あすか塾 2021年(令和3)年度 4
【野木メソッドによる鑑賞・批評の基準】
◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、心情内容は深い俳句。(意志・悟性の力)
◎ 鑑賞・批評の方法
鑑賞する句の「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」に注目して。
※ ※ ※
(「あすか塾」12月)
1 今月の鑑賞・批評の参考
◎ 野木桃花主宰句(「青瓢」より・「あすか」二〇二一年十一月号)
ひとことをためらひがちに十三夜
耳寄せて音の出さうな青瓢
ふと人の気配木の実の落つる音 (「悼む 石坂晴夫様」の前書き)
秋気澄む恩師の句集繙く夜
【鑑賞例】
一句目、陰暦九月十三日の夜。この夜は八月十五夜の月に次いで月が美しいといわれ、「のちの月」と呼んで宴が催されました。八月十五夜の月を芋名月と呼ぶのに対して、豆名月・栗名月といいます。八月は満月なのに、九月は満月になる前の十三夜の月を愛でるというのが、いかにも昔の日本人の情緒ですね。十三夜といえば、樋口一葉の同名小説の不幸な結婚をした「お関」を通して、封建的な社会の矛盾を女性の立場から描いたものを想起しますね。その辺りの女性特有なくぐもった思いも含めた表現の句ですね、二句目、これは人の顔ほどの大きさにもなる「青瓢」ぴったりの表現ですね。三句目、哀悼の意の籠った句ですね。「あすか」の俳人仲間の石坂晴夫さんへの悼句ですね。「あすかの会」にもご参加いただいていて、古語を発掘して詠む熱心な姿が目に浮かびます。ご冥福をお祈りします。四句目は亡き恩師への句ですね。三句目と同様、こうして死者は俳人の魂に生き続けます。
〇 武良竜彦の九月詠(参考)
第五福竜丸を陸に引き揚げ夏去りぬ
文明という洪水や秋に入る
(自解)(参考)
一句目、第五福竜丸は一九五四年三月一日、ビキニ環礁で行われたアメリカ軍の水素爆弾実験により発生した多量の放射性降下物(死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船。一九六七年に老朽化により廃船となり、東京都江東区夢の島の隣にある第十五号埋立地に打ち捨てられていましたが、東京都職員らによって再発見されると保存運動が起こり、現在は一九七六年開館の東京都立第五福竜丸展示館(夢の島公園)に永久展示されています。原水爆禍はかくも忘れられ易いという事例のようです。二句目、洪水のような文明の氾濫というのは、昔は比喩でしたが、今は文明が洪水を引き起こしています。
2「あすか塾」34 2021年12月
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」十一号作品から
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。
水無月やお日様を待つ亀の池 金井 玲子
梅雨の長雨の季節、お日様が恋しくなるのは陸の上の人間や生きものだけだと思いがちですが、水生や両生の生き物たちも同じではないか、そんな人間中心の感覚をひっくり返すような表現ですね。
川原石拾つて熱し原爆忌 坂本美千子
川原の焼石を拾って、その思わぬ熱さにびっくりしているようです。それを原爆忌と取合せたのが効果的ですね。
町担ぎ時代を担ぎ神輿ゆく 鴫原さき子
時計草ダリの時間に迷い入る 鴫原さき子
一句目、神輿担ぎのリズムに乗せたような表現が効果的ですね。時間軸を呼びこんだのもお見事です。二句目、時計草がダリの時間迷宮に誘っているような表現で面白いですね。
秋澄むや沖に影おく離れ島 白石 文男
中七の「沖に影おく」という表現がすばらしいですね。ぽつんと一つだけ。孤独で寂しげです。空気が澄んでくっきりとその輪郭まで見えていますね。作者の心の投影でもあるのでしょう。
白鷺が佇つ堰提に魚道あり 摂待 信子
堰はさまざまな目的で河に作られた水流の一部を堰き止める施設ですね。そこにぽつんと白鷺の姿を見つけました。そこには魚道が作られていて、白鷺の餌場でもあったという発見の句ですね。
思ひ出を母と分け合ふ夜長かな 高橋みどり
無我といふ軽きものを得草の花 高橋みどり
みどりさんは両親の死を短い期間に体験されたと「あすか」の「編集後記」に書かれていました。ですから一句目の「母」は亡くなって、みどりさんの心の中にいらっしゃるのですね。つまり母と共有する思い出を語りあっているのですね。二句目、両親の死に続いて孫の誕生も体験されました。これは孫を腕に抱いたときの感慨の句で「無我という軽きもの」という表現が巧みですね。
満月や雲を縫う時光る闇 服部一燈子
鮮やかな表現ですね。もちろん闇は光をのみ込んで暗いから闇ですね。その闇を見事に輝かせる一瞬を描き出しました。満月の光線で青白く輝く夜景が、雲が過って闇に沈みます。その入れかわりの一瞬、逆に闇自身が輝いて見えた、という巧みな表現ですね。
わけありと書かれ売られるさくらんぼ 本多やすな
「訳アリ」とは人事や人の複雑な事情が隠されていることをいう言葉でしたが、いつの間にか、何処かに欠陥があるので安売りされる商品のことを指す言葉に変化してきています。そのことに何か違和感を抱いてしまう感慨の句ですね。共感します。
秋蝉の後追ふやうに日暮けり 丸笠芙美子
ひとしきり夕日にひたる酔芙蓉 丸笠芙美子
一句目、最近は都会では夜鳴く蝉もいるようですが、普通、蝉は夜には鳴かないものです。その鳴き止む時間が夕暮れで、それを詩的に表現した句ですね。二句目、これも夕映えの中の酔芙蓉の彩の変化を詩的に表現した美しい句ですね。
鉛筆の先が躓く九月尽 三須 民恵
本当は躓いているのは作者の心でしょう。それを暗喩的な具象表現にして、効果的ですね。おそらく推敲の迷いの中でいる心地でしょうか。
青芒刈るや荒縄もて括る 宮坂 市子
荒使いせし手を撫でて短き夜 宮坂 市子
二句共、生きて今ここに「在る」ことの存在の手応えを感じる実存俳句のお手本ですね。刈り取った青芒を束ねる荒縄の質感、農作業で荒れた手の手触り、どれもその実感が読者の心に迫ります。
校庭に芋づる這へり敗戦忌 柳沢 初子
現代の景から敗戦後の食糧事情が悪化した時代の景へと、まさに「芋づる」式にたぐり寄せた表現がお見事ですね。
ノーサイド負んぶ飛蝗がまかりでる 矢野 忠男
とんぼとんぼ閼伽の水桶赤とんぼ 矢野 忠男
一句目、伯仲した試合が終わり、敵味方が相手の善戦を讃え合う、緊張のほぐれる瞬間ですね。この緩和の雰囲気をユーモラスに「負んぶ飛蝗がまかりでる」と表現して見事ですね。二句目、「閼伽(あか)」は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。インドでは来客に対し足を浄めたり、食事の後口をすすぐための水が用意される風習があり、仏教に取り入れられ仏前や僧侶に供養されるようになったといいます。この句はまるでそんな僧侶のように「赤とんぼ」がやってきているようだと見立てた表現ですね。「とんぼとんほ」が童唄のような趣がありますね。
石垣鯛干して駐在パトロール 山尾かづひろ
海辺の小さな漁村か、小さな島の村落にある駐在所が目に浮かぶようです。仕事と職場の境目がなく重なり合う、どこか長閑な景ですね。住民と駐在警官が互いを熟知し合っている平和な空気を感じますね。
火蛾狂ひ夢の一期の舞ひおさめ 渡辺 秀雄
蛾などの昆虫は外灯など光に集まってくる習性がありますが、この句は自分を燃やしてしまう火に集まってきて、その周りを飛んでいるようです。それを上五で「火蛾狂い」とし、その自滅的な舞を「夢の一期の舞ひ」とした表現が効果的ですね。
鉢植ゑの胡瓜「し」の字に朝の影 磯部のり子
胡瓜の影と表現しないで、「し」の字の形象を間に挟んで、「朝の影」と表現したのが効果的ですね。
震度6軒の氷柱が落ちつづく 伊藤ユキ子
これは北国か東北地方ではないと見られない景ですね。透明な槍が降ってくるような迫力と怖さがありますね。
植田村水の匂ひに眠り入る 稲葉 晶子
かなかなの声は濡れ色朝ぼらけ 稲葉 晶子
一句目、水が張られた田圃の、あの水平感の広がり。夜が更けてゆく静けさ。それを村全体の眠りの表現にしたのが効果的ですね。二句目は蝉の声が象徴的な表現になっていますね。蝉の声は乾燥した響きの印象が強いですが、それを「濡れ色」と意表を衝く表現にしたのが効果的ですね。
「尻こすり坂」とふバス停や轡虫 大木 典子
京浜急行線には長いトンネルになっている所があります。その丘に実際にある坂の名前が「尻こすり坂」です。それほど急勾配の坂なのです。京急系のバス路線の停留所名にもなっています。下五に「轡虫」という季語を置いて、その鳴き声の響とともにユーモラスな効果を上げた表現ですね。
踏み込めぬ親子の絆百日紅 大澤 游子
上五の「踏み込めぬ」を読んだとき、親子の間でも踏み込めない、心の様の表現かと一瞬思いますね。それが他人からは計り知れない、親子の固い絆の表現だと判ったとき、読者は軽い裏切り感と、小さな驚きを感じるでしょう。親子の固い絆を感じます。百日紅の下五の季語も効いていますね。
大太鼓一打天へと佞武多発つ 大本 尚
「佞武多」の原義は「ねむた」で、その睡魔を払う鉦太鼓を鳴らすのが「佞武多祭」なのですね。まさにその原点に戻ったような眠気を吹き飛ばす表現ですね。
新涼の谷戸風のこゑ水の音 奥村 安代
送り火の尽きたる小路闇深む 奥村 安代
一句目、やさしい風のそよぎと水の音の、リズム感のある表現が心地いいですね。二句目、路地の角々に焚かれていた送り火が消えて、周りの闇が濃くなってゆく、そんなゆっくりとした時間の流れも呼びこむ表現ですね。
銭洗ふ笊に秋日をかき混ぜて 加藤 健
本当は掻き混ぜられているのは銭ですが、「笊に秋日をかき混ぜて」とした表現が効果的ですね。弁財天系の社の中にある澄んだ池や秋の空気感も取り込まれていますね。
〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」十一月号から)
かつて銀河見し東京の瓦屋根 村田ひとみ
マンションの聳え秋灯つぎつぎと 村田ひとみ
二句共、都会、特に東京が俯瞰的に捉えられている二句ですね。一句目は今のように矩形のビル型家屋ではなく、瓦屋根が多かった時代には、東京の夜空にも銀河が輝いていたという時代の証言の句ですね。二句目は今現在の東京の景で、横の視界を失って縦型の建物が空間を閉ざしています。その一つ一つの窓に灯が点りますが、縦に連なる灯の景ですね。見事な視点です。
胡麻香る日向の国の冷し汁 近藤 悦子
長寿眉にひそむ反戦生身魂 近藤 悦子
一句目、夏の冷し汁は宮崎県が有名ですね。熊本県にもある夏の風習です。「日向の国」という古名で表現したのが歴史を感じさせて効果的ですね。二句目、長寿眉は仙人眉ともいい、長寿の人の深い見識も含めた尊敬の言葉ですね。そのぶれない反戦魂の表現にぴったりです。
止まれば祈る姿に糸蜻蛉 須貝 一青
一代で空家に秋風五十年 須貝 一青
一句目、前肢を対にして揃えるような姿勢で止まる姿を「祈る姿」と表現したのが効果的ですね。蜻蛉を精霊の使いと見做す風習も詠み込まれているかのようです。二句目、何代にも亘って受けつがれ住み続けられた家が、後継者が途絶えて空家になっている景はよく見る「自然な」ことの成り行きを感じますが、一代でそうなるという急激な変化に、どこか不自然な時代性を感じますね。人生と社会のサイクルが不自然に急速化していることの、違和感の表現が見事ですね。
⑵ 「あすか集」(「あすか」十一月号作品から)
秋茄子にキューと声してためらひぬ 滝浦 幹一
茄子は水洗いしているとき、意外と可愛らしい音を立てることがあります。ごめん、乱暴だったかなと、その音に手を止めた瞬間を詠んだ、心優しい表現ですね。
短冊に揺れる美文字や夏の風 忠内真須美
七夕の短冊か、俳句展示の短冊かわかりませんが、そこに清々しいほどの筆遣いの美文字を発見したという句ですね。下五の「夏の風」で爽やかな一陣の風が吹き抜けているようです。
背景の気になる動画九月尽 立澤 楓
本当は違う内容の動画を見ていたのだが、そのメインの内容と無関係のものや、様子が背景に映り込んでいて、それに気を取られてしまったのですね。今年の九月は何か慌ただしく、気が散る様々な出来事に囲まれて過ごした一か月だったなーという感慨の表現ですね。
先生と交わす挨拶黄のカンナ 千田アヤメ
互いに信頼関係のある先生と生徒の間で交わされる、明るく元気な挨拶の声と姿勢は清々しいものがありますね。下五の「黄のカンナ」がそれに相応しいですね。
大切なことは小声でふかしいも 丹羽口憲夫
端座して笑わぬ男きぬかづき 丹羽口憲夫
一句目、ふかしいもを挟んでの親しげな距離の近さ、秘密めく大切なことを共有する間柄まで感じさせる句ですね。二句目、見かけはゴツゴツしているような「きぬかづき」の句ですが、昭和の男に違いないと想像される武骨で無口なさまがユーモラスですね。作者の温かい眼差しも感じますね。
野良猫の心閉ざして鬼胡桃 沼倉 新二
犬もそうですが、野性の野良猫や、一度人間に捨てられたことのある猫などは、人間に対して警戒感が強くなり、なかなか懐かないそうです。下五の「鬼胡桃」の硬くゴツゴツした感じで象徴的に表現したのが効果的ですね。
秋ともし古書店奥の大和綴 乗松トシ子
大和綴(やまととじ)は和書の製本の一様式ですね。だからこの古書店は日本の古書専門店のようです。古びた和紙の匂いがするような風情のある句ですね。
夏足袋を裏返し干す祖母の顔 林 和子
和装の機会が減って、夏足袋自身があまり履かれなくなっていますね。裏返すとき指先の部分の細い棒使っていました。その動作をしている祖母の姿が浮かびます。
ビル街を飛ぶとんぼうに空遠し 幕田 涼代
ビル街で蜻蛉を見かけることも少なくなりましたが、たまに見かけると飛べる空間が狭くて窮屈そうに見えます。それを「空遠し」のひとことで見事に表現していますね。
喧嘩後に笑みて林檎を喰ふ母娘 増田 伸
緊張と緩和。それも母娘の他愛のない口喧嘩の後のようです。喧嘩するほど仲が良いともいいますが、その雰囲気を林檎の紅さが象徴していますね。
盂蘭盆会小花飾りて姉を待つ 緑川みどり
この姉は故人なのでしょう。お盆でその魂迎えをしているようです。「小花飾りて」という言い回しに、亡き姉への敬慕の思いが滲んでいますね。
古書店の奥に小さき扇風機 村上チヨ子
昭和の古書店の風景ですね。まだ冷暖房設備が気軽に使えなかった時代でしょう。それも古びた小型の扇風機が、古書棚と通路にやさくし風を送っている景が目に浮かびます。
新涼や手相ゆるりと拡大鏡 望月 都子
「手相ゆるりと」という表現が、ゆったりとした感じでいいですね。占い師の動作は威厳を保つためにスローモーションですね。
海越える恋は一途に秋の虹 阿波 椿
国際恋愛でしょうか。国と国の間に架かる壮大な虹の表現がいいですね。
衣被笑ひの絶えぬ子沢山 安蔵けい子
衣被は初秋の季語で里芋の子芋を皮のまま茹でたものですね。熱いうちに指で芋をつまみ、つるんと中身を取り出して、塩をふって食べます。旧暦八月の十五夜に団子などと一緒に供えます。女性が外出の際、頭から小袖をかむっていた姿を想像させるところからこの名がついたそうです。地方によっては安産や多産の象徴とするところもあります。この句はその雰囲気を踏まえた表現ですね。
剛力にきしむ木道秋高し 飯塚 昭子
剛力は強力とも書き「ごうりき」と読みます。荷物を負って運搬する人のことですが、現在は登山者の荷物を運びながら道案内をする人を指すようです。昔は修験者が各地を回る際、その供をして荷物を担いでいく者のことを言いました。この句は現代ですから、登山案内人の荷の重さで木道が軋んでいるようです。尾瀬などの長い木道と澄んだ空が目に浮かびますね。
終電の後は伸び伸び鳴くちちろ 小澤 民枝
駅近くの草叢が目に浮かびます。電車が発着するたびにその音でちちろ虫たちの声が途絶えて、また鳴き始め、それを繰り返しているのですね。のどかな秋の風物ですね。
食べ尽し身をさらけだす青毛虫 風見 照夫
食欲旺盛な青虫が、自分がいる周りの葉をみるみる間に食べ尽し、自分の姿が間丸見えになった、という景で、どこかユーモラスです。その食べっぷりは見ていて飽きません。
ごん狐生れし里に曼殊沙華 金井 和子
新実南吉の童話「ごんぎつね」のことを詠んだ句ですね。人間と心やさしいごんぎつねの、哀しい心のすれ違いのお話です。土手に咲く曼殊沙華の赤が悲しい色に見えます。
敗戦忌歩道の我に水しぶき 金子 きよ
歩道を歩いていて、車が跳ねた水しぶきをかけられる体験なら、だれもがしたことがあるでしょう。戦争自身が一般の人には、そんな迷惑なことに巻き込まれたという感覚だったのが本音でしょう。その思いが巧な比喩で表現されていますね。
あるなしの風をひろひて桐一葉 城戸 妙子
あるかなしかの微風を「ひろひて」という表現で、桐の葉の大きさ、面的な広さを巧に表現してありますね。
占領下台風の名はアメリカ人 斎藤 勲
名月や雲の回しで土俵入り 斎藤 勲
一句目、戦中は英語が敵性語として言い換えが行われましたが、戦後の占領政策の中では、逆のことがいろいろ起こりました。台風の名がたとえばキャサリーン台風というように呼ばれた時代がありました。二句目、まるで名月が雲模様の回しで土俵入りをしているようだという、見立て詠みが楽しいですね。
山眠る鍵屋は商品入替中 佐々木千恵子
鍵もいろいろ進化して、防犯対策が強化された、なかなか破りにくいものが増えてきていますね。鍵屋さんもそのような時代の要請で、古い鍵を処分して新しい鍵を仕入れ直しているのでしょう。それと「山眠る」という季節の変り目の季語と取り合わせたのが効果的ですね。
中天を睨みて蟇の動かざる 杉崎 弘明
蟇の動きは超スモーションです。体つきの角度でまるで天を睨んで、何か思案しているように見えます。その様を捉えた句ですね。
手をつなぎ測る大樹や秋の草 鈴木 稔
大樹の幹の大きさを測るとき、複数の人間が両手を広げて手を繋ぎます。計測器などを持っていない、登山の途中で見つけた大樹の大きさを、みんなで確かめているようです。
闇市となりし参道終戦日 砂川ハルエ
空蟬のいのちあるごと見つめおり 砂川ハルエ
風鈴の音に夫恋ふ夕間暮れ 砂川ハルエ
白桃をあます掌一人の居 砂川ハルエ
今月のハルエさんは頑張りました。みんな秀句ですね。一句目、神聖な参道が闇市となった戦後の混乱期、二句目、まるで抜け殻自身に命があるような蝉の佇まい、三句目、リーンリーンという巡礼者の鈴のような音に、在りし日の夫に思いを寄せています。四句目、孤独をもてあます気持ちを白桃に象徴させて巧みに表現しました。
パソコンの操作に大汗オンライン 高橋 光友
パソコンの普及が始まったのが、中年になってからの時期にあたる年代は、なかなか電子機器を若者たちのようには使いこなせません。「大汗オンライン」と韻を踏んだ表現で、その悪戦苦闘ぶりをユーモラスに表現しました。
☆ ☆
「あすか塾」11月)
1 今月の鑑賞・批評の参考
◎ 野木桃花主宰句(「暮の秋」より・「あすか」2021年10月号)
かなかなの声のかぶさる勝手口
言の葉のルーツを探る流れ星
里山に孤高の差羽風を切る
団塊の耳聡くをり暮の秋
たわたわと熟柿のゆらぎ夕間暮れ
【鑑賞例】
一句目、朝夕に甲高い声で「カナカナ」と鳴く蜩の声を勝手口で聴いているという表現ですね。暮しの一コマが夏らしい音響を伴って表現されていますね。二句目、「流れ星」に言葉のルーツを思うという表現は独特ですね。他に縁切り星(えんきりぼし)落ち星(おちぼし)飛び星(とびぼし)流れ星(ながれぼし)抜け星(ぬけぼし=岡山方言。流星が消えないうちに唱えると幸福になれるというまじない言葉)走り星(はしりぼし)星降り(ほしくだり=下方へ流れていく流星)星の嫁入り(ほしのよめいり)奔星(ほんせい)夜這い星(よばいぼし)婚星(よばいぼし)などがあります。そんな日本語の豊かさに一時思いを巡らせている句ですね。三句目、「差羽=さしば」は鷹の仲間で絶滅危惧種に指定されている渡り鳥。木や電線など高い所に止まり獲物を狙っている姿が見られます。その姿を「孤高」と表現されています。秋の澄んだ空気感も感じますね。四句目、七十歳半ばになろうとしている団塊の世代。肉体的に衰えてきて難聴ぎみになっている人も多いはずですが、この「耳聡く」は心の「聴力」というもので、いろんなものごとに関心を失わず心を生き生きと働かせて暮している、という自負の表現でしょう。五句目、揺れ、ではなく「ゆらぎ」という言葉でひらがな表現されているのが効果的ですね。明暗のゆらぎのひと時を全身で感じ取っている表現ですね。
〇 武良竜彦の八月詠
TOKYOという熱源の秋暑かな
万巻の書の黙として秋暑かな
糧秣と呼べば兵士の残暑なお
(自解)(参考)
一句目、この夏の首都圏の暑苦しさはコロナ禍の中で強行された五輪の影響でもあったでしょう。二句目、たくさんの叡智の詰まった書を読もうとする人が減っています。読書という慣習すらない人が多数派を占めて……。三句目、同じ食べ物なのに呼び方で意味が違ってしまいます。「糧秣」とはどこか軍事用語めいていて、飢えに苦しんだ大戦下の兵士の労苦を思い浮かべてしまいます。
2「あすか塾」33 2021年11月
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」9月号作品から
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。
老鶯と言はれてからの艶やかさ 加藤 健
「老鶯」は春が過ぎてから鳴く鶯。季節外れとか、老いたという意味で使う人がいますが、実は鳴き方がこなれて巧みな鶯というのが本来の意味。この句では、それが暗喩的に使われて、作者の境涯的心情が伝わりますね。
旗立てて葦簀賑はふ路地の奥 金井 玲子
昔は町の路地では見かけた風景ですが、今も残存しているのなら貴重な昭和的風情ですね。「旗」は紺地に白で「氷」と染め抜いた夏場かぎりの氷屋さんの旗でしょうか。
診察の触れて五分や夕立雲 坂本美千子
診察室でパソコンの画面ばかり見て、患者を見ないで会話する医者がいますね。そして診察時間も短くて「二・三分」程度。何かもやもやした気分になります。それを「触れて五分」と、ささやかな抗議の思いを込めて表現されているように感じました。
早立ちの逸る車窓に虹立ちぬ 鴫原さき子
「逸る」という言葉で、何処かへ急いで車で出かけようとしている情況かもしれないと想像されますね。それをまるで、虹が諫めるかのように「落ち着いて、深呼吸して、空でも見上げてごらんなさい。いいお天気ですよ」と言っているかのようです。
舌代の筆鮮やかに初秋刀魚 白石 文男
「舌代」は「ぜつだい」と読み、口上のかわりに文書に簡単に書いたもの。「申し上げます」の意で、挨拶や値段表などのはじめに書く語。「しただい」とも言います。その古風な言い回しを使って「初秋刀魚」の季節感を受けとめている作者の心が伝わりますね。
初生りの西瓜にそつと藁を敷く 摂待 信子
家庭菜園の域を超えて、しっかり西瓜を栽培している人の細やかな視点の句ですね。西瓜、南瓜、瓜などの大玉で地面の上で育つ作物は、下に藁敷をしたり、日焼け防止の被せモノをしたりします。
人の訃や色無き風を身の内に 高橋みどり
単純な命がここに秋澄めり 高橋みどり
一句目、みどりさんは「喪の仕事=モーニングワーク」を俳句で詠むことに取り組まれているようです。季語の「色無き風」が効果的に使われていますね。二句目、反対にこれから育ってゆく命のさまの、ありのままの姿が眩しく感じられているようです。
長雨や頭を垂れる出穂の波 服部一燈子
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があるように普通は結実後のことですが、この句は「長雨」でそうなっているのですね。被害を案じる心が、そうは言わなくても伝わるのが俳句ですね。
心の荷風がほどいて夕涼み 本多やすな
「風がほどいて」が巧みで効果的な表現ですね。日が暮れて涼しい風に包まれている安堵感ですね。
荷が重いという言い方はしますが、その荷をほどくと表現して独創的ですね。
紅薔薇散りて己をときはなつ 丸笠芙美子
蝉時雨近くて遠き向う岸 丸笠芙美子
一句目、「紅薔薇」が心の中の拘りのようなものの象徴として、二句目、「向こう岸」が届かぬ願い、夢、ここではないどこかという希望の地などの象徴として表現されています。俳句を象徴詩のように表現する点では、「あすか」同人では芙美子さんの右に出る人はいないでしょう。
羽村堰ポツンと一人秋の風 三須 民恵
「羽村堰」は多摩川の河口から上流約五四キロメートルに位置し、玉川上水と同時に建設されました。江戸の人口が増えたため幕府が多摩川の水を江戸に引く計画を立て、最終的には現在の羽村地点が取水口になった歴史ある堰です。この句は、その堰を眺めている「私」が「ぽつんと一人」とも読めますが、歴史に晒された「羽村堰」に孤独の陰を感じて詠んでいるようにも感じられます。
案内状手に白南風に身をまかす 宮坂 市子
「案内状」の内容が書かれていなくても、「白南風に身をまかせる」ように、その場所へ赴こうとしている心の様が伝わります。「案内状」が個人的であることから普遍性をもったものに跳躍していますね。
翡翠の一閃池を目覚めさす 柳沢 初子
境内に千の風鈴千の風 柳沢 初子
一句目は鳥という野性の命の営みの一瞬を捉え、二句目は鳴り物とそれを揺らす風を「千」という数で表現し、その音響ゆえの境内の空間的な広がりと普段の静けさを見事に捉えた表現ですね。
魚信なき竿先じっと蝉時雨 矢野 忠男
「魚信」とは、釣りで魚が餌をくわえたことが、竿や糸などから伝わってくること、「あたり」ともいいますね。一定の音量で響いている「蝉時雨」。その中で竿の先に意識を全集中させている緊張感が伝わりますね。
サーカスに売らると昔夕焼雲 山尾かづひろ
昭和の伝聞、言い伝えを回想している表現ですね。実際に江戸時代から、人攫いと人身売買が横行していたのです。その末期が昭和という時代でもありました。今の若い人には想像もつかない世界でしょう。下五の「夕焼雲」が哀愁を帯びて、効果的ですね。
蜘蛛の囲にオゾンホールの話かな 渡辺 秀雄
「蜘蛛の囲」と「オゾンホール」の取り合わせが見事ですね。「蜘蛛の囲」は酸性雨で穴が空き、「オゾンホール」は大気中の二酸化炭素の増加によるものです。危機感が身近になる表現ですね。
スカートを撥ね上げ銀輪夏燕 磯部のり子
青春映画の一コマのように爽やかですね。夏燕のスピード感との取り合わせが効果的です。
看護師と目と目の会話さやけくて 伊藤ユキ子
先月に続いてユキ子さんはご闘病中のようです。声を出せない状態のようですから、病状は重く辛いようですが、それをこのように爽やかな一コマとして詠まれて、胸にしみます。
そら豆の一つにひとつづつ個室 稲葉 晶子
蚕豆の内側は真綿を敷き詰めたように、ふかふかです。列車か客船の豪華特別室のようですね。個室に見立てて「ひとつづつ」とひらがな表記にしたのが効果的ですね。
日の丸とアメリカ国旗と浜木綿と 大木 典子
日章旗、星条旗、浜木綿。三つの名詞だけで詠んで、それ以上を語らない。読者はあれこれ推理を働かせて「語り」たくなります。それぞれの思いが交錯した五輪でした。
せせらぎの育む大樹秋気澄む 大澤 游子
「せせらぎの」の「の」が柔らかくていいですね。地球の万物は水の流れが育んでいる、というのは真理ですね。下五の「秋気澄む」も爽やかです。
現世をかくんと留守にして昼寝 大本 尚
「かくんと」という擬態語が独創的ですね。脱力感から解放感へと「場」の空気が一変しているような効果がありますね。
夏草に寝て底抜けの雲の峰 奥村 安代
夕さりの風の連れゆく糸とんぼ 奥村 安代
一句目、寝転んでいる背中側の「底」が抜けてゆくような開放感の表現であると同時に、入道雲が青空にぐんぐん伸び上っているような「空の底抜け感」の双方を取り込んだような表現が巧みですね。二句目、上五の「夕さりの」という表現が適切で効果的ですね。風に流されていると言わずに「風の連れゆく」という表現も見事ですね。
〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」十月号から)
打水や今日の憂ひは今日のこと 村田ひとみ
死に化粧母の微笑み月涼し 村田ひとみ
一句目、この今のモヤモヤとした鬱な気分を、明日に持ち越さないようにしよう、という決心が感じられますね。二句目、昨日か今日の体験ではなく、おそらく回想の「母」でしょう。その最期の母の表情の穏やかだったことに、救われた思いをしたのでしょうか。下五の季語「月涼し」がそう思わせる表現ですね。
全集の小さき文字や夜の蟬 近藤 悦子
寡作だった作家の全集なら、一段組で文字も大きく、全集も数冊というところでしょう。二段組の小さな文字で編集され、全何巻にも及ぶ著作を遺した大家の全集を、読破しようと挑んでいるのでしょうか。その厖大さに圧倒されて、ふと目を上げて蟬の声に耳を澄ませているのでしょう。
笑こぼすじゃがいもの花町中に 須貝 一青
下五が「畑中に」にだったら普通ですが、「町中」なので、読者はどういう情景かと思いを巡らせる表現になっています。「町中に」は「町じゅうに」ではなく、「町なかに」で、その一角にある菜園に植えてあるジャガイモの花なのだと思い至ります。そういう菜園のある落ち着いた町の雰囲気が浮かんできますね。
⑵ 「あすか集」(「あすか」十月号作品から)
夏休み遠慮しないで来たらどう 高橋 光友
新型コロナ感染症が猛威をふるっている最中の句でしょうね。孫たちが祖父母の所に行くのをためらっている世相が背景にある表現でしょう。
日傘雨傘雲にもありし裏表 滝浦 幹一
傘には晴天用の日傘と、雨天用の雨傘というものがありますね。同じように雲にも表裏という二面性があるという表現でしょう。では、地上から見て表なのは下の方なのか、上の方なのか、考えさせられて、おもしろい句ですね。
風薫る良き友良き師読書通 忠内真須美
上五中七までは類型句がありそうな言い回しです。でも下五に「読書通」とあって、作者の親交の質がぐんとあがりますね。俳句を嗜む人は師も友も知的ですね。
秋暁や草木はめざめ水求め 千田アヤメ
下五に「水求め」という言葉を置いています。朝、草木がめざめるという表現はよくありますが、生きものとして草木の命の手応えに直接触れたような、はっとする表現ですね。
力込め雨戸を開けぬ梅雨湿り 坪井久美子
雨戸を開けるのに、殊更なぜ力を込めなければならないのだろうと、考えてハッと気が付きます。軽く開閉できる現代的なサッシ戸ではなく、木製の引き戸式の雨戸かも知れない、と。昭和の風情の歴史ある家屋の暮しぶりが浮かんできますね。
産土の茅の輪くぐりに並びおり 西島しず子
茅の輪くぐりとは、茅で編んだ人が潜れるほどの直径の輪を潜り、心身を清めて厄災を払い、無病息災を祈願する夏越の祓を象徴する行事ですね。「産土の」ですから生れ育った地の景ですね。そのようなゆかしい行事に行列ができる町の雰囲気も伝わります。
案山子みな口をへの字に空見上げ 丹羽口憲夫
案山子には「へのへのもへじ」という顔文字が書かれていることが多いですね。「へ」のところが口なので、怒っているような、思案しているような感じです。作物の鳥などの食害を防ぐのが案山子の役目ですが、この時勢、世相を案じているようにも見えて愉快です。
長崎忌ボーイソプラノ澄み渡る 沼倉 新二
青空へシーツ一枚原爆忌 沼倉 新二
二句とも原爆禍を詠んだ句ですね。一句目、「ボーイソプラノ」で聖歌隊の美しい声の和声が響き、壊れた協会が象徴的な「長崎忌」に相応しい取合せですね。二句目は広島長崎の双方を含む句ですが、夏空に翻る白いシーツ一枚が、平和を象徴して目に沁みます。
源流の生れ出る音秋澄めり 乗松トシ子
実際に源流めぐりの登山をして聞いた音かもしれませんが、澄んだ秋の空気感の中で想起しているだけの表現と解しても、その爽やかさが伝わりますね。
桐の実の乾き伝わる青き空 浜野 杏
桐の実は十月頃熟し、二つに裂けて小さな翼のある種子をたくさん散らします。地面に散ったその種子が乾燥してきている感じと、大気も乾いて澄んできた空を対比して効果的ですね。
動と静翔平聡太夏の宴 林 和子
これは文句なしにみなさんが共感する表現でしょう。優れた野球選手の大谷翔平を「動」、将棋の逸材の藤井聡太を「静」として「夏の宴」で締めくくりました。
大夕立街を丸ごと洗ひけり 曲尾 初生
大俯瞰的な視座の表現と、きっぱりとした言い切りの表現が効果的ですね。
夫逝けり妻も覚悟の墓洗ふ 幕田 涼代
墓を洗う行為にも、ある種の「覚悟」がいる、とはどんな深い想いでしょうか。読者はその一点に思いを巡らせるでしょう。
コロナ禍の空白を埋め蟬の声 増田 綾子
社会的には経済的損失、個人的には健康不安と実害、そのように表現されているコロナ禍ですが、綾子さんはそれを「空白」と呼び、それを埋めているのは「蝉の声」だけだと結びました。ずばり要点をついた効果的な表現ですね。
人出無く鴉が数多秋の浜 増田 伸
普段は人出の多い人気の浜なのでしょう。コロナ禍の時勢、浜にいるのは鴉ばかり、という詠嘆の表現ですね。「数多=あまた」と、人の数のように表現したのが効果的ですね。
沖縄忌白い朝顔一つ咲く 緑川みどり
下五の「一つ咲く」に鎮魂の思いが込められている表現ですね。「沖縄忌」は仲夏の季語で、沖縄だけに設けられている六月二十三日の沖縄県慰霊の日のことですね。太平洋戦争の終わりの頃、沖縄は日米の最後の決戦地になり、多くの民間人が犠牲になりました。六月二十三日は沖縄の日本軍が壊滅した日です。国民的な記念日にはなっていません。「朝顔」は初秋の季語ですから、季重なりの句ということになりますが、作者は意図的にこの「ズレ」を詠み込んでいるのでしょう。
遠き代を伝えし朝の大賀蓮 宮崎 和子
「大賀ハス」は古代のハスの実から発芽開花したハスで、一九五一年(昭和二六年)、千葉県の検見川厚生農場(今は東京大学検見川総合運動場)内の落合遺跡で発掘され、千葉県の天然記念物に指定されています。それを「遠き代を伝えし」と表現しました。「朝」ですからその開花を見たのでしょう。
大夕立介助犬連れ軒借りる 村上チヨ子
自分自身の体験なのか、そういう様子を目撃したのかは不明ですが、人に寄り添う介助犬と共に雨宿りをしている、ほのぼのとした様子が伝わりますね。
ボロボロのおもちゃお供に夏帽子 望月 都子
親に連れられた夏帽子姿の少女か少年の姿が浮かびますね。愛用して手放せないおもちゃ「お供に」という表現が効果的ですね。
夕焼や巡回バスのベルが鳴る 吉野 糸子
巡回バスですから、その町で、ほぼ定刻に繰り返されている一コマの景でしょう。「ベルが鳴る」という下五で切り取るように表現して、かけがえのないの日常を言葉に焼き付けました。
花芒海の彼方に佐渡島 阿波 椿
海岸に臨む小高い場所に揺れる芒の穂波。それを近景として、遠景に「佐渡島」。芭蕉の「天の川」景よりは近い遠近感ですが、この方が逆に「遠さ」を実感しますね。
稲光通し損なふ針の糸 安蔵けい子
繕いものをしようとして、針に糸を通そうとした瞬間、稲光で部屋が明るくなり、大音響のせいもあって、手元が狂って失敗したのですね。稲光という大きなものと、針という小さな手元を取合せたのが効果的ですね。
ゴム長に母の履き癖大根蒔く 小澤 民枝
今朝の秋干し物真白雲真白 小澤 民枝
一句目、母の代から引き継いだ農作業、「ゴム長」も引き継がれて、その一切の記憶を「履き癖」に象徴させた表現が見事ですね。二句目、「真白」の繰り返しのリズムが爽やかですね。
仏前にメロン大いなる心かな 風見 照夫
仏前に供えられた「メロン」がどっしりと鎮座しているようで、何か大いなる心のようなものを感受している表現ですね。具象から、心という抽象表現への転換が鮮やかですね。
結界の中に苔むす泉涌く 金井 きよ
「結界」とは俗なる世界と聖なる世界を分ける境界のことですが、目に見える境界線のようなものはありません。「苔むす泉」の涌くさまで、それを美しく可視化した表現ですね。
向日葵のみな小ぶりなる坂の道 城戸 妙子
「みな小ぶりなる」で、その坂道の雰囲気が伝わる表現になっていますね。狭くて急な坂で、町なかにある小さな坂が目に浮かびます。
封筒にセロハンの窓敬老日 佐々木千恵子
宛名の部分だけが透けて見える切り窓式の封筒、といえば市役所などの公的な機関から来る通知でよく見かけますね。たぶん表敬通知か何かでしょう。自分が年齢で表敬される歳になったのか、というような思いまで、その「セロハンの窓」で象徴して、効果的ですね。
足元に富士の影ある田植ゑかな 杉崎 弘明
田植作業の足元に逆さ富士が映り込んでいる景ですね。田植をしている人には見えていないはずですから、作者はそれを見ている位置にいて、いつまでもあって欲しい美しさを感じているのですね。
真ん中に父祖の墓地らし大青田 鈴木 稔
広大な田圃の真ん中に墓地のようなものがある景ですね。それだけで古くから代々、田を守ってきた農家の景だということが伝わります。このような景も少なくなって来ているのではないでしょうか。
風鈴の音に夫恋ふ夕間暮れ 砂川ハルエ
先だった夫を偲ぶ表現に、風鈴の音をもって詠まれたのは珍しいのではないでしょうか。その涼を誘う美しい音色で、哀しみを新たにするというのは、その境遇の人にしか解らないものでしょうね。
【野木メソッドによる鑑賞・批評の基準】
◎ 高次な抒情の中にドッキリ・ハッキリ・スッキリと自己を表現したい。
○ドッキリ=自分らしい発見感動のことで、日々の生活の中で四季折々に出会う自然や人事など、すべてのものに敏感に反応する素直な心。(感性の力)
○ハッキリ=余分な言葉を省き、単純化した句のことで、のびのびと自由に自己の表現が出来ている俳句。(知性の力)
○スッキリ=季語や切字の働きを最大限に生かした定型の句で、表現は簡素に、心情内容は深い俳句。(意志・悟性の力)
◎ 鑑賞・批評の方法
鑑賞する句の「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」に注目して。
※ ※ ※
(「あすか塾」12月)
1 今月の鑑賞・批評の参考
◎ 野木桃花主宰句(「青瓢」より・「あすか」二〇二一年十一月号)
ひとことをためらひがちに十三夜
耳寄せて音の出さうな青瓢
ふと人の気配木の実の落つる音 (「悼む 石坂晴夫様」の前書き)
秋気澄む恩師の句集繙く夜
【鑑賞例】
一句目、陰暦九月十三日の夜。この夜は八月十五夜の月に次いで月が美しいといわれ、「のちの月」と呼んで宴が催されました。八月十五夜の月を芋名月と呼ぶのに対して、豆名月・栗名月といいます。八月は満月なのに、九月は満月になる前の十三夜の月を愛でるというのが、いかにも昔の日本人の情緒ですね。十三夜といえば、樋口一葉の同名小説の不幸な結婚をした「お関」を通して、封建的な社会の矛盾を女性の立場から描いたものを想起しますね。その辺りの女性特有なくぐもった思いも含めた表現の句ですね、二句目、これは人の顔ほどの大きさにもなる「青瓢」ぴったりの表現ですね。三句目、哀悼の意の籠った句ですね。「あすか」の俳人仲間の石坂晴夫さんへの悼句ですね。「あすかの会」にもご参加いただいていて、古語を発掘して詠む熱心な姿が目に浮かびます。ご冥福をお祈りします。四句目は亡き恩師への句ですね。三句目と同様、こうして死者は俳人の魂に生き続けます。
〇 武良竜彦の九月詠(参考)
第五福竜丸を陸に引き揚げ夏去りぬ
文明という洪水や秋に入る
(自解)(参考)
一句目、第五福竜丸は一九五四年三月一日、ビキニ環礁で行われたアメリカ軍の水素爆弾実験により発生した多量の放射性降下物(死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船。一九六七年に老朽化により廃船となり、東京都江東区夢の島の隣にある第十五号埋立地に打ち捨てられていましたが、東京都職員らによって再発見されると保存運動が起こり、現在は一九七六年開館の東京都立第五福竜丸展示館(夢の島公園)に永久展示されています。原水爆禍はかくも忘れられ易いという事例のようです。二句目、洪水のような文明の氾濫というのは、昔は比喩でしたが、今は文明が洪水を引き起こしています。
2「あすか塾」34 2021年12月
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」十一号作品から
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。
水無月やお日様を待つ亀の池 金井 玲子
梅雨の長雨の季節、お日様が恋しくなるのは陸の上の人間や生きものだけだと思いがちですが、水生や両生の生き物たちも同じではないか、そんな人間中心の感覚をひっくり返すような表現ですね。
川原石拾つて熱し原爆忌 坂本美千子
川原の焼石を拾って、その思わぬ熱さにびっくりしているようです。それを原爆忌と取合せたのが効果的ですね。
町担ぎ時代を担ぎ神輿ゆく 鴫原さき子
時計草ダリの時間に迷い入る 鴫原さき子
一句目、神輿担ぎのリズムに乗せたような表現が効果的ですね。時間軸を呼びこんだのもお見事です。二句目、時計草がダリの時間迷宮に誘っているような表現で面白いですね。
秋澄むや沖に影おく離れ島 白石 文男
中七の「沖に影おく」という表現がすばらしいですね。ぽつんと一つだけ。孤独で寂しげです。空気が澄んでくっきりとその輪郭まで見えていますね。作者の心の投影でもあるのでしょう。
白鷺が佇つ堰提に魚道あり 摂待 信子
堰はさまざまな目的で河に作られた水流の一部を堰き止める施設ですね。そこにぽつんと白鷺の姿を見つけました。そこには魚道が作られていて、白鷺の餌場でもあったという発見の句ですね。
思ひ出を母と分け合ふ夜長かな 高橋みどり
無我といふ軽きものを得草の花 高橋みどり
みどりさんは両親の死を短い期間に体験されたと「あすか」の「編集後記」に書かれていました。ですから一句目の「母」は亡くなって、みどりさんの心の中にいらっしゃるのですね。つまり母と共有する思い出を語りあっているのですね。二句目、両親の死に続いて孫の誕生も体験されました。これは孫を腕に抱いたときの感慨の句で「無我という軽きもの」という表現が巧みですね。
満月や雲を縫う時光る闇 服部一燈子
鮮やかな表現ですね。もちろん闇は光をのみ込んで暗いから闇ですね。その闇を見事に輝かせる一瞬を描き出しました。満月の光線で青白く輝く夜景が、雲が過って闇に沈みます。その入れかわりの一瞬、逆に闇自身が輝いて見えた、という巧みな表現ですね。
わけありと書かれ売られるさくらんぼ 本多やすな
「訳アリ」とは人事や人の複雑な事情が隠されていることをいう言葉でしたが、いつの間にか、何処かに欠陥があるので安売りされる商品のことを指す言葉に変化してきています。そのことに何か違和感を抱いてしまう感慨の句ですね。共感します。
秋蝉の後追ふやうに日暮けり 丸笠芙美子
ひとしきり夕日にひたる酔芙蓉 丸笠芙美子
一句目、最近は都会では夜鳴く蝉もいるようですが、普通、蝉は夜には鳴かないものです。その鳴き止む時間が夕暮れで、それを詩的に表現した句ですね。二句目、これも夕映えの中の酔芙蓉の彩の変化を詩的に表現した美しい句ですね。
鉛筆の先が躓く九月尽 三須 民恵
本当は躓いているのは作者の心でしょう。それを暗喩的な具象表現にして、効果的ですね。おそらく推敲の迷いの中でいる心地でしょうか。
青芒刈るや荒縄もて括る 宮坂 市子
荒使いせし手を撫でて短き夜 宮坂 市子
二句共、生きて今ここに「在る」ことの存在の手応えを感じる実存俳句のお手本ですね。刈り取った青芒を束ねる荒縄の質感、農作業で荒れた手の手触り、どれもその実感が読者の心に迫ります。
校庭に芋づる這へり敗戦忌 柳沢 初子
現代の景から敗戦後の食糧事情が悪化した時代の景へと、まさに「芋づる」式にたぐり寄せた表現がお見事ですね。
ノーサイド負んぶ飛蝗がまかりでる 矢野 忠男
とんぼとんぼ閼伽の水桶赤とんぼ 矢野 忠男
一句目、伯仲した試合が終わり、敵味方が相手の善戦を讃え合う、緊張のほぐれる瞬間ですね。この緩和の雰囲気をユーモラスに「負んぶ飛蝗がまかりでる」と表現して見事ですね。二句目、「閼伽(あか)」は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。インドでは来客に対し足を浄めたり、食事の後口をすすぐための水が用意される風習があり、仏教に取り入れられ仏前や僧侶に供養されるようになったといいます。この句はまるでそんな僧侶のように「赤とんぼ」がやってきているようだと見立てた表現ですね。「とんぼとんほ」が童唄のような趣がありますね。
石垣鯛干して駐在パトロール 山尾かづひろ
海辺の小さな漁村か、小さな島の村落にある駐在所が目に浮かぶようです。仕事と職場の境目がなく重なり合う、どこか長閑な景ですね。住民と駐在警官が互いを熟知し合っている平和な空気を感じますね。
火蛾狂ひ夢の一期の舞ひおさめ 渡辺 秀雄
蛾などの昆虫は外灯など光に集まってくる習性がありますが、この句は自分を燃やしてしまう火に集まってきて、その周りを飛んでいるようです。それを上五で「火蛾狂い」とし、その自滅的な舞を「夢の一期の舞ひ」とした表現が効果的ですね。
鉢植ゑの胡瓜「し」の字に朝の影 磯部のり子
胡瓜の影と表現しないで、「し」の字の形象を間に挟んで、「朝の影」と表現したのが効果的ですね。
震度6軒の氷柱が落ちつづく 伊藤ユキ子
これは北国か東北地方ではないと見られない景ですね。透明な槍が降ってくるような迫力と怖さがありますね。
植田村水の匂ひに眠り入る 稲葉 晶子
かなかなの声は濡れ色朝ぼらけ 稲葉 晶子
一句目、水が張られた田圃の、あの水平感の広がり。夜が更けてゆく静けさ。それを村全体の眠りの表現にしたのが効果的ですね。二句目は蝉の声が象徴的な表現になっていますね。蝉の声は乾燥した響きの印象が強いですが、それを「濡れ色」と意表を衝く表現にしたのが効果的ですね。
「尻こすり坂」とふバス停や轡虫 大木 典子
京浜急行線には長いトンネルになっている所があります。その丘に実際にある坂の名前が「尻こすり坂」です。それほど急勾配の坂なのです。京急系のバス路線の停留所名にもなっています。下五に「轡虫」という季語を置いて、その鳴き声の響とともにユーモラスな効果を上げた表現ですね。
踏み込めぬ親子の絆百日紅 大澤 游子
上五の「踏み込めぬ」を読んだとき、親子の間でも踏み込めない、心の様の表現かと一瞬思いますね。それが他人からは計り知れない、親子の固い絆の表現だと判ったとき、読者は軽い裏切り感と、小さな驚きを感じるでしょう。親子の固い絆を感じます。百日紅の下五の季語も効いていますね。
大太鼓一打天へと佞武多発つ 大本 尚
「佞武多」の原義は「ねむた」で、その睡魔を払う鉦太鼓を鳴らすのが「佞武多祭」なのですね。まさにその原点に戻ったような眠気を吹き飛ばす表現ですね。
新涼の谷戸風のこゑ水の音 奥村 安代
送り火の尽きたる小路闇深む 奥村 安代
一句目、やさしい風のそよぎと水の音の、リズム感のある表現が心地いいですね。二句目、路地の角々に焚かれていた送り火が消えて、周りの闇が濃くなってゆく、そんなゆっくりとした時間の流れも呼びこむ表現ですね。
銭洗ふ笊に秋日をかき混ぜて 加藤 健
本当は掻き混ぜられているのは銭ですが、「笊に秋日をかき混ぜて」とした表現が効果的ですね。弁財天系の社の中にある澄んだ池や秋の空気感も取り込まれていますね。
〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」十一月号から)
かつて銀河見し東京の瓦屋根 村田ひとみ
マンションの聳え秋灯つぎつぎと 村田ひとみ
二句共、都会、特に東京が俯瞰的に捉えられている二句ですね。一句目は今のように矩形のビル型家屋ではなく、瓦屋根が多かった時代には、東京の夜空にも銀河が輝いていたという時代の証言の句ですね。二句目は今現在の東京の景で、横の視界を失って縦型の建物が空間を閉ざしています。その一つ一つの窓に灯が点りますが、縦に連なる灯の景ですね。見事な視点です。
胡麻香る日向の国の冷し汁 近藤 悦子
長寿眉にひそむ反戦生身魂 近藤 悦子
一句目、夏の冷し汁は宮崎県が有名ですね。熊本県にもある夏の風習です。「日向の国」という古名で表現したのが歴史を感じさせて効果的ですね。二句目、長寿眉は仙人眉ともいい、長寿の人の深い見識も含めた尊敬の言葉ですね。そのぶれない反戦魂の表現にぴったりです。
止まれば祈る姿に糸蜻蛉 須貝 一青
一代で空家に秋風五十年 須貝 一青
一句目、前肢を対にして揃えるような姿勢で止まる姿を「祈る姿」と表現したのが効果的ですね。蜻蛉を精霊の使いと見做す風習も詠み込まれているかのようです。二句目、何代にも亘って受けつがれ住み続けられた家が、後継者が途絶えて空家になっている景はよく見る「自然な」ことの成り行きを感じますが、一代でそうなるという急激な変化に、どこか不自然な時代性を感じますね。人生と社会のサイクルが不自然に急速化していることの、違和感の表現が見事ですね。
⑵ 「あすか集」(「あすか」十一月号作品から)
秋茄子にキューと声してためらひぬ 滝浦 幹一
茄子は水洗いしているとき、意外と可愛らしい音を立てることがあります。ごめん、乱暴だったかなと、その音に手を止めた瞬間を詠んだ、心優しい表現ですね。
短冊に揺れる美文字や夏の風 忠内真須美
七夕の短冊か、俳句展示の短冊かわかりませんが、そこに清々しいほどの筆遣いの美文字を発見したという句ですね。下五の「夏の風」で爽やかな一陣の風が吹き抜けているようです。
背景の気になる動画九月尽 立澤 楓
本当は違う内容の動画を見ていたのだが、そのメインの内容と無関係のものや、様子が背景に映り込んでいて、それに気を取られてしまったのですね。今年の九月は何か慌ただしく、気が散る様々な出来事に囲まれて過ごした一か月だったなーという感慨の表現ですね。
先生と交わす挨拶黄のカンナ 千田アヤメ
互いに信頼関係のある先生と生徒の間で交わされる、明るく元気な挨拶の声と姿勢は清々しいものがありますね。下五の「黄のカンナ」がそれに相応しいですね。
大切なことは小声でふかしいも 丹羽口憲夫
端座して笑わぬ男きぬかづき 丹羽口憲夫
一句目、ふかしいもを挟んでの親しげな距離の近さ、秘密めく大切なことを共有する間柄まで感じさせる句ですね。二句目、見かけはゴツゴツしているような「きぬかづき」の句ですが、昭和の男に違いないと想像される武骨で無口なさまがユーモラスですね。作者の温かい眼差しも感じますね。
野良猫の心閉ざして鬼胡桃 沼倉 新二
犬もそうですが、野性の野良猫や、一度人間に捨てられたことのある猫などは、人間に対して警戒感が強くなり、なかなか懐かないそうです。下五の「鬼胡桃」の硬くゴツゴツした感じで象徴的に表現したのが効果的ですね。
秋ともし古書店奥の大和綴 乗松トシ子
大和綴(やまととじ)は和書の製本の一様式ですね。だからこの古書店は日本の古書専門店のようです。古びた和紙の匂いがするような風情のある句ですね。
夏足袋を裏返し干す祖母の顔 林 和子
和装の機会が減って、夏足袋自身があまり履かれなくなっていますね。裏返すとき指先の部分の細い棒使っていました。その動作をしている祖母の姿が浮かびます。
ビル街を飛ぶとんぼうに空遠し 幕田 涼代
ビル街で蜻蛉を見かけることも少なくなりましたが、たまに見かけると飛べる空間が狭くて窮屈そうに見えます。それを「空遠し」のひとことで見事に表現していますね。
喧嘩後に笑みて林檎を喰ふ母娘 増田 伸
緊張と緩和。それも母娘の他愛のない口喧嘩の後のようです。喧嘩するほど仲が良いともいいますが、その雰囲気を林檎の紅さが象徴していますね。
盂蘭盆会小花飾りて姉を待つ 緑川みどり
この姉は故人なのでしょう。お盆でその魂迎えをしているようです。「小花飾りて」という言い回しに、亡き姉への敬慕の思いが滲んでいますね。
古書店の奥に小さき扇風機 村上チヨ子
昭和の古書店の風景ですね。まだ冷暖房設備が気軽に使えなかった時代でしょう。それも古びた小型の扇風機が、古書棚と通路にやさくし風を送っている景が目に浮かびます。
新涼や手相ゆるりと拡大鏡 望月 都子
「手相ゆるりと」という表現が、ゆったりとした感じでいいですね。占い師の動作は威厳を保つためにスローモーションですね。
海越える恋は一途に秋の虹 阿波 椿
国際恋愛でしょうか。国と国の間に架かる壮大な虹の表現がいいですね。
衣被笑ひの絶えぬ子沢山 安蔵けい子
衣被は初秋の季語で里芋の子芋を皮のまま茹でたものですね。熱いうちに指で芋をつまみ、つるんと中身を取り出して、塩をふって食べます。旧暦八月の十五夜に団子などと一緒に供えます。女性が外出の際、頭から小袖をかむっていた姿を想像させるところからこの名がついたそうです。地方によっては安産や多産の象徴とするところもあります。この句はその雰囲気を踏まえた表現ですね。
剛力にきしむ木道秋高し 飯塚 昭子
剛力は強力とも書き「ごうりき」と読みます。荷物を負って運搬する人のことですが、現在は登山者の荷物を運びながら道案内をする人を指すようです。昔は修験者が各地を回る際、その供をして荷物を担いでいく者のことを言いました。この句は現代ですから、登山案内人の荷の重さで木道が軋んでいるようです。尾瀬などの長い木道と澄んだ空が目に浮かびますね。
終電の後は伸び伸び鳴くちちろ 小澤 民枝
駅近くの草叢が目に浮かびます。電車が発着するたびにその音でちちろ虫たちの声が途絶えて、また鳴き始め、それを繰り返しているのですね。のどかな秋の風物ですね。
食べ尽し身をさらけだす青毛虫 風見 照夫
食欲旺盛な青虫が、自分がいる周りの葉をみるみる間に食べ尽し、自分の姿が間丸見えになった、という景で、どこかユーモラスです。その食べっぷりは見ていて飽きません。
ごん狐生れし里に曼殊沙華 金井 和子
新実南吉の童話「ごんぎつね」のことを詠んだ句ですね。人間と心やさしいごんぎつねの、哀しい心のすれ違いのお話です。土手に咲く曼殊沙華の赤が悲しい色に見えます。
敗戦忌歩道の我に水しぶき 金子 きよ
歩道を歩いていて、車が跳ねた水しぶきをかけられる体験なら、だれもがしたことがあるでしょう。戦争自身が一般の人には、そんな迷惑なことに巻き込まれたという感覚だったのが本音でしょう。その思いが巧な比喩で表現されていますね。
あるなしの風をひろひて桐一葉 城戸 妙子
あるかなしかの微風を「ひろひて」という表現で、桐の葉の大きさ、面的な広さを巧に表現してありますね。
占領下台風の名はアメリカ人 斎藤 勲
名月や雲の回しで土俵入り 斎藤 勲
一句目、戦中は英語が敵性語として言い換えが行われましたが、戦後の占領政策の中では、逆のことがいろいろ起こりました。台風の名がたとえばキャサリーン台風というように呼ばれた時代がありました。二句目、まるで名月が雲模様の回しで土俵入りをしているようだという、見立て詠みが楽しいですね。
山眠る鍵屋は商品入替中 佐々木千恵子
鍵もいろいろ進化して、防犯対策が強化された、なかなか破りにくいものが増えてきていますね。鍵屋さんもそのような時代の要請で、古い鍵を処分して新しい鍵を仕入れ直しているのでしょう。それと「山眠る」という季節の変り目の季語と取り合わせたのが効果的ですね。
中天を睨みて蟇の動かざる 杉崎 弘明
蟇の動きは超スモーションです。体つきの角度でまるで天を睨んで、何か思案しているように見えます。その様を捉えた句ですね。
手をつなぎ測る大樹や秋の草 鈴木 稔
大樹の幹の大きさを測るとき、複数の人間が両手を広げて手を繋ぎます。計測器などを持っていない、登山の途中で見つけた大樹の大きさを、みんなで確かめているようです。
闇市となりし参道終戦日 砂川ハルエ
空蟬のいのちあるごと見つめおり 砂川ハルエ
風鈴の音に夫恋ふ夕間暮れ 砂川ハルエ
白桃をあます掌一人の居 砂川ハルエ
今月のハルエさんは頑張りました。みんな秀句ですね。一句目、神聖な参道が闇市となった戦後の混乱期、二句目、まるで抜け殻自身に命があるような蝉の佇まい、三句目、リーンリーンという巡礼者の鈴のような音に、在りし日の夫に思いを寄せています。四句目、孤独をもてあます気持ちを白桃に象徴させて巧みに表現しました。
パソコンの操作に大汗オンライン 高橋 光友
パソコンの普及が始まったのが、中年になってからの時期にあたる年代は、なかなか電子機器を若者たちのようには使いこなせません。「大汗オンライン」と韻を踏んだ表現で、その悪戦苦闘ぶりをユーモラスに表現しました。
☆ ☆
「あすか塾」11月)
1 今月の鑑賞・批評の参考
◎ 野木桃花主宰句(「暮の秋」より・「あすか」2021年10月号)
かなかなの声のかぶさる勝手口
言の葉のルーツを探る流れ星
里山に孤高の差羽風を切る
団塊の耳聡くをり暮の秋
たわたわと熟柿のゆらぎ夕間暮れ
【鑑賞例】
一句目、朝夕に甲高い声で「カナカナ」と鳴く蜩の声を勝手口で聴いているという表現ですね。暮しの一コマが夏らしい音響を伴って表現されていますね。二句目、「流れ星」に言葉のルーツを思うという表現は独特ですね。他に縁切り星(えんきりぼし)落ち星(おちぼし)飛び星(とびぼし)流れ星(ながれぼし)抜け星(ぬけぼし=岡山方言。流星が消えないうちに唱えると幸福になれるというまじない言葉)走り星(はしりぼし)星降り(ほしくだり=下方へ流れていく流星)星の嫁入り(ほしのよめいり)奔星(ほんせい)夜這い星(よばいぼし)婚星(よばいぼし)などがあります。そんな日本語の豊かさに一時思いを巡らせている句ですね。三句目、「差羽=さしば」は鷹の仲間で絶滅危惧種に指定されている渡り鳥。木や電線など高い所に止まり獲物を狙っている姿が見られます。その姿を「孤高」と表現されています。秋の澄んだ空気感も感じますね。四句目、七十歳半ばになろうとしている団塊の世代。肉体的に衰えてきて難聴ぎみになっている人も多いはずですが、この「耳聡く」は心の「聴力」というもので、いろんなものごとに関心を失わず心を生き生きと働かせて暮している、という自負の表現でしょう。五句目、揺れ、ではなく「ゆらぎ」という言葉でひらがな表現されているのが効果的ですね。明暗のゆらぎのひと時を全身で感じ取っている表現ですね。
〇 武良竜彦の八月詠
TOKYOという熱源の秋暑かな
万巻の書の黙として秋暑かな
糧秣と呼べば兵士の残暑なお
(自解)(参考)
一句目、この夏の首都圏の暑苦しさはコロナ禍の中で強行された五輪の影響でもあったでしょう。二句目、たくさんの叡智の詰まった書を読もうとする人が減っています。読書という慣習すらない人が多数派を占めて……。三句目、同じ食べ物なのに呼び方で意味が違ってしまいます。「糧秣」とはどこか軍事用語めいていて、飢えに苦しんだ大戦下の兵士の労苦を思い浮かべてしまいます。
2「あすか塾」33 2021年11月
⑴ 野木メソッド「ドッキリ」「ハッキリ」「スッキリ」による鑑賞例―「風韻集」9月号作品から
※「ド(感性)」=感動の中心、「ハ(知性)」=独自の視点、「ス(悟性)」=普遍的な感慨へ。
この三点に注目して鑑賞、批評してみましょう。
老鶯と言はれてからの艶やかさ 加藤 健
「老鶯」は春が過ぎてから鳴く鶯。季節外れとか、老いたという意味で使う人がいますが、実は鳴き方がこなれて巧みな鶯というのが本来の意味。この句では、それが暗喩的に使われて、作者の境涯的心情が伝わりますね。
旗立てて葦簀賑はふ路地の奥 金井 玲子
昔は町の路地では見かけた風景ですが、今も残存しているのなら貴重な昭和的風情ですね。「旗」は紺地に白で「氷」と染め抜いた夏場かぎりの氷屋さんの旗でしょうか。
診察の触れて五分や夕立雲 坂本美千子
診察室でパソコンの画面ばかり見て、患者を見ないで会話する医者がいますね。そして診察時間も短くて「二・三分」程度。何かもやもやした気分になります。それを「触れて五分」と、ささやかな抗議の思いを込めて表現されているように感じました。
早立ちの逸る車窓に虹立ちぬ 鴫原さき子
「逸る」という言葉で、何処かへ急いで車で出かけようとしている情況かもしれないと想像されますね。それをまるで、虹が諫めるかのように「落ち着いて、深呼吸して、空でも見上げてごらんなさい。いいお天気ですよ」と言っているかのようです。
舌代の筆鮮やかに初秋刀魚 白石 文男
「舌代」は「ぜつだい」と読み、口上のかわりに文書に簡単に書いたもの。「申し上げます」の意で、挨拶や値段表などのはじめに書く語。「しただい」とも言います。その古風な言い回しを使って「初秋刀魚」の季節感を受けとめている作者の心が伝わりますね。
初生りの西瓜にそつと藁を敷く 摂待 信子
家庭菜園の域を超えて、しっかり西瓜を栽培している人の細やかな視点の句ですね。西瓜、南瓜、瓜などの大玉で地面の上で育つ作物は、下に藁敷をしたり、日焼け防止の被せモノをしたりします。
人の訃や色無き風を身の内に 高橋みどり
単純な命がここに秋澄めり 高橋みどり
一句目、みどりさんは「喪の仕事=モーニングワーク」を俳句で詠むことに取り組まれているようです。季語の「色無き風」が効果的に使われていますね。二句目、反対にこれから育ってゆく命のさまの、ありのままの姿が眩しく感じられているようです。
長雨や頭を垂れる出穂の波 服部一燈子
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があるように普通は結実後のことですが、この句は「長雨」でそうなっているのですね。被害を案じる心が、そうは言わなくても伝わるのが俳句ですね。
心の荷風がほどいて夕涼み 本多やすな
「風がほどいて」が巧みで効果的な表現ですね。日が暮れて涼しい風に包まれている安堵感ですね。
荷が重いという言い方はしますが、その荷をほどくと表現して独創的ですね。
紅薔薇散りて己をときはなつ 丸笠芙美子
蝉時雨近くて遠き向う岸 丸笠芙美子
一句目、「紅薔薇」が心の中の拘りのようなものの象徴として、二句目、「向こう岸」が届かぬ願い、夢、ここではないどこかという希望の地などの象徴として表現されています。俳句を象徴詩のように表現する点では、「あすか」同人では芙美子さんの右に出る人はいないでしょう。
羽村堰ポツンと一人秋の風 三須 民恵
「羽村堰」は多摩川の河口から上流約五四キロメートルに位置し、玉川上水と同時に建設されました。江戸の人口が増えたため幕府が多摩川の水を江戸に引く計画を立て、最終的には現在の羽村地点が取水口になった歴史ある堰です。この句は、その堰を眺めている「私」が「ぽつんと一人」とも読めますが、歴史に晒された「羽村堰」に孤独の陰を感じて詠んでいるようにも感じられます。
案内状手に白南風に身をまかす 宮坂 市子
「案内状」の内容が書かれていなくても、「白南風に身をまかせる」ように、その場所へ赴こうとしている心の様が伝わります。「案内状」が個人的であることから普遍性をもったものに跳躍していますね。
翡翠の一閃池を目覚めさす 柳沢 初子
境内に千の風鈴千の風 柳沢 初子
一句目は鳥という野性の命の営みの一瞬を捉え、二句目は鳴り物とそれを揺らす風を「千」という数で表現し、その音響ゆえの境内の空間的な広がりと普段の静けさを見事に捉えた表現ですね。
魚信なき竿先じっと蝉時雨 矢野 忠男
「魚信」とは、釣りで魚が餌をくわえたことが、竿や糸などから伝わってくること、「あたり」ともいいますね。一定の音量で響いている「蝉時雨」。その中で竿の先に意識を全集中させている緊張感が伝わりますね。
サーカスに売らると昔夕焼雲 山尾かづひろ
昭和の伝聞、言い伝えを回想している表現ですね。実際に江戸時代から、人攫いと人身売買が横行していたのです。その末期が昭和という時代でもありました。今の若い人には想像もつかない世界でしょう。下五の「夕焼雲」が哀愁を帯びて、効果的ですね。
蜘蛛の囲にオゾンホールの話かな 渡辺 秀雄
「蜘蛛の囲」と「オゾンホール」の取り合わせが見事ですね。「蜘蛛の囲」は酸性雨で穴が空き、「オゾンホール」は大気中の二酸化炭素の増加によるものです。危機感が身近になる表現ですね。
スカートを撥ね上げ銀輪夏燕 磯部のり子
青春映画の一コマのように爽やかですね。夏燕のスピード感との取り合わせが効果的です。
看護師と目と目の会話さやけくて 伊藤ユキ子
先月に続いてユキ子さんはご闘病中のようです。声を出せない状態のようですから、病状は重く辛いようですが、それをこのように爽やかな一コマとして詠まれて、胸にしみます。
そら豆の一つにひとつづつ個室 稲葉 晶子
蚕豆の内側は真綿を敷き詰めたように、ふかふかです。列車か客船の豪華特別室のようですね。個室に見立てて「ひとつづつ」とひらがな表記にしたのが効果的ですね。
日の丸とアメリカ国旗と浜木綿と 大木 典子
日章旗、星条旗、浜木綿。三つの名詞だけで詠んで、それ以上を語らない。読者はあれこれ推理を働かせて「語り」たくなります。それぞれの思いが交錯した五輪でした。
せせらぎの育む大樹秋気澄む 大澤 游子
「せせらぎの」の「の」が柔らかくていいですね。地球の万物は水の流れが育んでいる、というのは真理ですね。下五の「秋気澄む」も爽やかです。
現世をかくんと留守にして昼寝 大本 尚
「かくんと」という擬態語が独創的ですね。脱力感から解放感へと「場」の空気が一変しているような効果がありますね。
夏草に寝て底抜けの雲の峰 奥村 安代
夕さりの風の連れゆく糸とんぼ 奥村 安代
一句目、寝転んでいる背中側の「底」が抜けてゆくような開放感の表現であると同時に、入道雲が青空にぐんぐん伸び上っているような「空の底抜け感」の双方を取り込んだような表現が巧みですね。二句目、上五の「夕さりの」という表現が適切で効果的ですね。風に流されていると言わずに「風の連れゆく」という表現も見事ですね。
〇「あすかの会」参加会員の作品から (「あすか」十月号から)
打水や今日の憂ひは今日のこと 村田ひとみ
死に化粧母の微笑み月涼し 村田ひとみ
一句目、この今のモヤモヤとした鬱な気分を、明日に持ち越さないようにしよう、という決心が感じられますね。二句目、昨日か今日の体験ではなく、おそらく回想の「母」でしょう。その最期の母の表情の穏やかだったことに、救われた思いをしたのでしょうか。下五の季語「月涼し」がそう思わせる表現ですね。
全集の小さき文字や夜の蟬 近藤 悦子
寡作だった作家の全集なら、一段組で文字も大きく、全集も数冊というところでしょう。二段組の小さな文字で編集され、全何巻にも及ぶ著作を遺した大家の全集を、読破しようと挑んでいるのでしょうか。その厖大さに圧倒されて、ふと目を上げて蟬の声に耳を澄ませているのでしょう。
笑こぼすじゃがいもの花町中に 須貝 一青
下五が「畑中に」にだったら普通ですが、「町中」なので、読者はどういう情景かと思いを巡らせる表現になっています。「町中に」は「町じゅうに」ではなく、「町なかに」で、その一角にある菜園に植えてあるジャガイモの花なのだと思い至ります。そういう菜園のある落ち着いた町の雰囲気が浮かんできますね。
⑵ 「あすか集」(「あすか」十月号作品から)
夏休み遠慮しないで来たらどう 高橋 光友
新型コロナ感染症が猛威をふるっている最中の句でしょうね。孫たちが祖父母の所に行くのをためらっている世相が背景にある表現でしょう。
日傘雨傘雲にもありし裏表 滝浦 幹一
傘には晴天用の日傘と、雨天用の雨傘というものがありますね。同じように雲にも表裏という二面性があるという表現でしょう。では、地上から見て表なのは下の方なのか、上の方なのか、考えさせられて、おもしろい句ですね。
風薫る良き友良き師読書通 忠内真須美
上五中七までは類型句がありそうな言い回しです。でも下五に「読書通」とあって、作者の親交の質がぐんとあがりますね。俳句を嗜む人は師も友も知的ですね。
秋暁や草木はめざめ水求め 千田アヤメ
下五に「水求め」という言葉を置いています。朝、草木がめざめるという表現はよくありますが、生きものとして草木の命の手応えに直接触れたような、はっとする表現ですね。
力込め雨戸を開けぬ梅雨湿り 坪井久美子
雨戸を開けるのに、殊更なぜ力を込めなければならないのだろうと、考えてハッと気が付きます。軽く開閉できる現代的なサッシ戸ではなく、木製の引き戸式の雨戸かも知れない、と。昭和の風情の歴史ある家屋の暮しぶりが浮かんできますね。
産土の茅の輪くぐりに並びおり 西島しず子
茅の輪くぐりとは、茅で編んだ人が潜れるほどの直径の輪を潜り、心身を清めて厄災を払い、無病息災を祈願する夏越の祓を象徴する行事ですね。「産土の」ですから生れ育った地の景ですね。そのようなゆかしい行事に行列ができる町の雰囲気も伝わります。
案山子みな口をへの字に空見上げ 丹羽口憲夫
案山子には「へのへのもへじ」という顔文字が書かれていることが多いですね。「へ」のところが口なので、怒っているような、思案しているような感じです。作物の鳥などの食害を防ぐのが案山子の役目ですが、この時勢、世相を案じているようにも見えて愉快です。
長崎忌ボーイソプラノ澄み渡る 沼倉 新二
青空へシーツ一枚原爆忌 沼倉 新二
二句とも原爆禍を詠んだ句ですね。一句目、「ボーイソプラノ」で聖歌隊の美しい声の和声が響き、壊れた協会が象徴的な「長崎忌」に相応しい取合せですね。二句目は広島長崎の双方を含む句ですが、夏空に翻る白いシーツ一枚が、平和を象徴して目に沁みます。
源流の生れ出る音秋澄めり 乗松トシ子
実際に源流めぐりの登山をして聞いた音かもしれませんが、澄んだ秋の空気感の中で想起しているだけの表現と解しても、その爽やかさが伝わりますね。
桐の実の乾き伝わる青き空 浜野 杏
桐の実は十月頃熟し、二つに裂けて小さな翼のある種子をたくさん散らします。地面に散ったその種子が乾燥してきている感じと、大気も乾いて澄んできた空を対比して効果的ですね。
動と静翔平聡太夏の宴 林 和子
これは文句なしにみなさんが共感する表現でしょう。優れた野球選手の大谷翔平を「動」、将棋の逸材の藤井聡太を「静」として「夏の宴」で締めくくりました。
大夕立街を丸ごと洗ひけり 曲尾 初生
大俯瞰的な視座の表現と、きっぱりとした言い切りの表現が効果的ですね。
夫逝けり妻も覚悟の墓洗ふ 幕田 涼代
墓を洗う行為にも、ある種の「覚悟」がいる、とはどんな深い想いでしょうか。読者はその一点に思いを巡らせるでしょう。
コロナ禍の空白を埋め蟬の声 増田 綾子
社会的には経済的損失、個人的には健康不安と実害、そのように表現されているコロナ禍ですが、綾子さんはそれを「空白」と呼び、それを埋めているのは「蝉の声」だけだと結びました。ずばり要点をついた効果的な表現ですね。
人出無く鴉が数多秋の浜 増田 伸
普段は人出の多い人気の浜なのでしょう。コロナ禍の時勢、浜にいるのは鴉ばかり、という詠嘆の表現ですね。「数多=あまた」と、人の数のように表現したのが効果的ですね。
沖縄忌白い朝顔一つ咲く 緑川みどり
下五の「一つ咲く」に鎮魂の思いが込められている表現ですね。「沖縄忌」は仲夏の季語で、沖縄だけに設けられている六月二十三日の沖縄県慰霊の日のことですね。太平洋戦争の終わりの頃、沖縄は日米の最後の決戦地になり、多くの民間人が犠牲になりました。六月二十三日は沖縄の日本軍が壊滅した日です。国民的な記念日にはなっていません。「朝顔」は初秋の季語ですから、季重なりの句ということになりますが、作者は意図的にこの「ズレ」を詠み込んでいるのでしょう。
遠き代を伝えし朝の大賀蓮 宮崎 和子
「大賀ハス」は古代のハスの実から発芽開花したハスで、一九五一年(昭和二六年)、千葉県の検見川厚生農場(今は東京大学検見川総合運動場)内の落合遺跡で発掘され、千葉県の天然記念物に指定されています。それを「遠き代を伝えし」と表現しました。「朝」ですからその開花を見たのでしょう。
大夕立介助犬連れ軒借りる 村上チヨ子
自分自身の体験なのか、そういう様子を目撃したのかは不明ですが、人に寄り添う介助犬と共に雨宿りをしている、ほのぼのとした様子が伝わりますね。
ボロボロのおもちゃお供に夏帽子 望月 都子
親に連れられた夏帽子姿の少女か少年の姿が浮かびますね。愛用して手放せないおもちゃ「お供に」という表現が効果的ですね。
夕焼や巡回バスのベルが鳴る 吉野 糸子
巡回バスですから、その町で、ほぼ定刻に繰り返されている一コマの景でしょう。「ベルが鳴る」という下五で切り取るように表現して、かけがえのないの日常を言葉に焼き付けました。
花芒海の彼方に佐渡島 阿波 椿
海岸に臨む小高い場所に揺れる芒の穂波。それを近景として、遠景に「佐渡島」。芭蕉の「天の川」景よりは近い遠近感ですが、この方が逆に「遠さ」を実感しますね。
稲光通し損なふ針の糸 安蔵けい子
繕いものをしようとして、針に糸を通そうとした瞬間、稲光で部屋が明るくなり、大音響のせいもあって、手元が狂って失敗したのですね。稲光という大きなものと、針という小さな手元を取合せたのが効果的ですね。
ゴム長に母の履き癖大根蒔く 小澤 民枝
今朝の秋干し物真白雲真白 小澤 民枝
一句目、母の代から引き継いだ農作業、「ゴム長」も引き継がれて、その一切の記憶を「履き癖」に象徴させた表現が見事ですね。二句目、「真白」の繰り返しのリズムが爽やかですね。
仏前にメロン大いなる心かな 風見 照夫
仏前に供えられた「メロン」がどっしりと鎮座しているようで、何か大いなる心のようなものを感受している表現ですね。具象から、心という抽象表現への転換が鮮やかですね。
結界の中に苔むす泉涌く 金井 きよ
「結界」とは俗なる世界と聖なる世界を分ける境界のことですが、目に見える境界線のようなものはありません。「苔むす泉」の涌くさまで、それを美しく可視化した表現ですね。
向日葵のみな小ぶりなる坂の道 城戸 妙子
「みな小ぶりなる」で、その坂道の雰囲気が伝わる表現になっていますね。狭くて急な坂で、町なかにある小さな坂が目に浮かびます。
封筒にセロハンの窓敬老日 佐々木千恵子
宛名の部分だけが透けて見える切り窓式の封筒、といえば市役所などの公的な機関から来る通知でよく見かけますね。たぶん表敬通知か何かでしょう。自分が年齢で表敬される歳になったのか、というような思いまで、その「セロハンの窓」で象徴して、効果的ですね。
足元に富士の影ある田植ゑかな 杉崎 弘明
田植作業の足元に逆さ富士が映り込んでいる景ですね。田植をしている人には見えていないはずですから、作者はそれを見ている位置にいて、いつまでもあって欲しい美しさを感じているのですね。
真ん中に父祖の墓地らし大青田 鈴木 稔
広大な田圃の真ん中に墓地のようなものがある景ですね。それだけで古くから代々、田を守ってきた農家の景だということが伝わります。このような景も少なくなって来ているのではないでしょうか。
風鈴の音に夫恋ふ夕間暮れ 砂川ハルエ
先だった夫を偲ぶ表現に、風鈴の音をもって詠まれたのは珍しいのではないでしょうか。その涼を誘う美しい音色で、哀しみを新たにするというのは、その境遇の人にしか解らないものでしょうね。
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