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9月25日の祈祷会の内容です。

2024-09-24 20:06:00 | 日記
祈祷会    士師記11:1~20「士師エフタの働き」  2024.9.25

 士師エフタの物語は、士師記10:6~12:7に書かれてあります。いつものようにイスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行っています。バアルや近隣の異邦人の神々を拝むようになりました。すると、主はイスラエルに対して怒り、敵としてペリシテ人やアンモン人を送るのです。彼らによって、イスラエルの人々は18年間、苦しめされることになっていきます。その苦しみの中で、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫ぶのです。この時に、主は「わたしはもうあなたたちを救わない。あなたたちの選んだ神々に助けを求めて叫ぶがよい」といって、拒否しました。しかし、この時に、イスラエルの人々は深く反省し、主に助けを求めるために、異邦人の神々を捨てて、主に仕えるようになります。主は、そのイスラエルの人々の行為に、その苦しみを見てしのびなくなっていきます。アンモン人は集結して陣を敷きます。イスラエルの人々も戦うために陣を敷きます。

 これから、士師としてエフタの登場ということになります。それが、今日の聖書の内容です。エフタの生い立ちがまず書かれてあります。非常に悲しい境遇の中で、エフタは成長していきます。それは、ギレアド人エフタは、勇者でした。エフタは遊女の子で、父親はギレアドとなっています。ギレアドの妻も男の子を産みます。その妻の産んだ子どもたちは成長するとエフタに「あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐべきものはない」といって、エフタを追い出してしまうのです。エフタは兄弟たちから逃れて、トブの地に落ち着きました。そのエフタのもとにはならず者が集まって、エフタと行動を共にするようになります。

 しばらくして、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けて来ました。ギレアドの人々は困ってしまいました。そこで、ギレアドの長老たちは、トブの地にいるエフタを連れ戻そうとやって来ました。ギレアドの長老たちは、自分たちだけではアンモン人との戦争に勝てないと判断したのです。それで、勇者エフタの助けを求めていくのです。ギレアドの長老たちはエフタに「帰って来て下さい。わたしたちの指揮官になっていただければ、アンモン人と戦うことができます」といいます。エフタは、「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったからといって、今ごろなぜ、わたしのところに来たのですか」といいます。ギレアドの長老たちは、「だからこそ今、あなたのところに戻って来たのです。わたしたちと共にいて、アンモン人と戦ってくださるなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の頭になっていただきます」といいます。エフタは、「あなたたちがわたしを連れ帰り、わたしがアンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださるなら、このわたしがあなたたちの頭になるのですね」といいます。ギレアドの長老たちは「主がわたしたちの一問一答の証人です。わたしたちは必ず、あなたのお言葉通りに致します」と答えています。

 エフタは、自分がギレアドの人々の頭になることができるというギレアドの長老たちの言葉を受けて、アンモン人との戦いに出て行くことを決心しています。エフタはギレアド人からのけ者にされ、父の家から追放されたことを忘れていません。それでも、自分が頭になることができるといわれて、受け入れていくのです。エフタはギレアドの長老たちと同行して行きます。ギレアドの人々は、エフタを自分たちの頭として、指揮官として立てていくのです。エフタは主のみ前に出て、自分がいった言葉をことごとく繰り返しています。自分のいった言葉を確認しているのでしょう。それも、主のみ前でいっている言葉なのです。

 エフタはアンモン人の王と使者を遣わしてやり取りします。エフタは「アンモンの王よ、あなたはわたしと何の関りがあって、わたしの国に戦いを仕掛けようと向かってくるのか」といいました。アンモンの王は「イスラエルがエジプトから上って来た時、アルノンからヤボク、ヨルダンまでのわが国土を奪ったからだ。今、それを平和に返還せよ」と返しました。エフタは「イスラエルはモアブの地もアンモンの地も奪いはしなかった。イスラエルはエジプトから上って来た時、荒れ野を通って葦の海まで来て、カデシュに着いた。そこからエドムの王とモアブの王に、あなたの国を通らせてくださいと頼んだが、聞いてくれなかった。イスラエルは一時的にそこに留まっていたが、やがて荒れ野を進み、エドムとモアブの地を迂回し、モアブの東側に出て、アルノンの向こう側に宿営し、モアブの領土は侵さなかった。イスラエルはアモリ人の王シホンに、あなたの国を通って、わたしの目指す所まで行かせてくださいと頼んだが、シホンはイスラエルを信用せず、領土内を通らせないだけでなく、イスラエルに対して、戦いを仕掛けて来た」と答えます。

話は続きますが、エフタの話は300年前のことです。イスラエルがこの地を300年に渡って住んでいたのに、今になって、なぜ戦いを仕掛けて来るのかと問い返しています。しかし、アンモンの王はエフタの言葉を聞こうとはしませんでした。こうして、イスラエルの人々とアンモン人の戦いが始まっていくのです。過去の出来事と土地を巡る争いは、いつの時代で起ってくるものです。今、日本では戦争は起っていません。でも、世界はある地域で戦争が行われています。いつの日か、日本も戦争に巻き込まれる時がやってくるかもしれません。どうしたら、戦争がない世界をつくることができるのか。私たち人間の大きな課題です。いったい、どうすればいいのでしょうか。主からの答え祈りつつ、求めていきたいと願います。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルとアンモンの戦いのことを学びました。いつの時代でも、戦争が起っています。どうすれば戦争をすることのない世界をつくることができるのでしょうか。今、起っている戦争を止めることができるのでしょうか。戦争が終って欲しいと祈っていても、終りません。祈ることの空しさを感じてしまいます。どうか、あなたの知恵を与えてください。戦争を止めさせる知恵を示してください。心から願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


9月22日の礼拝の内容です。

2024-09-21 11:27:00 | 日記
9月22日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.58.436.457.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/ggux-NBkGRw?feature=shareです。

礼拝説教       使徒12:1~5「熱心に祈りたい」     2024.9.22

 今日は、神に祈ることの意味を考えていきたいと思います。神への祈りといいますと、自分の願いを神に語り、聞いていただくというイメージが強いと私は思いますが、皆様はいかがでしょうか。そもそもどうして、私たちは神に祈るのでしょうか。神は、私たちの祈りを聞きたいと考えているのでしょうか。

 私は、日曜日の礼拝で使徒言行録を読んでいます。キリスト教の最初の歩みを見ることができます。この教会の歩みを見ながら、私たちの教会の歩みの大切なことを知ることができると信じています。イエス様の弟子たちに聖霊が降り、弟子たちは、イエス・キリストの福音を理解することができるようになり、教会の歩みがスタートしていきました。弟子たちは大胆に、身近な人々に、イエス・キリストの十字架の福音を語っていきました。多くの人々が、イエス様の福音を受け入れて、洗礼を受けて教会に加わっていきました。素晴らしい発展を教会はしていくのです。ユダヤ人の迫害もありましたが、伝道活動は進んでいきます。ステファノの殉教をきっかけに、多くの教会員はエルサレムを離れ、ユダヤ、サマリア、アジアに逃げてて行きながら、イエス・キリストの福音を伝えていくのです。

 ユダヤ人キリスト者は、それまでイエス・キリストの福音をユダヤ人だけにしか語っていませんでした。神の選民としてのユダヤ人という意識が強かったのです。ところが、アンティオキアの町に行ったキプロス島やキレネから来た者は、異邦人にもイエス様の福音を語っていきました。そうすると、多くの異邦人が、イエス・キリストの福音を信じて、洗礼を受けて、異邦人の教会が誕生しました。使徒2章で、イエス様の弟子たちに対する聖霊降臨がありました。使徒10章では、異邦人にも聖霊降臨が起っています。世界で初めての異邦人教会であるアンティオキアの教会が誕生して、使徒言行録は、今後、パウロによる異邦人伝道が本格化していくのです。

 実は、その前に教会は大きな試練を受けることになります。それが、使徒12章です。ここにはヘロデ王が登場して来ます。新約聖書の福音書には、何人かのヘロデ王が登場して来ます。振り返ってみると、イエス様の誕生の時にいたヘロデ王は、よくヘロデ大王といわれています。イエス様の十字架の時のヘロデ王は、ヘロデ・アンティパスといわれています。ヘロデ大王の息子の一人です、そして、使徒12章に出て来るヘロデ王は、ヘロデ・アグリッパ1世を呼ばれています。ヘロデ大王の孫にあたります。親子3代に渡って、教会にとって敵のような存在になっています。この時のヘロデ王にとって、何よりも大切なことは、自分の地位を守ることでした。そのために注意深く歩んでいくのです。そのためには、ユダヤ人が自分に対して、好意的ある必要があったのです。ユダヤ人から自分が行為をもたれるためには、何が必要なのかといつも考えていたのでしょう。それは、ユダヤ人のためにではなく、自分の地位を守るためでした。ユダヤ人にとって、教会の動きは許されないものだったのです。ユダヤ人はかつてステファノの殉教を起しました。ここで、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばしていきます。それは、そうすることがユダヤ人から喜ばれることだったからです。ヘロデ王にユダヤ教の信仰心からきているものではありませんでした。

 ヘロデ王は、そこでヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したとあります。ヤコブは、イエス様の12弟子の中で初めての殉教者となりました。このヤコブについては、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」(マタイ20:23)と書かれてありますので、その言葉が成就したことになります。ヤコブの殉教はそれだけでは終りませんでした。ヘロデ王は、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したことがユダヤ人に喜ばれることを見て、更にペトロをも捕えようとしました。それは、除酵祭の時でした。ヘロデ王はペトロを捕らえて牢に入れ、4人一組の兵士4組に引き渡して監視させたのです。厳重に監視していくのです。この時の看守は、もし囚人を逃がすことをすれば、自分が囚人の身代わりとして死刑になることになります。時は過越し祭で、祭りが終ってから、民衆の前に引き出して、ペトロを処刑する予定でした。こうして、ペトロは牢に入れられていました。

 この時に、教会にとって大きな危機を迎えていました。使徒ヤコブが殺されて、使徒のリーダーであるペトロも捕らえられて、牢に入れられて、処刑されようとしています。このままだと教会は解散するかもしれません。この危機の中で、教会はいったいどのようにしたのでしょうか。教会はペトロのために熱心な祈りが神にささげられていたのです。教会が、大きな試練に出会った時に、すべきことは神に熱心に祈ることです。これが教会のすべきことなのです。教会に集う者たちも、大きな試練と出会った時に、すべきことは神に熱心に祈ることです。教会が、私たちが、このような危機の時に、最善のことは神の祈ることです。

 そうです。今日は祈りとは何かを考えたいといいました。教会がこのような難しい状況をどのように乗り越えていったのかを見ていきたいと思います。そもそも、私たちはどうして神に祈る必要があるのでしょうか。神は全知全能のお方です。別に私たちが祈らなくても、神は私たちの必要をご存じのはずです。そうならば、私たちが祈る前に、私たちの必要を満たしてくださればいいのです。もっといえば、そもそも試練が起る前に、その状況を察して、そんな試練に合わないようにしてくれればいいのです。それなのに、神はどうして、試練が起るのを見過ごして、私たちが祈るまで何もしてくださらないのですかと思いたくなります。このように考えるのは、私たち自身が祈りというものを誤解しているからです。

 キリスト者にとって、祈りというものは、どこかのお方のもとに行って、何かをお願いするということとは全く別のことです。私たちは神に祈りを通して、神を変えようとするかもしれません。でも、祈りというのは、神を変えるというものではなく、私たちが変えられるものです。よくいわれることですが、神への祈りは、神との対話です。私たちが、神に一方的に自分たちの思いを訴えるようなものではなくて、自分の思いを神に打ち明けながら、神の御声に耳をすませ、神の御心と一致していくための流れです。ですから、祈りには、私たちが何を祈るかというだけではなく、神からの答えに耳をすませる必要があるのです。それでなければ祈りは完成することはないのでしょう。神に自分の思いを伝え、神の答えをきき、今度は、それに対して、私たちが従っていくという私たちの応答があって、初めて祈りということになるのです。

 そこに至るまでは、神との対話をたくさんする必要があります。時には、自分たちの思いが強すぎて、神の御心を聞くことができないことがあります。分かっていても、従うことができないこともあるでしょう。そのような時を何度も重ねていく中で、私たちは神の御心に近づいていくことができるようになるのです。神への祈りには2つあると思います。1つは、1人で祈ることです。

マタイ6:6
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 ここには、1人で祈ることが書かれてあります。神に対して、1人で、誰もいない場所で、祈るのです。自分の思いをすべて神に訴えるのです。一方で、みんなで祈るということがあります。

マタイ18:19~20
また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 ここでは、皆で集まって祈ること、教会の祈りが書かれてあります。聖書に戻ります。ペトロは捕らえられ、牢に入れられて、明日にでも殺されるという危機の時に、教会はペトロのために熱心な祈りがささげられていました。ヘロデ王にヤコブが殺され、ペトロが捕らえられてしまった。この時に、教会の人々は、神への熱心な祈りをささげています。ここにはまず神への熱心な祈りをすることが求められています。私たちはどうでしょうか。このような祈りをしているでしょうか。教会の歩みにとって、神への熱心な祈りは、教会の力そのものです。私たち1人1人、神に熱心に祈る者でありたいと願います。

祈り 神よ、あなたに礼拝をささげることができましたことを心から感謝します。教会の熱心な祈りについて考えてきました。神へ祈りとは、あなたとの対話であるということを確認しました。私たちの思いを、あなたに訴えます。どうか、受け止めてください。そして、あなたの御心を私たちに示してください。私たちが神への信仰によって、受け止めることができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


9月18日の祈祷会の内容です。

2024-09-17 20:07:00 | 日記
祈祷会   士師記10章「苦しみを見るに忍びなくなる神」  2024.9.18

 ここには士師イサカル人トラが23年間、活動したことと、士師ギレアド人ヤイルが22年間、活動したことが最初に書かれてあります。活動内容はほとんど書いてありません。

 士師記10:6~18には、イスラエルの罪と罰のことが書かれてあります。イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行いました。先住民の神々であるバアルやアシュトレト、アラム、シドン、アンモン人、ペリシテ人の神々に仕えるのです。イスラエルの人々は何度も同じ過ちを繰り返しています。どうして、このようなことを犯してしまうのでしょう。神に罪を犯せば、必ず苦しみがやって来るということを味わっているのにです。イスラエルの人々は主を捨て、主に仕えなかったのです。そのようなイスラエルの人々の罪に対して、主はイスラエルの人々に対して怒りに燃え、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に渡されるのです。

 敵となった者は18年間、イスラエルの人々、ヨルダン川の東側のギレアデにあるアモリ人の地にいるすべてのイスラエルの人々を打ち砕き、打ちのめしたのです。アンモン人はヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、エフライムの家にも攻撃を仕掛けて来ましたので、イスラエルは苦境に立たされることとなりました。イスラエルの人々は主に助けを求めて叫ぶのです。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしたちの神を捨てて、バアルに仕えました」と。主は、イスラエルの人々に「エジプト人、アモリ人、アンモン人、ペリシテ人、シドン人、アマレク、マオンがあなたたちを圧迫し、あなたたちがわたしに助けを求めて叫んだ時に、わたしは彼らの手からあなたたちを救ったではないか。しかし、あなたたちはわたしを捨て、他の神々に仕えていった。それゆえに、わたしはもうあなたたちを救わない」といわれます。更に「あなたたちの選んだ神々のもとに行って、助けを求めて叫びなさい。苦境に立たされた時には、その神々が助けてくれるだろう」とも、いうのです。

 その神の言葉に対して、イスラエルの人々は「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事も御目にかなうことを行ってください。ただ、今日、わたしたちを救い出してください」と願います。この言葉はウソではなくて、イスラエルの人々は、異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになりました。そうすると、主はイスラエルの人々の苦しみを見るに忍びなくなっていくのです。アンモン人の人々は集結してギレアドに陣を敷き、イスラエルの人々も集まってミツバに陣を敷きます。ギレアドの指導者たちは互いにいい合います。「アンモンの人々に戦いを仕掛けるのは誰だろうか。その人がギレアド全住民の頭となるだろう」と。その流れから、士師記11章からは士師エフタの活動ということになります。

 私はここで、もう一度、士師記の神学を確認していきたいと思います。イスラエルの人々が約束の地に入った後で、指導者ヨシュアによって、守るべきことが3ついわれていました。神をまず信じること、そして神の教えを守ることです。特に大切なことは、約束の地において、先住民と交わってはならないのです。その理由は、先住民と交わることによって、先住民の信じる異教の神々を拝むようになるからです。ヨシュアは遺言として、何度もイスラエルの人々に語りました。しかし、士師記において、イスラエルの人々はヨシュアの語ったことを守ることができないのです。約束の地において、イスラエルの人々は平和に暮らすようになりますと、先住民と仲良く、生活することがよいだろうとして、交わっていきます。そして、ヨシュアが心配するように異教の神々を拝むようになっていきます。異教の神々を拝んでいくイスラエルの人々は、今まで導いてくださった主のことを忘れ、礼拝することがなくなっていきました。悲しいことですが、それがイスラエルの人々の歩みの現実の姿でした。

 でも、神はイスラエルの人々をそのままにはしないのです。イスラエルの人々の偶像礼拝に対して、神は怒り、敵をイスラエルに送るのです。その敵によって、イスラエルの人々は苦しめられることになります。その苦しみの中で、イスラエルの人々は、自分たちが拝んでいる偶像の神々に助けを求めて叫べばよいのです。しかし、それはしていないのです。実際にはしたけれど、偶像の神々は答えてくれなかったのでしょうか。敵の苦しみを受けて、イスラエルの人々は、神に助け求めて叫ぶのです。そうなると、神はイスラエルの人々の苦しみを憐れみ、助け手として士師を送っていくことになります。士師が立って、イスラエルと共に、敵と戦い、勝利します。イスラエルの人々に平和がやって来ます。やがて士師が死んでいきます。平和の中で、イスラエルの人々は神を忘れてしまい、先住民の信じる偶像をまたもや拝むことになります。イスラエルの人々は、何度も同じ過ちを繰り返していきます。どうして、同じ過ちを繰り返してしまうのでしょう。それが人間の弱さなのでしょうか。

 それと共に、神はイスラエルの人々を助けていくのです。イスラエルの人々が何度も同じ過ちを繰り返していきます。その度に、神はイスラエルの人々を導き、時には敵を送り苦しめ、時には士師を送って助けていきます。神の忍耐強さに、その関りの強さに感動します。神はイスラエルという罪人と共に歩んでくださっています。イスラエルの人々を見捨てようとはなさいません。ここには神の深い愛を見ることができます。イスラエルのへの愛は、私たちへの愛とつながっています。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの人々の歩みを通して、神の救いをみることができています。ここにはイスラエルの人々が何度も神に対して、罪を犯し続けてしまいます。神は、そのイスラエルの人々を導き、再び神へ立ち帰ることができるように導いてくださっています。人間の現実がそこにはあり、その人間の現実に対して、神は大きな愛によって導いてくださっています。神の愛を見失うことがないように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


9月15日の礼拝の内容です。

2024-09-14 22:46:00 | 日記
9月15日の礼拝の内容です。讃美歌は351.528.544.579.26です。

オンラインのアドレスは、https://youtube.com/live/5kPaua2QedI?feature=shareです。



礼拝説教    使徒11:19~30「キリスト者と呼ばれて」  2024.9.15


 アンティオキアの町での出来事です。アンティオキアの町は当時、世界第3の町といわれていました。ローマとアレキサンドリアにつぐ町の大きさがありました。約80万人が住んでいたといわれています。異教の盛んな町であって、いろいろな偶像が町のあちらこちらにあったといわれています。使徒言行録の中で、今日の内容は、世界で初めての異邦人教会が誕生するというものです。


 ステファノの事件をきっかけとして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行きましたが、まだユダヤ人以外には誰にもイエス・キリストの福音を伝えてはいませんでした。しかし、です。散っていったユダヤ人の中に、キプロス島やアフリカのキレネから来た者がいました。この人たちは、アンティオキアに行き、ギリシャ語を話す人々にも、イエス・キリストの福音を語っていったのです。無名のユダヤ人キリスト者といっていいと思います。ペトロや後に出てくるパウロではありません。この無名のキリスト者が異邦人にも、イエス・キリストの福音を伝えていきました。神がこの人々を助けてくださいました。そのことによって、イエス・キリストを信じて、教会が誕生していくのです。救われた人々の数はとても多かったとあります。


 このアンティオキアの町に、異邦人の教会が誕生したということはすぐに、エルサレムにある教会に伝わっていきました。聖書地図を見ると、エルサレムからアンティオキアまで約500kmあります。日本で言うと東京から大阪の距離になります。今は、新幹線や飛行機がありますので、その日に簡単に行くことができますが、当時は徒歩やらくだで行くしかありません。約500kmという距離を乗り越えて、エルサレムの教会の人々は、アンティオキア教会に、バルナバを派遣します。エルサレム教会は最もふさわしい人物を、アンティオキア教会に送ります。バルナバは、もともとキプロス島出身です。そして、人と人とのつながりを大切にする人でした。イエス・キリストと出会った迫害者サウロを、教会に紹介したのです。最初、イエス様と出会ったサウロは、エルサレム教会に来ても、教会の人々は、サウロの行動を知っていましたので、恐れて近づきませんでした。それをバルナバがつないだことによって、教会に入ることができるようになりました。


 バルナバは、アンティオキアの町に到着し、教会に入っていきます。その教会は神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意を持って、神から離れることのないようと勧めるのです。バルナバは立派な人で、聖霊と信仰に満ちていたからです。このようにして、バルナバの導きもあって、教会は多くの人々が神に導かれていきました。教会が成長することによって、しっかりとした指導者が必要になってくることをバルナバは感じたようです。そこで、バルナバは、サウロを捜しにタルソスに行きます。サウロはエルサレムの教会に加わって、それから故郷であるタスソスに帰っていました。それからどのくらいの時間が過ぎていったのでしょうか。このバルナバの導きによって。サウロはアンティオキア教会に来ることができて、バルナバと共に1年間いて、多くの人々に教えたのです。


 この世界で初めての異邦人教会であるアンティオキア教会が誕生して、使徒言行録は、新しい展開をしていきます。それは、それまではユダヤ人中心のエルサレム教会から、異邦人が中心のアンティオキア教会が中心になっていきます。まもなく、サウロ、そうパウロの登場となっていきます。このアンティオキア教会がら、パウロによる伝道旅行が開始されていきます。使徒言行録は、このアンティオキアの町で、弟子たちがキリスト者と呼ばれたのです。


 大きな町で、教会の活動が認められていったのでしょう。キリスト者と町の人々からよばれている、大きな流れにいったのだと思います。


 そのころ、預言をする人々がエルサレムからアンティオキア教会に下って来ました。その中の一人のアガポという者が立って、大飢饉が世界中に起こると、神の霊によって、予告しましたが、果たしてそれが、クラウデウス帝の時に起こったのです。世界中で大飢饉が起こる、いつも時代でも、災害は起こるものなのでしょう。特に被害が多かったのは、ユダヤ地方、エルサレムの教会の人々だったようです。エルサレムとアンティアキアまでは距離にして約500kmあるといいましたが、その距離を乗り越えて、被害の様子を知ったアンティオキア教会の人々は、それぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに、援助の品を送ることを決めています。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託してエルサレム教会の長老たちに届けていくのです。


 誕生したばかりのアンティオキアの教会が、すぐにエルサレムの教会に援助の品を送っていくと素晴らしい行動に目を見張る思いがします。マザー・テレサの活動に次のような話を聞いたことがあります。インドでの活動でした。貧しい一人の少女が、食べ物を求めているのです。一人のシスターが、お米を分けてあげました。少女はその受け取ったお米を持って、家に帰っていくのでした。家では、父親はいなくて、母親が7人の子どもたちを育っていました。そのお米は8人の家族が食べるのには量が少なかったのです。それなのに、母親は、そのお米を半分に分けて、別の場所に行きました。母親が帰って来ると、手にしていたお米はなくなっていました。シスターが母親に聞くと、自分たちと同じように、母親が多くの子どもたちを抱えて生活していることを知っていたので、その家族に分けていきました。心の豊かさといいますか。大飢饉の時のアンティオキア教会の人々の行動を見て、この話を思い出しました。


 今日は、使徒言行録からアンティオキアでできた世界で初めての異邦人教会の誕生の様子を見て来ました。私たちの瀬戸永泉教会はまもなく創立136周年を迎えます。教会の創立のときの人々の様子はいったい、どのようなものだったのでしょうか。いろいろな困難がありましたが、136年という年月を迎えることができています。


 今年の1月1日に、能登半島地震が起こりました。私たちの教会と関わる能登の教会も多くの被害を受けました。5月に金沢で行われた教区総会で、その教会の人々からの報告を受けました。その日、輪島教会の先生と、夕食を食べながら、当日の様子を聞きました本当に大変な状況でした。聞いていて、涙が出て来ました。私たちの教会では、その被災教会を覚えて、献金を続けています。アンティオキア教会の人々は、それぞれの力に応じて、援助をしていました。私たちの教会もそれぞれの思いを込めて、献金していきたいと願います。


祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。アンティオキア教会の誕生の様子を知ることができました。素晴らしい内容でした。私たちの教会も、彼らにならって、よき歩みをすることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

9月11日の祈祷会の内容です。

2024-09-10 17:32:00 | 日記
祈祷会      士師記9:42~57「人の罪とキリストの十字架」    2024.9.11

 旧約聖書を読んでいますと、人間の罪が、人間の現実が嫌と思うくらいに出て来ています。時には目を背けたいと思うこともあります。でも、目を背けず直視することによって、大切なことを学ぶことができると思いますし、イエス・キリストの十字架の意味をより深く知ることができるのではないかと改めて思うのです。士師記9章は、士師ギデオンの子どもたちの物語です。ギデオンは神を信じて大切な士師としての役割をしてきました。しかし、晩年は違う面を見ることになります。ギデオンには多くの妻たちがいて、70人の子どもたちがいました。また、シケムの町に側女からアビメレクが生まれました。このことがギデオンの子どもたちが悲劇につながってまいります。アビメレクは側女の子として、他の兄弟たちからいじめを受けていたと考えられます。アビメレクは大人になると、自分の母親の出身であるシケムの町に来て、町の人たちに、「私の父ギデオンは、あなたたちをミディアン人の脅威から救い出した。それで、ギデオンの70人の息子たちに治められるのと、私に治めされるのとどちらが得か、考えてください。ただし、私はあなたたちの肉親です。」と聞きます。すると、シケムの町の人々はアビメレクに気持ちが動いていきます。シケムの町の人々は、バアルの神殿から銀70を取って、それをアビメレクに渡します。アビメレクは受け取ったお金で、命知らずのならず者を数名雇い入れて、自分に従わせました。そのならず者と共に、ギデオンのいた家で、70人の息子たちを殺してしまうのです。末の子ヨタムだけが生き延びて、身を隠しました。

 ヨタムは、シケムの町の人たちに「アビメレクを王としたことは誠意ある正しい行動だろうか。私の父ギデオンはあなたたちをミディアン人の手から救い出した。それなのに、あなたたちはその息子70人を殺し、自分たちの身内だからというだけで、王とした。その行為はアビメレクから火が出て、シケムをなめつくす。またシケムから火が出て、アビメレクをなめつくす」という呪いをかけています。ヨタムは逃げ去り、アビメレクを避けて生きていきます。アビメレクはシケムで3年間、王として歩みます。ここで神は、アビメレクとシケムの町の人々の間に、険悪な空気を送り込まれたのです。シケムの町の人々はアビメレクを裏切ることになります。ここで、問題をされていることはアビメレクが70人の兄弟たちを殺したこと、そのアビメレクを身内ちということでシケムの王にしたシケムの町の人たちです。こうして、アビメレクとシケムの町の人々の戦いが始まります。結果的に、アビメレクが勝利し、シケムの町の人々は敗北していきます。そして今日の聖書の箇所です。アビメレクは、シケムの町の人々に対する本格的な攻撃を開始しました。野で待ち伏せして、町から出て来る人々を見つけしだい襲います。アビメレクは1日中、シケムの人々と戦い、町を破壊し、塩をまきます。ミグドル・シケムの首長はこのことを聞いて、エル・ベリトの神殿の地下壕に入りました。そのことを知ったアビメレクは、自分の率いる人々を伴って山に登ります。斧を手に取って木の枝を切り、持ち上げて肩に担います。人々に向かって、自分と同じようにすることを呼びかけます。人々はその通りにしました。地下壕の上に枝を積み、火を付けます。こうしてミグドル・シケムの人々、約1000人が亡くなったと書いています。

 アビメレクはまたテベツに向かい、陣を敷き、制圧します。この町の中には堅固な塔があり、男も女も皆、その中に逃げ込んで立てこもり、塔の屋上に上りました。アビメレクはその塔の所まで来て、攻撃しました。塔の入り口に近づき、火を放とうとしました。その時に、1人の女性がアビメレクの頭を目がけて、碾き臼の上石を放ち、頭蓋骨を砕きます。アビメレクは急いで武器を持つ従者を呼び、「剣を抜いてわたしにとどめを刺せ。女に殺されたといわれないために」といいました。従者はアビメレクを刺し、死にました。イスラエルの人々は、アビメレクが死んだので、それぞれ自分の家に帰って行くのです。この時に、ヨタムの呪いが成就したということができます。アビメレクは自分の兄弟たち70人を殺した罪、シケムの町の人々は、そのアビメレクを自分たちの身内ということでシケムの王としたことの罪、それが問われた結果です。これはギデオンの晩年の行為、多くの妻がいて、息子が70人いたこととシケムの側女がいて、アビメレクが生まれたことに起因していると思います。これは神の問題ではなく、人間自身の問題だと思いますが、士師記9:56~57では、神はアビメレクが70人の兄弟を殺して、父に加えた悪事の報復を果たされたとあります。また神は、シケムの人々の行ったすべての悪事にもそれぞれ報復を果たされたとあります。このようにしてシケムの人々は、エルバアルの子ヨタムの呪いをその身に受けることになったと書いています。

 申命記28章には、神の祝福と呪いのことが書かれてあります。これは神の教えを守ることによって、神から祝福を受けること、実際には平和に幸福に生きることができる。日々の生活がよりよいものとなっていくとあります。反対に、神の呪いとは、神の教えを守らないことで、様々な災いを受けることがあります。地上で人間が行う行為が、神の目に届いているということだと思います。

ヘブライ9:26~28
ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 ここには、人は一度死ぬこととと、その後に最後の審判を受けることが決まっていると書かれてあります。この時に、イエス・キリストは、一度目には多くの人の罪を負うために十字架についたこと、二度目にはキリスト者に救いをもたらすために来てくださると書いてあります。私たちの罪とイエス・キリストの十字架のつながりを知ることができます。

祈り 神よ、聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございました。士師記を学んでいます。ここには人間の罪の現実が書かれてあり、時にはとても辛い思いになってしまいます。どうして、人間はこんなにも罪を犯してしまうのかと、でもそれが人間の罪の現実であり、そのためにイエス・キリストの十字架が必要なのです。イエス・キリストの十字架を見上げて、信仰生活を送ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。