅のある水面をカヌーが滑るように過っていく光景です。まるで扇型の合歓木の花が、その樹上に揺らいで、声援を送っているかのようです。
ぴかぴかの銀輪確と春を漕ぐ 稲葉晶子
自転車の車輪を漢音の「銀輪」と表現しているのが、金属のぴかぴかした光に相応しいですね。下五は普通「漕ぎゆけり」というふうにしてしまいがちですが、季節を鷲掴みにするかのように「春を漕ぐ」としたのも効果的ですね。そんなふうに鑑賞すると、これは自転車ではなく車椅子マラソンなどの競技用の練習風景にも感じられてきます。
竹皮を脱ぐ昭和の男皿洗ふ ※ 大木典子
典子さんは最近、体調を悪くされて、家事を夫である尚さんがカバーされているそうです。その姿を「昭和の男皿洗ふ」と少しユーモラスに、温かい眼差しで表現されています。上五の「竹皮を脱ぐ」という季語が、家事を習得して今までとは違う自分に脱皮しようとしている男性の姿に見えてきます。
筍の十二単衣を解く厨 大澤游子
筍の重なりあっている皮を剥いているだけの景ですが、その皮を「十二単衣」に喩えた表現ですね。普通、その比喩だけで句を詠んでしまいがちですが、「解く」と短く表現して解放感やテキパキとした捌きぶりまで目に浮かぶ表現にしたのが効果的ですね。最後を「厨」という場所にしたのも効果的ですね。
⑵「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」八月号)
風涼し柱状節理の岩に向き 村田ひとみ
下五を「岩の元」とか「岩聳え」というように、場面の説明にしないで「岩に向き」と自分の眼差しの表現にしたのが効果的ですね。人の眼差しと体温をそこに感じますから、上五の「風涼し」がより実感として迫ってきます。涼やかな景に包まれているような感覚になる句ですね。
バードデー雀起きよと窓叩く 石坂晴夫
窓を叩いているのは作者ではなく、擬人化した雀でしょう。人間が窓を叩いて、眠りこけている雀を起こしているという状態は考えにくいですね。そのことが解ると、この句の面白さをより深く味わうことができます。「バードデー」というのは人間が勝手に作った記念日ですから、鳥たちは知らないことです。よりもよってその「バードデー」に、雀に起こされたよ、と微笑んでいる句ですね。
※石坂さんはご闘病中でしたが、この九月に逝去されました。残念です。謹んでお悔み申し上げます。
その奥にをみなの影や青すだれ 稲塚のりを
美しい日本画のような景の句ですね。筆頭に「その」が日本的な暮らし全般を総括しているような効果があります。淡い色調の「青すだれ」の向こうに人影が……。それを古風に「をみな」と表現したのも効果的ですね。日本女性の凛とした美しさまで表現されています。もしかしたら亡き御母堂の幻影なのかも知れない、と深読みしたくなる句です。
大屋根や孤独まとひし朴の花 近藤悦子
「大屋根」と「朴の花」、一見、なんの関連も無く意味的には結びつかないような二語が取合された句ですね。でも俳句的に中七で「孤独まとひし」と表現されると、屋根の下の家の中がどんなに賑わっていても、ただ空に向かって広がっている大屋根はどこか寂し気であり、朴の葉と花の、幹や枝とは釣り合わない大きさも寂し気だと一点で心の中で繋がります。俳句の妙ですね。
はつ夏や旧街道にしるべ立つ 須貝一青
上五の初夏をひらがなで「はつ夏」として、道路標識もひらがなで「しるべ」と表現して、懐かしい想いを高める効果をあげていますね。旧街道に残る標識は目立たないものが多いですね。徒歩の速さでないと目に留まらないような標識です。昔の旅は徒歩でした。そのことも感じさせる句ですね。初夏の、どこかへ旅をしてみたくなる気持ちも表現できていますね。
⑶ 同人句「あすか集」八月号作品から
沈黙のワクチン会場薄暑かな 高橋光友
※会場の緊張感も伝わる表現ですね。
茄子咲くや多産の母のこと憶ふ 滝浦幹一
※懐かしさを感じる紫色の、ふっくらとした肉付きの茄子のかたちに響き合う表現ですね。
狭庭にはひしめき合って夏野菜 立澤 楓
※「我が庭」といわず「狭庭」と短く言い切って、そこに多種の夏野菜を植え、その芽吹きを期待している作者の気持ちが伝わります。
香を内にずしりと重きメロンかな 葛籠貫正子
※メロンの質量感を、香りを閉じ込めている表現にしたのが斬新ですね。
夏蝶の戯れ合ふは通学路 坪井久美子
※蝶はただ二羽がひらひら舞っているだけですね。そこが通学路であることも、自分たちが戯れているように見えているとも知りません。作者がそう表現したことで、そこを通る子供たちの生き生きとした姿が浮かび上がるという俳句の力ですね。
走り過ぎる少年の手にカーネーション 西島しず子
※あっという間のできごとだったでしょう。見逃してしまうような景ですね。その場面を捉えて句にした作者の心が、いい光景を見た、と輝いたであろうことを、読者も感じる句ですね。もちろん少年は母のために購って帰路を急いでいるのですね。
天道虫背ナのメダルの重々し 沼倉新二
※まだ今年のオリンピック開催がどうなるか解らない時期に詠まれている句ですね。その戸惑い感を天道虫の星模様に託して表現しましたね。
わつさわつさ風と遊びし栗の花 乗松トシ子
※房状に咲く栗の花の質量感を「わつさわつさ」という音韻で見事に捉えた句ですね、「遊びし」も効果的で、もう散って地面に落ちているのでしょう。回想の句なのですね。
夏燕駅構内を物色中 浜野 杏
※燕の懸命の巣造りの姿に温かい眼差しを投げている句ですね。人が絶えず往来する場所の方が、天敵に襲われず安全であることを、燕たちは知っているのですね。
子供の日ワクチン予約の電話前 林 和子
※ワクチンの予約をしようとしているのが「子供の日」という表現が効果的ですね。気遣っている家族の眼差しを感じる表現になりました。
夕虹に近づきたくて転びけり 幕田涼代
※何かに憧憬を抱いては、その都度挫折してきた人生の暗喩のような響きのある表現ですね。それをユーモラスに表現していて、読者の心に沁みます。
薔薇の花描けば紙上に咲き続く 増田綾子
※芸術というものの真髄を捉えたような表現ですね。俳句もそうですね。そのときの一瞬の感慨が永遠化されます。
夏の恋0番線の夜汽車から 松永弘子
※「0番線」「夜汽車」が、「夏の恋」という青春の象徴性をより深めて、うまく響き合い、心にジンときました。「0番線」というまだ存在しない可能性の象徴、「夜汽車」という若者特有の空想的な響き。巧みな表現の句ですね。
ばれいしょの白き花見て直売所 緑川みどり
※たとえばこんな鑑賞ができる句ですね。この「直売所」では花をつけた茎ごと売られていて、作者は初めてその花を見、その色を知ったのかもしれない。または近くに畑があって偶然、目にしたのかもしれない。その足で「直売所」に立ち寄りたくなった……というように。まるで何かいいことがあったよ、というような雰囲気の句ですね。
県境の向こうもこちらも青田風 宮崎和子
※何かと「違い」ばかりが強調されて、反目しあっているような世相の中で、もともとこの地上のものは同じだよ、と爽やかに感じることができた歓びのようなものを感じる表現ですね。
春の暮前垂れ換える六地蔵 村上チヨ子
※「換える」となっているので、作者が「六地蔵の前垂れを換える」行為をしているようにも読めます。「六地蔵巡り」という言葉もあるので、一か所ではなくそれぞれが離れた場所にある場合も想像されます。いずれにしろ「六地蔵」に「前垂れ」を付けてあげて、それを定期的に交換している町に作者が暮していることが解ります。落ち着いた暮らしぶりが伝わります。ちなみに「六地蔵」は地蔵菩薩の六分身で、仏教では人間は生前の行いによって死後,地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六道の境涯を輪廻転生するといわれ、そのそれぞれに衆生救済のために配されているのが、檀陀・宝印・宝珠・持地・除蓋障・日光の六地蔵であるとされています。
点火せし白百合慕う雨の中 村山 誠
※まるで真白な蝋燭に灯を点したかのように、白百合の花が花粉の淡い黄色をちらちらと見え隠れさせつつ、雨の中で揺れているという景ですね。それを「点火せし白百合」と大胆に効果的に表現してありますね。その凝視の眼差しを「慕う」と短いことばで添えています。
夏燕かならず雲を置いてゆく 吉野糸子
※巧みな表現の句ですね。燕の素早い飛翔の軌跡を目で追っても、追いつきません。燕の姿は線状の彼方に去ってしまいます。取り残された視線の先には、ただ夏の白い雲だけが……という作者の思いが見事に刻まれていますね。
黒南風や大師の水を山襞に 飯塚昭子
※「大師の水」は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として名高い高野山麓の清冽な伏流水ですね。その水が山襞から滲み出して、滾々と湧き出しているという景でしょうか。上五の「黒南風」は暗くどんよりとした梅雨の長雨が続く時期に吹く湿った南風のことで、このころの空や雲の色と憂鬱な心持ちを重ねて「黒」とされました。それと「大師の水」の透明で白い飛沫を飛ばして流れる爽やかさを対比して効果を上げていますね。
大空へ吹つ切りにけり巣立鳥 内城邦彦
※中七を「吹っ切りにけり」とだけ表現して、「大空」と「巣立鳥」を繋げた表現が効果的ですね。閉塞感漂う世相の中、作者の祈るような思いが投影された句ですね。
雲形の兎痩せゆく吾妻嶺 大谷 巖
※夏の雲は姿をめまぐるしく変え続けますね。作者が一日の中でふと吾妻嶺を遠望した、つかの間の時間の表現ですね。「あの雲、まるまると太った兎みたいな形だな」と思っている間に、みるみる細って形を変えたのでしょう。作者の別の句に「にわたずみ木くずに蟻の流れゆく」がありますが、これも移ろいやすい自然の中の命たちに投げる優しい眼差しを感じる句ですね。
荒梅雨や掛け声高く自彊術 小澤民枝
※「自彊術」は中井房五郎という技療法士治療法が創った健身術で、按摩、指圧、整体、カイロプラクティック、マッサージ等をミックスした数百種に及ぶ手技療法で、難病克服に効果があるそうです。この句では「掛け声高く」とありますので、気合をいれる声をあげて行うようです。鬱陶しい「荒梅雨」を吹き飛ばすような力がありますね。
村一面発電パネル揚ひばり 風見照夫
※こう詠まれただけで読者は、原発禍で人の住めなくなった村のことだなと了解します。原発事故が起こる前だったら、この句は生まれなかったでしょうし、生まれてもそのようには受け止めなかったでしょう。俳句表現にもこのようにあの原発禍が刻印されることになったのですね。
露草の朝色夕色ありて閉じる 金井和子
※「露草」は畑の隅や道端で常に見かけますから、朝咲いた花が昼過ぎにはしぼむことを知らない人が多いですね。この句は夕方まで咲いているのを発見して、その色の変化にも心を動かされたことを表現していますね。その形から「蛍草」などの別名もあり種類も色もいろいろありますね。
※ ※
1 今月の鑑賞・批評の参考 (「あすか塾」8月)
◎ 野木桃花主宰句(「青葉風」より・「あすか」2021年7月号)
かつと照る夏日朴の葉ひるがへる
蕉翁に兄と姉妹やねぶの花
夏蝶の風を力に国境
懸命に咲いて翳濃き七変化
羽衣の千里を飛んで青葉風
【鑑賞例】
一句目、他の季節がどこか閉塞感があるのに比べて、明るい日差しの中の夏の視界は広々と開けています。その感覚を広い朴の葉が風にそよぐ景に凝縮して表現してありますね。二句目は相当、俳句に詳しい人ではなくては詠めない句ですね。「蕉翁」芭蕉のイメージは孤高の人という感じですが、死ぬまで方々を旅した身を案じてくれた兄、姉妹がいたのです。「奥の細道」の原本は逝去前に兄に託され、兄が大切に保管してくれていたから、後世に伝わり私たちが読むことができているわけです。下五を「ねぶの花」で結んでいるのも、芭蕉の「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」を踏まえた表現です。象潟の美景の中、雨にぬれる合歓(ねむ)の花は、眠りについた西施の面影を彷彿とさせる、というような句意ですが、西施とは越の国から呉の国王に献上された中国古代の美女のことです。芭蕉は「松島は笑うようで、象潟は恨むようだ。その土地は悲しい境遇の美女が憂いに閉ざされているようだ」と述べています。三句目から五句目は独特の視点と類型に陥らない表現がされていますね。三句目は下五の「国境」という視点、四句目は「懸命」さと「翳濃き」という表現、五句目は千里を飛ぶ「羽衣」の喩で「青葉風」に軽やかさを与える表現ですね。
〇 武良竜彦の五月詠
森に眠る人ゐる起こすなよ若葉
青葉木菟墳墓に隠す偽史のあり
蟾蜍億光年の一歩かな
【自解】(参考)
一句目は森閑と何もかもが眠りについていたような森が、若葉の季節で明るくにぎやかになってゆく様を比喩的に表現しました。二句目は考古学者による発掘が禁じられている古墳群があることを詠みました。天皇家由来の墳墓で、発掘されて新事実が出てきたら何かまずいことでもあるのではという疑念すら封じ込められている「聖域」が日本にはあるのです。三句目、私たちが今見ていることは、今だけのことではなく、宇宙の始まりから連綿と続いている歴史的一瞬でもありますね。
2「あすか塾」31 2021年8月 ※ 八月の合評会は無く、武良による鑑賞資料のみ
⑴ 野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による鑑賞例―「風韻集」7月号作品から
―独自の視点・視点の逆転・類型からの脱却・個人的な感想から普遍的視座への跳躍。
※印は「あすかの会」参加会員
七色の囀藪をふくらます 大澤游子
はっとするような新鮮な表現の句ですね。囀りという音が七色で、それが藪をふくらませている。春の植物の成長の勢いまで感じられます。
空の青上枝に残花ゆるぎなし ※ 大本 尚
澄み切った青空に桜の残花がくっきりと見えている景が浮かびます。「上枝」で作者が見上げていることがわかり、「ゆるぎなし」が花の様であると同時に、作者の心が明確に投影されていることを感じる表現ですね。
飛花落花風の形のままにあり ※ 奥村安代
夕桜詩となるまでを佇めり 〃
一句目、見えない風の形が花びらの流れるさまでわかる、という景ですが、それを「形のままにあり」と表現したところが独自の視座ですね。二句目、「詩となるまでを」の「を」でゆったりとした時間経過を表わし、自分の心の中での熟成の時間とした点が独自ですね。
妻の忌や香煙に添ふ花吹雪 加藤 健
花びらが「香煙」の流れと同じに流れたという景ですが、それを「添ふ」と表現して、亡き妻に寄り添う想いが表現されていますね。
若布干す海の光を滴らせ ※ 金井玲子
潮水が滴っている景ですが、それを「光」に転換したのが独自の表現ですね。
水口に旅の終りを花筏 坂本美千子
水口(みなくち、みずぐち)は特に水田における用水の取り入れ口を指す言葉ですね。稲作が産業の中心を占めていた日本ではとても大切なもので、地名や名字としても用いられる言葉です。この句は花筏の「旅」の終点に「水口」を描いて、その歴史的感慨まで詠みこんでいますね。
大空に風の椅子ありいかのぼり ※ 鴫原さき子
まるで大空に大きな椅子があって、そこに風が憩うているようだという独自の視座があります。
人声の重なるところ噴井あり ※ 白石文男
噴井の周りに人が集まって楽しく会話しているという景ですが、それを「人声の重なるところ」という独自の視座による表現がしてありますね。
屋根ごしに枝垂柳の五十年 摂待信子
下五を「五十年」という時間の堆積表現に転換したのが独自の表現ですね。
梅の実や時確かめる朝なりき 服部一燈子
機械的な時計ではなく、季節の中で変化を見せる「梅」という植物にした点が独自の視座ですね。自然を体感し噛みしめて生きている姿勢まで感じられます。
さまざまな楓若葉や緑舟忌 本多やすな
「あすか」の創設者である師への敬意を含めた「挨拶句」ですね。「さまざまな楓若葉」と、その弟子たちの多様な個性の集いまで表現されています。
花万朶風の吐息とたはむれて 丸笠芙美子
吐息と戯れる、という表現に独自の視点と言葉選びの技がありますね。
擬宝珠の裏で手を振る師の笑顔 三須民恵
この擬宝珠は、欄干飾ではなく季語のキジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシでしょう。山間の湿地などに自生する多年草で、食用となり花が美しく、日陰でもよく育つため栽培されています。野生ではなく自宅の庭に咲いているのでしょう。「裏で手を振る師の笑顔」だとすると、背が花の丈より小さい妖精を幻視しているような表現で、亡き師への親しみと敬愛の籠る表現ですね。
鳥の恋一瞬窓辺過去となる ※ 宮坂市子
白木蓮傷つきさうな空の蒼 〃
一句目、たった今を一瞬で「過去」にしてしまう、今このときを生きるものたちの命の輝きを、その一瞬の筆さばきで捉えたような表現が独創的ですね。二句目、このうえもない繊細な心の動きを感じますね。
水底に青葉の山を抱く湖 柳沢初子
湖に青葉の山が映じている景ですが、それを「水底に抱く」という表現したのが独自の視座ですね。
懐に風を馴染ませ六月来 矢野忠男
風を懐に馴染ませる、まるで慈しんで迎えているような視座が独創的ですね。
手掘りの隧道へ村営バスの梅雨ダイヤ 山尾かづひろ
雨季の特別ダイヤなのでしょうか。常設ダイヤであっても、こう表現することで、この村のこの手掘りの隧道が特別に愛されていることが伝わる句ですね。
老いてまだ叱る人欲る遍路杖 渡辺秀雄
高齢者が鬱陶しがられるのは、独善的な傾向が強まるからでしょう。老いてなお自分を叱り、糺し、導いてくれる心の柔軟さの表現に、作者の人柄まで窺える句ですね。
ふらここや向こうの山の艶めきて 磯部のり子
向こうの、という丁度いい距離感、艶めくという独特の輝きの表現、この二つにブランコの躍動的なリズムを加えた高度な技の光る表現ですね。
耕しの土に濃淡午前過ぐ 伊藤ユキ子
農場の風景の時間経過だけでなく、そこで働く人の丁寧な仕事ぶりまで見えるような表現ですね。
花見には花見の歩幅ありにけり 稲葉晶子
花見という特別な時間、その独特な祝祭感が巧みに表現されていますね。
囀りや迎へてくれし野面積 ※ 大木典子
野面積という自然石を加工しないで割ったまま積んだ石垣が、そこを訪れた自分たちを迎えてくれたという表現ですね。そう表現することで空気が和らぎ、鳥たちの囀りも優しく響き渡るようです。
〇野木メソッド「ド」「ハ」「ス」による鑑賞例
―「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」7月号)
中くらゐの幸せ乗せてボート漕ぐ 村田ひとみ
手漕ぎのボートサイズの幸せ感の表現が独自でいいですね。二人が向かい合って座っている景も見えますね。
墨堤の花に入る鳥蜜に酔ふ 石坂晴夫
墨堤と言ったら隅田川の堤の異称で、「墨堤遊春の客」という言い回しがあるくらいですね。この句はその土手の花の蜜を吸いに鳥が来ているという優雅な景として描いたのが独創的ですね。
人物画友に似てをり昭和の日 稲塚のりを
友に似た人物画に、共に過ごした昭和という時間を感受している表現ですね。街路の似顔絵師の絵を通りがかりに見ているのでもいいですし、美術館で高名な画家の絵をみているのでもいいですね。
花筏流れ流れて浄土かな 近藤悦子
花筏の行方は知れません。静かに川底の塵となったり、流れ流れと海の藻屑となることなどが想像されます。それを「浄土」への足袋と見立てたことに、救済感がありますね。花びらの足袋を人間の一生に見立てているような雰囲気もたち現れますね。
花いっぱい妻の手縫いの布の端 須貝一青
上五の「花いっぱい」で先ず、屋外の繚乱たる桜の景が浮かびます。そして視点が室内に切り替わり、裁縫をする妻の手元へとズームしてゆきます。そこにも満開の桜模様を発見します。祝祭的な空気感に包まれた表現で、作者の妻への優しい眼差しの溢れる表現ですね。
⑵ 同人句「あすか集」7月号作品から ※ 評例なし 自分で考えてみましょう。
―特に野木メソッドの「ド」「ハ」「ス」の視点が明確に感じられる句を選びました。
独特の視点・視点の逆転・類型からの脱却・個人的な感想から普遍性への跳躍。
以下の句のどういう表現にそれらが感じられるか考えてみましょう。
リハビリの心の弾む梅雨晴間 鈴木ヒサ
人影を水面に浮かべ植田かな 鈴木 稔
コロナ禍の静寂を落花急ぎをり 砂川ハルエ
花苺花壇のまん中幼き日 高橋光友
青葉潮百歳までのスケジュール 滝浦幹一
北鎌倉樹木葬には花木五倍子 忠内真須美
心電計針の乱れや青嵐 立澤 楓
こいのぼり尾っぽの先で空なでて 千田アヤメ
葉桜を飛び出すジェットコースター 丹羽口憲夫
雀の子喉元見せて水溜り 沼倉新二
群青を傾ぎてすべるヨットかな 乗松トシ子
囀を目で追ひかけて地の吐息 曲尾初生
母の日や園児は笑顔のママを画く 増田綾子
青春は夜行列車の登山かな 松永弘子
鶯のおぼつかなくて鳴きかわす 緑川みどり
梅雨兆す一つの光まとふ庭 村山 誠
朱の傘の中に白無垢菖蒲園 吉野糸子
つばめ来ぬ免許返納せし車庫へ 飯塚昭子
つばくらめ紺碧の空に十字切る 大谷 巖
横腹に園児の名前鯉のぼり 小澤民枝
花筏たどりつきたる竜宮城 金子きよ
顔知らぬ祖父母の話月朧 城戸妙子
生業を問へど無言や蟻の列 佐々木千恵子
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