人と言うのは本当に自分の都合のいいことしか聞いていないようです。
今朝、娘が母に電話をしてきて、担当者会議の結果はどうだったかと尋ねました。
母は「別に、何も」
娘は母が約束していたショートステイやホームの件はどうなったのかと聞いているようでした。
母曰く「ケアさんはそんなところ、今から行かなくていいと言った」と答えました。
これにはびっくり。
私も行かせたいわけでは決してないですが、お互いの為に距離を取ることが大切だと色々な人からアドバイスを受けますし、実際、ケアマネージャーさんも懇々と母を説得していました。
余程行きたくないのでしょう。
会議の後で、「行ってみたら案外楽しいかもしれないし・・・」と本人も言っていましたから。
決してボケている訳ではないことは、その時私が横からケアマネさんや母の言葉を言ったので、母はそれを娘に言っていました。
今朝の出来事。
小さなことですが、半分分けにした昨日母が好きだろうと思い買ってきたさつま芋のパン。
母が食べなかったので私が先に食べ母に残りを渡すと「まあ、こんな一口」
一口じゃなく、半分だと言っても「はい、はい」と本気にしていない様子。
食べ物のことは結構行き違いがあります。
母は好きなものは「半分だと知らなかった」「残りだと思った」「食べないと叱られると思った」等の理由を付けて食べてしまいます。
書きながら何だか可笑しくて笑えてきました。
よく聞く言葉・・・「子供に還る」「でも、子供は可愛いけれどね」
人生の最期の時期であることは間違いないので、欲しいものを食べてもらって一向に構わないのですが、昔、母が働いていた頃はもらったおやつを食べないで持って帰って来てくれていました。
私はそれが毎日楽しみでした。
老いて行くってこういうことなのですね。
でも、私はそうはなりたくないと思います。
(それでも、なるのでしょうか)
あと、もうひとつ、これについては本人はあまり辛そうにはありませんが、母がよく言う言葉に「死にたくないから、生きているだけ」があります。
母は父の死後、勉強をして一応カトリックの洗礼を受けましたが、全く信じてはいません。
頑ななまでに死んだら「無」だと思っています。
ですから、私は時々母に言います。
「私も死んだことがないけれど、死んだら何もないというのは真っ赤な嘘よ。まず、死んだら、天井の角あたりに浮かぶだろうから、その時、ああ、あの子が言っていたことは本当だったなと思い出すわ。その後、おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんや親戚の人達がお迎えに来てくれるから大丈夫。とにかく、光の方へ行って。」
そんな時母はいつも呆れ顔で言います。
「あんたはお目出たいなあ」
とか
「あんたは変なことばかり言って変わっているなあ」
何かにつけて思い出すのは聖書のコレヘトへの手紙(伝道の書)
第 12 章
1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、
到知一日一言より
|
頭ではわかっていましたが、改めて「優しい眼差しで相手をじっと見つめる」だけでもいいのですね。
今日の歌
世の中を 幸か不幸で 決めつけず 利他の心で 生きたく思う