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10月16日の祈祷会の内容です。

2024-10-15 20:18:00 | 日記
祈祷会       士師記13章「わたしの名は不思議という」    2024.10.16

 士師記13章~16章は、士師サムソンのことが書かれてあります。士師ギデオンについて次に長いものです。サムソンとは「太陽の子」という意味だそうです。サムソンの働きは、太陽のような働きをしたのでしょうか。疑問が残ります。士師サムソンの働きを見ると、他の士師とは違うことに気づきます。それは、他の士師の働きは、士師とその仲間を集めて、敵と戦っていきます。そして敵からの勝利のことがあるのですが、士師サムソンの場合は、個人と敵ペリシテ人との戦いになっていきます。そして、ペリシテ人から勝利したとは書かれてありません。士師として最後の登場するのが、このサムソンです。非常に特徴的な忘れることのない活躍をしていくのです。士師サムソンの特徴としては、怪力の持ち主であること、それはサムソンが生涯ナジル人として歩んでいくからです。サムソンの弱点は女性に弱いことです。

 今日の士師記13章は、その士師サムソンの誕生のことが書かれてあります。イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行いましたので、主は40年間、イスラエルの人々をペリシテ人の手に渡されていきます。マノアというダン族の1人の男がいました。マノアの妻は不妊の女性で子どもを産んだことがなかったとあります。主のみ使いが現れて、妻に「あなたは不妊の女性で子どもを産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物を一切食べないように気を付けなさい。その子はナジル人として神にささげられているので、その子の頭の毛にかもそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルの人々を解く放つ救いの先駆者となる」といいます。

 この言葉を聞いた妻は、すぐに夫のところに来て「神の人がわたしのところにおいでになりました。姿は神のみ使いのようで、非常に恐ろしく、どこからおいでになったのか尋ねることもできず、名前も明かされませんでした。ただその方は、わたしが身ごもって男の子を産むことになっており、その子は胎内にいる時から死ぬ日までナジル人として神にささげられているので、わたしにぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物を一切食べないようにいわれたのです」と答えました。そこで夫マノアは主に向かって「主よ。お願いします。お遣わしになった神の人をもう一度、わたしたちのところに来させ、生まれてくる子をどのようにすればいいのか教えてください」と祈りました。神はマノアの祈りを聞いてくださり、神のみ使いが再び、その妻のところに現れたのです。妻は畑に座っていて、夫は別の場所にいました。妻は夫のところにすぐに知らせるために走り、「この間、わたしのところにおいでになったお方が、また見えています」といいました。マノアはすぐに妻について行き、神のみ使いのところに来て、「わたしの妻に声をかけたのはあなたですか」というと、その人は「そうです」と答えました。マノアは「あなたの言葉通りになるのなら、その子のためになすべき決まりは何でしょうか」と尋ねます。

 主のみ使いは「わたしがこの女性にいったことをすべて守りなさい。彼女はぶどう酒や強い飲み物を飲んではならない。汚れた物を一切食べてはならない。このことをすべて守らなければならない」といいます。マノアは「あなたを引き止めてもいいでしょうか。子ヤギをごちそうさせてください」といいます。主のみ使いは「わたしはあなたの食べ物を食べない。もし焼き尽くすささげものをささげたいのなら、主にささげなさい」と答えます。この時に、マノアはその人が神からのみ使いだとは知らなかったのです。 そこで、マノアは主のみ使いに「あなたのお名前は何とおっしゃいますか。あなたをおもてなしたいのです」といいます。主のみ使いは「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議という」と答えます。

 マノアは子ヤギと穀物のささげものを携えて、岩の上に上って、主、不思議なことをなさる方にささげようとしました。すると祭壇から炎が天に上る時、主のみ使いも、その祭壇の炎と共に上って行きました。マノアと妻は、それを見て、ひれ伏して顔を地につけました。2人はこの方が主のみ使いであることが分かったのです。マノアは神を見たので、自分たちが死ぬかもしれないと思いましたが、妻はそのようなことはないでしょう。子どものことをわたしたちにいわれたのですからと反論しています。妻は男の子を産み、その名をサムソンと名付けました。子は成長し、主はその子を祝福されました。主の霊が奮い立たせ始めます。これが士師サムソンの誕生の様子です。主のみ使いによって、マノアとその妻の間に生まれて来るのです。マノアがみ使いに名を尋ねた時に、「わたしの名は不思議という」と答えています。神がイスラエルのために、ペレシテ人から脅威から守るために、不思議なことをしてくださるのです。サムソンは生涯、ナジル人として歩むことになります。このサムソンの誕生の様子は、イエス・キリストの誕生と似ていると思いました。

ルカ1:26~31
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。

 士師サムソンとイエス・キリストの歩みは違うものですが、神に仕える者として、生まれる前から、神から祝福を受けている点では似ています。これからサムソンの歩みを見ていきますが、人間的な弱さを持ったサムソンがどう神に従っていくのかを見ていきたいと思います。サムソンの歩みと自分の歩みを重ねて見ていきたいと思います。

祈り 神よ。聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。士師サムソンの誕生の様子をみてきました。神に祝福されてナジル人としての歩みをするようにと母親にいわれました。神はサムソンを士師として、イスラエルの危機の時に、働くように導かれるのです。神からの霊によって特別な力が与えられました。その力をサムソンは神のために、イスラエルのために用いられることを求められていきます。サムソンの歩みを見ながら、私たちの歩みを考えていきたいと願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


10月13日の礼拝の内容です。

2024-10-12 21:02:00 | 日記
10月13日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.57.405.471.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/ethc-dVmLDM?feature=shareです。

10月13日の特別講演会「パレスチナとイスラエルの平和」桃井和馬氏
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/QQqAlh0KZX0?feature=shareです。

礼拝説教    使徒12:12~19「戸をたたき続けて」   2024.10.13

 今日の午後に、教会創立136周年記念講演会を予定しています。この礼拝の中に講師である桃井和馬先生も一緒におられます。主題は「パレスチナとイスラエルの平和」です。詳細は、午後になりますが、私たちが本当のその通りになって欲しいという内容です。パレスチナとイスラエルは今、まさに戦争状態にあります。長く、この争いは続いています。本格的な平和が訪れて欲しいと心から神に祈るのです。神への祈り、神への祈ることの大切さが、今日の説教のテーマになります。私たちが語る神への祈り、そして神からの応答、それをどのように受け止めていくことができるのでしょうか。

 使徒言行録に入っていきます。使徒言行録は、最初のキリスト教の教会の歩みが書かれてあります。神からの聖霊を受けたイエス様の弟子たちは、使徒として歩んでいきます。聖霊を受けたことによって、イエス・キリストの十字架の意味、私たちに対する救いの意味を知ることができました。そして、このイエス・キリストの十字架の福音を伝えていくのです。ユダヤ人の反対にあいながらも、伝道活動は広がって行きます。イエス・キリストの十字架の福音はエルサレムから始まり、ユダヤ、サマリア、アジアに広がっていきます。アンティオキアにおいて、初めての異邦人教会が誕生しました。これからパウロによる異邦人伝道が本格的に始まっていきます。その前に、当時の支配者であるヘロデ王に迫害のことが起って行きます。ヘロデ王は、自分の王としての権威を保つために、ユダヤ人からの指示を得るために、教会を迫害していくのです。ここでは、ペトロが捕らえられていきます。

 それは、除酵祭の時でした。ヘロデ王はペトロを捕らえて牢に入れ、4人一組に引き渡して監視させました。過越し祭の後で、民衆の前に引き出すつもりでした。こうしてペトロは牢に入れられてしまったのです。ここで教会はペトロのために熱心な祈りが神にささげられていました。この教会の祈りが大切なものとなっていきます。教会の熱心な神への祈りが、神に聞かれていきます。ヘロデ王は次の日に、ペトロを牢から引き出そうとしていた前夜、ペトロは2本の鎖につながれ、2人の兵士の間で眠っていました。番兵たちは戸口で牢を見張っていました。本当に厳重な警備がなされていたのです。そして、神は天使を送って動かれます。主の天使は側に立って、光が牢の中を照らし、ペトロを起し、ペトロのつながっていた鎖は外れ落ち、天使の導きによって、ペトロは帯を締め、上着を着て、外に出て行きます。第1、第2の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門はひとりでに開いて、そこを出て、ある通りに進んで行きます。すると、天使は離れ去って、ペトロは我に返って、自分が牢から解放されたことを知るのです。

 牢を出たペトロは神から送られた天使が、自分をヘロデ王の手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから救い出してくださったことを知るのです。こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行きます。ここは、初めての教会です。教会堂というのはまだできていなくて、家の教会ということになります。大きな家だったのでしょう。そこには大勢の人々が集まって祈っていたのです。そうです。ペトロの解放のために祈っていたのです。教会は1つになって、指導者ペトロの無事と牢からの解放を祈っていました。教会の人々の祈りは聞かれたのです。教会の人々はすぐに喜んだでしょうか。ここで不思議なことが起って来ます。

 ペトロはその家の門の戸をたたくのです。そうするとロデという女の人が取り次ぎに出て来ました。ペトロの声だと分かると、喜びのあまりに門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが家の門の前で立っていると告げました。教会の人々は喜んで、すぐに家の門に走って行ったでしょうか。そうではなくて、教会の人々はその女の人に「あなたは気が変になっているのだ」と告げました。教会の人々は、神から送られた天使によって、ペトロは解放されたことを信じることができませんでした。それで、「あなたは気が変になっている」といってしまっているのです。教会の人々の祈りは、いったいどのようなものだったのでしょうか。神への熱心な祈りは、ウソだったのでしょうか。ロデは「本当にペトロがいる」と言い張ったのです。それでも、教会の人々は、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出しました。当時は、1人1人に守護天使がいると考えられていたからです。

 ペトロは戸をたたき続けました。教会の人々が家の戸を開けてみると、そこにはペトロがいたので、非常に驚いています。牢の中に閉じ込められていたペトロの無事と解放のために、神に熱心に祈っていたのに、実際に目の前に、ペトロが解放されていることに驚いているのです。信じられない思いでいるのです。それが人間の現実なのだと思います。そのような弱さを、人間は持っているのです。ペトロは驚いている教会の人々を手で制して、彼らを静かにさせて、神が天使を遣わして、牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」といいました。そして、家を出て、他の場所に行きます。そうです。ヘロデ王の追っ手が迫ってくるはずです。同じ場所にいることはできません。夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになりました。ヘロデ王はペトロを捜しても見つからないので、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在しています。

 この教会の人々の祈りを見ていると、アブラハムの物語を思い出します。アブラハムはイスラエルの人々の最初の族長になった人です。創世記12章から始まっていきます。アブラハムと妻サラの間には子どもが生まれませんでした。もちろん、アブラハムもサラも、自分たちの間に、子どもを与えてくださいと神に祈っていたと思います。そして、神は2人に子どもを与えると約束してくださっていました。神の約束の言葉とはうらはらになかなか、子どもは与えられませんでした。アブラハムもサラも年を重ねて、高齢になってしまいました。そこで、妻のサラは、アブラハムにハガルというエジプト人の女性によって子どもを得るようにしたのです。アブラハムは、神に子どもを与えてくださいと祈りながら、神の言葉を信じることができず、ハガルによって、子どもを得るようにしました。こうして生まれたのが、イシュマエルです。

 アブラハムが99歳になった時です。神はアブラハムに「あなたとサラの間に子どもを与える」といってくださいました。その時に、アブラハムは神の前にひれ伏しながら、笑って、ひそかに「100歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のサラに子どもが生まれるだろうか」といってしまいます。更に、神は天使を送って、サラに「来年の今ごろ、サラに男の子が生まれるでしょう」といってくださったのに、サラはひそかに笑って、自分も年をとり、もはや楽しみなどあるはずもなし、主人も年老いているのに、無理だと思ってしまいました。そのようなアブラハムとサラの思いはありながらも、神はその約束を実現させてくださるのです。アブラハムが100歳の時に、妻サラとの間に、男の子イサクが生まれたのです。

 神への祈りについて、聖書はいろいろな場面を描いています。神の思いと私たちの思いの違いがあります。ペトロが捕らえられて牢に入れられてしまった。次の日には、死刑になってしまうという状況の中で、教会の人々の神への熱心な祈りがなされていた。神は天使を送って、教会の人々の祈りを聞き、ペトロを牢から解放してくださった。その時に、ペトロの解放に信じることができなかった教会の人々、また、アブラハムも子どもを与えてくださるという神の約束の言葉がありながら、信じ切ることができず、別の方法で、子どもを得たのでした。でも神は約束の通り、子どもを与えてくださったのでした。

 神への祈り、私たちは神との関りの中で、神への熱心な祈りをささげることがあります。その祈りに対して、神はどのように受け止めてくださっているのか、また、その神に対する思いといいますか。神への対応を、私たちはどのようにしているのでしょうか。改めて問う必要があるのでしょう。パレスチナとイスラエルの平和のために、私たちは祈っているでしょう。でも、その祈りが実現していないことに、どのように受け止めたらいいのでしょうか。神の思いは、どこにあるのでしょうか。そして、その神の思いを、どのように知ることができるのでしょうか。神への祈りは、神と私たちの対話です。私たちの思いは、祈りによって、神に伝えました。では、神の応答は聞いているのでしょうか。神の思いは、どこにあるのでしょうか。私たちは今、静かに、神の思いを聞くことができる信仰が求められているのです。私たちは、自分の思いを神にぶつけるだけでなく、神からの言葉を待ち続けることが求められているのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちは、神への祈りによって、自分たちの思いをあなたに語りました。あなたは、どのように受け止めてくださっているのでしょうか。また、あなたの思いを受け止めることができますように、私たちにあなたの言葉を聞くことができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


10月9日の祈祷会の内容です。

2024-10-08 20:06:00 | 日記
祈祷会     士師記12章「エフライム人のおごり」    2024.10.9

 士師エフタの物語は、士師記10:6~12:7まであります。エフタはアンモン人との戦いの前に神に誓ってしまいました。「アンモン人との戦いに勝利して、無事に家に帰る時、わたしの家の戸口から出て来る者を主のものとします。わたしはその者を、焼き尽くすささげものといたします」と。エフタはアンモン人との戦いに勝利し、家に帰ります。家の戸口から出て来た者は一人娘でした。鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来たのです。エフタは、自分が誓ったことの意味を深く悲しく味わったのです。エフタは自分が神に誓った通りに、一人娘を神に焼き尽くすささげものとしてささげたのです。エフタの悲しみはどれほどのものだったのでしょうか。

 アンモン人との戦いに勝利したエフタのもとに、エフライム人が勢ぞろいでやってきます。エフライム人はエフタに「アンモン人との戦いに出向いた時、なぜあなたは、わたしたちに同行を呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも焼き払ってやる」と、突然のことをいいます。エフタはエフライム人に「わたしとわたしの民がアンモン人と激しく争っていた時、あなたたちに助けを求めたが、敵の手からわたしを救ってくれなかった。あなたたちが救ってくれることはないと思い、わたしは命がけでアンモン人に向かって行った。主は、わたしの手にアンモン人を渡してくれた。どうして今日になってわたしに向かって攻め上り、戦おうとするのか」と答えます。

 エフタとギレアドの人々がアンモン人と戦い、勝利した後で、すぐにエフライム人がやって来て、エフタに文句をいっています。それは、どうしてアンモン人との戦いで、自分たちに声をかけてくれなかったのかということでした。エフタの説明によると、エフタは、エフライム人に戦いの協力を求めたが、応じてくれなかったということでした。どちらが正しいことをいっているのでしょうか。エフタの方が正しいと私は思います。命をかけて、アンモン人と戦ったエフタ、そのために一人娘を失ってしまったのです。この時に、エフライム人がやって来て、エフタに文句をいい、そして戦おうまでしているのです。

 さて、エフライム人はどうして、このような行動にでるのでしょうか。エフライム人は約束の地の中心に土地を得ています。自分たちは12部族の中で、重要な地位を占めているという自負があったということです。それで、エフタにこのようなことをいっているのです。エフライムはヨセフの息子の一人です。エルライム人のおごりというのは、いくつかの場面で出てきます。

ヨシュア17:14~15
ヨセフの子らがヨシュアに、「あなたはなぜ、ただ一つのくじによる嗣業の土地、一つの割り当てしかくださらないのですか。わたしの民は、主に祝福されて、これほど数多くなりました」と言うと、ヨシュアは答えた。「あなたの民の数が多くて、エフライムの山地が手狭なら、森林地帯に入って行き、ペリジ人やレファイム人の地域を開拓するがよい。」

 ここではヨセフの子らとなっています。彼らはヨシュアに「どうして、1つのくじによる土地しか与えてくれないのか。私たちは主に祝福されて、これほど多くなったから、もっと土地を与えてくれてもいいはずだ」と文句をいっているのです。ヨシュアは彼らに、「ならば、自分たちの手で土地を開拓するがいい」といって、答えています。そして、今日の聖書の箇所と同じようなことがギデオンの時も起っています。

士師記8:1~3
エフライムの人々はギデオンに、「あなたはミディアンとの戦いに行くとき、わたしたちを呼ばなかったが、それはどういうことか」と言って、激しく彼を責めた。ギデオンは答えた。「あなたたちと比べて、わたしが特に何をしたというのか。エフライムに残ったぶどうは、アビエゼルが取ったぶどうよりも良かったではないか。神はミディアンの将軍オレブとゼエブをあなたたちの手に、お渡しになったのだ。あなたたちと比べて、わたしに特に何ができたというのか。」彼がこう語ったので、彼らの憤りは和らいだ。

 ギデオンと300人がミディアン人と戦い、勝利した後で、エフライム人はやって来て、ギデオンに「あなたはミディアン人との戦いに行く時に、どうして私たちを呼ばなかったが、それはどういうことか」といって、激しくギデオンを責めています。この時、ギデオンはエフライム人がミディアン人の2人の将軍を倒したことを評価して、エフライム人の憤りを和らげています。しかし、今日の聖書の箇所では、エフタはエフライム人の行動に激しく怒り、戦うのです。ある意味で、イスラエルの中での戦いです。悲しいことです。この時、エフライム人42000人が倒されたと書かれてあります。エフタは6年間、士師としてイスラエルを裁いたとあります。こうして、エフタは死んでいきます。今日の聖書の箇所では、エフライム人のおごりが問題になっています。自分たちは他の部族よりも、偉いのだと思うこと、それが、このような悲劇につながっていくのです。

箴言16:18~19
痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊。貧しい人と共に心を低くしている方が傲慢な者と分捕り物を分け合うよりよい。

 私たちは、この聖書の言葉をどのように受け取ることができるでしょうか。自分の心の中に、このような思いがあるのか、もう一度、点検してみたいと思います。イエス・キリストの十字架を見上げる時に、そこから何が見えてくるのでしょうか。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。エフライム人のおごりについて見てきました。エフライム人のおごりが、自分たちに悲劇を受けることになります。私自身の心の中を見ると、このようなおごりがあります。悲しいかな、これが私の現実でしょうか。どうか、そのような思いにあることに気づき、イエス・キリストの十字架を見上げることができますように、導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


10月6日の礼拝の内容です。

2024-10-05 20:37:00 | 日記
10月6日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.200.361.434.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/dlrTwTh6B1M?feature=shareです。

礼拝説教      使徒12:6~11「光が牢の中を照らす」   2024.10.6

 今年の1月1日に能登半島地震が起りました。能登を中心に大きな被害が出ました。それから9ケ月を迎えて、少しずつですが復興への新しい段階に入っていこうとしてました。それが9月21日~22日と大雨が能登地方を襲いました。輪島市や珠洲市を中心に大きな被害がありました。先週の月曜日に、輪島市に入ってある仮設住宅の敷地内にある泥出しを行ってまいりました。水は引いていましたが、大量の土砂を残していきました。10人のグループで作業を行いましたが、いつ終るのだろうという感じでした。作業を指示してくださる仮説住宅の住民の方と共に行いました。その方がいっていたのですが、大雨の降る2.3日前にやっと新しい仮設住宅に入ることができた。やっとここまで来れた。これからだという時に、この大雨にあって、どうしてという気持ちでいると。ただ、仮設住宅の周りの泥は取っても問題が残っています。それは、家の下に入った泥をどうするかです。この泥を取るためには、一度部屋に入れた家具などを外に出さなければなりません。一時的に他に移動する必要があるのです。火曜日には、穴水町の仮設住宅でのイベントに参加しました。ここには大雨の被害はありませんでした。この住民の方がいっていたのですが、輪島市や珠洲市や他の地域で大雨の被害にあった方は気の毒だ。何か申し訳ない気持ちがあると。仮説住宅でも、大雨の被害があった場所、なかった場所があります。当然なのですが、私自身、側にいて何ともいえない気持ちになりました。

 使徒言行録を読んでいます。初めての異邦人教会であるアンティオキアの教会が誕生しました。これからパウロなどによる本格的な異邦人伝道が始まっていきます。その前に、教会はヘロデ王による迫害を受けることが書かれてあります。ヘロデ王は、自分の地位を守るために、ユダヤ人の関心を得るために教会を迫害するのです。自分の地位を守るためならば何でもするのです。ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したのです。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更に、教会の指導者であったペトロをも捕らえようとしました。それは、除酵祭の時期でした。ヘロデ王はペトロを捕らえて牢に入れました。4人一組の兵士4組に引き渡して監視させます。厳重な見張りを置いたということです。ヘロデ王は過越し祭の後で、ペトロを民衆の前に引き出して、みせしめにし、殺すつもりでした。このようにして、ペトロは牢に入れられてしまったのです。

 教会ではペトロのために熱心な祈りがささげられていました。そして、今日の聖書の箇所に入っていきます。ここでは神によってペトロの牢からの救出のことが書かれてあります。ペトロは牢に入れられていて、明日には殺されることになっていたのです。それが、神の働きによって、天使の働きによって、牢から救出されていくのです。そのことは本当に喜ばしいことなのですが、ペトロを監視していた兵士たちは、役割を果たすことができなかったということで殺されてしまうのです。もっといえば、ヤコブはすでに殺されてしまったのです。以前にこの聖書の箇所を読んだ時は、この問題を考えていませんでした。ところが、今回は、どうしてペトロは助けられ、ヤコブは殺されてしまったのだろうかと疑問がわいてきたのです。神は、ヤコブはもう役割がないからいいとした。でも、ペトロは今後、大切な伝道の働きがあるから助けたということかと自分なりに考えたのです。どうして、どうしてと疑問は続きました。でも、答えは出て来ません。分かりません。神はこのことをどのように考えて、行動されたのだろうかと問いたいくらいです。でも、神からの答えはありません。私の神への信仰心が弱いために、答えはないのかもしれません。本当のことは分からないのです。

 ふと、私たちの考えでは分からないことが多いのです。とにかく、ヤコブは殺され、ペトロは助けられるのです。それでは、ここからペトロがどのように救出されるのかをみていきたいと思います。聖書をみてください。ヘロデ王がペトロを引き出そうとしていた日の前夜のことです。ペトロは2本の鎖につながれ、2人の兵士の間で眠っていました。番兵たちがその戸口で牢を見張っていたのです。本当に厳重な警備です。人間的に見れば、その牢から脱出することはほとんど不可能に思えます。

 そこに主の天使が神から遣わされて来ます。主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らすのです。天使はペトロのわき腹をつついて起し、「急いで起き上がりなさい」といいました。すると、ペトロは2本の鎖につながれていたのですが、鎖がペトロの手から外れ落ちます。天使が「帯を締め、履物を履きなさい」といったので、ペトロはその通りにします。また、天使は「上着を着て、ついて来なさい」といいました。それで、ペトロは外に出てついて行きましたが、天使のしていることが現実のこととは思われなかったのです。幻を見ているのだと思っていたとあります。第1、第2の衛兵所を過ぎ、町に通じる道まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去って行きます。

 ここでペトロは我に返りました。ペトロは「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」といっています。この使徒言行録を書いたルカは、この話をきっとペトロから直接聞いたのでしょう。ペトロは自分に起ったことが現実のこととは思うことはできなかったのでしょう。目の前で起っている出来事は、すべて幻なのだと思っていたのでしょう。それが、現実に起ったことで非常にびっくりしたのだと思います。この牢からのペトロの救出は、すべて主の天使の仕業です。神が、主の天使を送って、牢の中にいたペトロを救出されました。番兵が近くで見張っていたのに、番兵は何もできなかったのだと思います。それで、ペトロを逃した責任を問われて死刑になったことはとても悲しいことだと、私は思いました。

 ここで、神の御心は、牢の中にいるペトロを救出することでした。ヘロデ王がどのようにしても、ヘロデ王の思う通りにはならないのです。それは、神のご意志だからです。使徒であるヤコブは殺されて、ペトロは救出されていく、これが使徒言行録の流れです。その結果に、何を言おうともどうなることではありません。そのような結果となってしまったということを受け止めるが求められています。

 それから、改めて、私たち自身の人生を振り返っても、どうして、このようなことになってしまうのか。どうして、このような歩みになってしまうのかと問うことがあります。しかし、その人生のある意味で不条理という流れの中で、受け止めることのできないことを受け止めることが多く求められていくのが人生なのかと感じるのです。ある意味で、そのことはとても難しい判断だと思います。しかし、それが出来なければ、私たち自身が、その人自身がとても苦しい状況の中で歩むことになります。昔、マンガで「バカボン」というのがありました。バカボンのパパがよくいっていました。「これでいいのだ」と。どのような状況が起っていても、「これでいいのだ」ということができるということです。それでも、人生の苦難の中で、どういうことができないことも起って来ます。その時は、大声を出して泣くのです。また、誰もいない場所に行って、大きな声で叫び続けることもいいでしょう。人生の歩みは、とても過酷なものです。そして、一番辛い、人の死が待っています。人の死の前では、何もすることはできません。結果的に受けとめるしかないのです。

 でも、神の最終的な御心は次のようになっています。この部分はとても大切なことです。神の救いのことだからです。

ヨハネ3:16~17
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 イエス・キリストによるわたしたちすべての人間の救いのことです。考えてみれば、ペトロが、この場面で救出されたことも、このすべての人々の救いのことを伝えるためでした。イエス・キリストの福音を全世界に伝えるためでした。私たちが負う人生のいろいろな事柄を、どのように受け止めたらいいのか、本当に難しい課題です。私たちには、イエス・キリストの十字架と向き合うことによって、何かしらの解答を神から与えられると信じています。イエス・キリストの十字架を仰ぎつつ、それぞれの人生の歩みをしていこうではありませんか。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちの人生の中では、どうしても受け止めることができないものが多くあります。そのために、苦しみ、悩み、悲しみます。それでも私たちは人生の歩みを続けていくことになります。そのような悲しみや苦しみの中で、イエス・キリストの十字架を仰ぎつつ、歩みことができる信仰を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


10月2日の祈祷会の内容です。

2024-09-28 20:08:00 | 日記
祈祷会     士師記11:21~40「士師エフタの娘から」    2024.10.2

士師エフタの話は、士師記10:8~12:7までです。いつものようにイスラエルの人々は主の目に悪とされることを行ってしまいました。バアルや先住民の神々を拝んでしまったのです。主は怒り、敵としてアンモン人を送りました。アンモン人の支配によって、イスラエルの人々は18年間も苦しめられることになります。イスラエルの人々はその苦しみの中で、主に助けを求めて叫びます。主は、イスラエルの苦しみをみるのにしのびなくなり、士師としてエフタを送ります。エフタの境遇は悲しいものでした。ギレアドの人エフタは勇者でした。エフタは遊女の子でした。父親はギレアドといいます。ギレアドの妻も男の子を産みました。その子どもたちが成長していくと、エフタに「あなたは、よその女の産んだ子だから、私たちの父の受け継ぐものはない」といって、エフタを追い出してしまいます。エフタは兄弟たちから逃れて、トブの地に身を落ち着けました。そのエフタのもとにはならず者が集まり、エフタと行動を共にします。おそらく、近隣の村々を襲い略奪などを繰り返していたと考えられます。

 しばらくすると、アンモン人が攻めてきます。その脅威の中で、ギレアドの長老たちは、エフタを連れ戻し、アンモン人との戦いに勝つためにギレアドの全住民の頭になってくださいと願います。エフタは承知し、ギレアドの人々は、エフタを自分たちの頭とし、指揮官として立てます。エフタはアンモン人の王と交渉しますが、決裂して、戦うことになりました。エフタは、ギレアドのミツバからアンモン人に向かって兵を進めます。この時に、エフタは主に誓いを立てます。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰る時、わたしの家の戸口から出て来る者を主のものとします。わたしはその者を、焼き尽くすささげものといたします」と。こうして、エフタは進んで行き、アンモン人と戦って行きます。主はアンモン人をエフタの手に渡します。エフタはアンモン人を徹底的に撃ちます。アンモン人はイスラエルの人々に屈服しました。エフタが、アンモン人との戦いに出る前に、主に誓いを立てました。エフタにとって、命をかける戦いになると感じていたのでしょう。自分の命が無事に帰って来ることができないことも考えていたと思います。自分がアンモンとの戦いに勝利して、無事に家に帰ることができた時に、わたしの家の戸口から出て来る者を主のものとする、エフタは自分の誓いの意味を深く考えていなかったと思います。命をかけた戦いですから、この時、エフタは、家の召使が誰かを想像していたのでしょう。しかし、エフタの主への誓いは、悲しい結果を産むことになります。

 エフタがミツバにある自分の家に帰った時、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出てきました。彼女は一人娘で、他に息子も娘もいなかったのです。エフタはその娘を見ると、衣を引き裂いて、「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しのつかない」といいます。娘は「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから」といいます。続けて「わたしにこうさせていただきたいのです。2ケ月の間、わたしに自由の時間をください。わたしは友達と出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです」といいます。エフタは「行くがよい」といって、娘を2ケ月の間去らせます。娘は友達と共にでかけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しみました。2ケ月が過ぎて、娘は父エフタのものに帰って来ると、エフタは立てた誓いのどおりに娘をささげるのです。娘は男性と関係を持つことがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができたと書いています。来る年も来る年も、年に4日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの娘の死を悼んで、家を出るというものです。

 エフタとその娘の話は、このように悲しい結果として終りました。エフタのこの誓いをどのように考えればいいのでしょうか。最初から、そのような誓いをしなければよかったということもできるでしょう。エフタの誓いは、主にささげるものを人間と考えていました。動物にすればよかった。牛や羊ややぎでもよかったではないかと思います。でも、エフタは敵との戦いで、勝利を願う時に、何もなしで誓うことはできないと判断したのだと思います。エフタにとって、一番大切なものと交換することによって、自分の誓いが主によって聞いてもらえると思ったのでしょう。何もなしでは話にならないと判断したと思います。しかし、旧約聖書の考えでは、エフタは娘をささげなくてよかったのです。
申命記12:31
あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである。

では、どのようにすればよかったのでしょうか。レビ記27:1~8には、もし、人間そのものをささげたい場合には、その評価額として金銭を神のみ前にささげるようにと定められています。このような神の律法をエフタは知らなかったのでしょうか。そうだとしても、エフタを責める気持ちは私にはありません。エフタの深い悲しみを思うからです。自分の誓ったことが娘の死につながったということになってしまいました。このエフタの悲しみを通して、私は主の悲しみを思います。それは、イエス・キリストの十字架の死を考えるからです。
ローマ3:23~24
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 このように、主はその独り子イエス・キリストを十字架につけてくださいました。それは、私たちの罪の赦しのためでした。私たちの罪の赦しは、主の行為によって、無償で、受けることができているのです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時をありがとうございました。エフタの主への誓いから、一人娘をささげることをみてきました。エフタは自分の行ったこと深く後悔したと思います。深い悲しみに落とされました。このエフタの悲しみから、私はあなたの御子イエス・キリストの十字架のことを思いました。この時のあなたの深い悲しみを忘れることのように願います。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)